071 最も安全で、最も危険な相席
「あ……」
一人残されたコートニーは、未知のジャングルに放り出された、迷子のヒツジのような心境だった。
(まずいわ、唯一の護衛、ジェーンさんが離脱しちゃうなんて聞いてないし。でも……)
「彼女は、遊びに来ているわけじゃないし」
生きるためにお金を稼ぎに来ているのだ。その方法はもちろん賛否両論あるだろうが、彼女は彼女なりに、必死に明日を生きるために「戦場」へ赴いた。それを邪魔する権利など自分にはない。
コートニーは小さく息を吐き、乱れた論理を再構築した。
(目的を見失ってちゃだめ。私はあくまで観測者。この不道徳な熱帯雨林における、生態調査を行いに来ただけよ)
幸い、人混みの端に、壁を背にした二人掛けの空いたソファを見つけた。
(あそこなら死角が多く、かつ室内を広く見渡せそう)
コートニーは迷わず移動し、スカートを静かに整えて腰を下ろす。
周囲には、相変わらず「紳士と淑女」たちの嬌声が響いている。
一度座ってしまえば、コートニーの脳内は急速に「状況解析モード」へと切り替わっていった。
(……左斜め前方、四十五度。あちらの閣下は、きっと昼間の議会では『純潔こそが国家の礎』などと演説しておきながら、今は仮面の女性の耳たぶを甘噛みしてるってわけね。矛盾指数は計測不能。右側の閣下は、手袋すら外さず淑女の太ももを撫でている……。清潔感の誇示と接触欲求のジレンマといったところかしら?)
膝の上で、目立たないよう小型の手帳を開き、分析結果をサラサラと書き込んでいく。
「お一人ですか? 随分と熱心に、フロアの『検体』たちを観察されているようですが」
不意に横からかけられた声に、コートニーの肩が跳ね上がった。
「わっ……!」
(まずい。観察に夢中になりすぎて、パーソナルスペースへの侵入を許しちゃったわ!)
慌てて手帳を閉じ、ドレスの隠しポケットに滑り込ませる。
それから隣を見ると、いつの間にか一人の紳士が立っていた。彼はこの場にふさわしい黒のドミノマスクで目元を隠し、手には琥珀色の液体が揺れるグラスを二つ持っている。
「……何かご用でしょうか。私はただ、連れを待っておりますの」
「お連れ様は、あちらの紳士と熱烈な交渉中のようですよ。そんなに警戒しなくてもいい。今夜は初夏の心地よい宵だ。喉を潤すくらいの余裕は持つべきだと思うけど?」
男は流れるような動作で、トレイも使わず、片方のグラスをコートニーに差し出した。
(ん? この声……どこかで聞いたことがあるような?)
明るくはずんだ、どこかからかうような感じ。脳内の音声データバンクを検索するが、この退廃的な空間というノイズのせいか、特定に至らない。
「どうぞ。この店自慢の、度数を極限まで抑えたシェリーだ。君のような……『勉強熱心な淑女』にはぴったりだと思うけど」
「な……っ。私が勉強熱心だと、何を見て判断されましたの?」
「仮面の下の鋭い視線、ポケットサイズの日記帳、そして何より、さっきから男性たちの挙動を、まるでおぞましい昆虫の標本でも見るような目でカウントしていたからね」
男は仮面の奥で、愉快そうに目を細めた。
(完全にプロファイリングされてるし!)
コートニーは内面で悲鳴を上げた。自身の「観察」が、逆に「観察対象」になっていたとは。
論理的完璧さを自負していた彼女にとって、これほどの計算違いはない。
「……頂戴しますわ。喉が渇いていたのは事実ですから」
これ以上動揺を見せるのは得策ではないと判断し、コートニーは差し出されたグラスを受け取った。指先がわずかに触れそうになった瞬間、男の手から漂う、わずかな煙草の香りと、覚えのあるシダーの香りが鼻腔をくすぐる。
(この香りって……)
コートニーの脳裏に、義理の兄フレデリックの端正な容姿が浮かび上がる。
蜂蜜を溶かしたような柔らかな金髪に、どこかお調子者な印象を与える、垂れ気味の目元。その奥に湛えられた、温かな琥珀色の瞳。
「隣に座っても?」
一瞬悩んで、コートニーは小さく頷いた。
「……どうぞ。公共の椅子を独占する権利は、私にはありませんから」
「相変わらず、可愛げのない言い回しだね。……あぁ、いや。今夜会ったばかりの女性に言う言葉じゃなかったかな」
男は隣に腰を下ろすと、長い足を優雅に組み、手にしたグラスを軽く傾けた。その所作一つひとつが、コートニーが幼い頃から見慣れてきた、あの「ちょっと残念な義理の兄」の動きに酷似している。
(……黒。限りなく、黒に近いグレー)
コートニーの脳内警戒アラートが鳴り響く。しかし、確証はない。仮面のせいで目元は隠れているし、ここは光量の落ちた社交クラブだ。
「それで? 勉強熱心な君のその日記帳には、今夜の『獲物』の名前がびっしりと書き込まれているのかな?」
「まさか。これは……その、今日食べたデザートの成分分析と、カロリー計算の結果を記録しているだけです。個人の健康管理の一環ですので、他人が気にするようなことではありませんわ」
横目でさりげなく隣の男を確認する。
そこには「やはり」というべき、見知った横顔があった。
(……なぜ?)
「こんなに女の子がいるのに……」
よりによって、実の妹に声をかけてしまうのだろう。
コートニーは仮面の下で、兄の引きの悪さ……あるいは致命的なまでの観察力の欠如に、深い溜息をついた。
(まぁ、当然か。フレデリックにとって、私がこの『ホワイト』に潜入している確率は、隕石が直撃する確率よりも低いと算出されているはずだろうし)
「まさかコートニー?」なんて疑惑は、その頭の片隅をかすめもしないのだろう。
「それで、そちらの『成分分析』の結果はいかがかな? この場の空気は、少々脂っこすぎるかもしれないけれど」
フレデリックは、グラスの縁を指でなぞりながら、事も無げに問いかけてきた。
コートニーは冷や汗が背中を伝うのを感じつつ、努めて冷静な「令嬢モード」の声を出す。
「ええ。飽和脂肪酸の過剰摂取が懸念されるような、不健康な熱気に満ちていますわ。……ところで、殿方。あなたは先ほどから私を観察されているようですが、ご自身については語らないのですか? 例えば……なぜ、わざわざ一人でいる女性に、これほどリスクのある声をかけたのか、といったことを」
「リスク?」
フレデリックは声を立てて笑った。
その笑い方は、家でパンケーキの焼き加減を自慢する時のフレデリックそのものだ。
「こんなに美しい女性が、毒針を隠し持った蜂のように周囲を刺さんばかりの目で見つめているんだ。紳士としては、その毒を中和して差し上げたいと思うのが人情というものだろう?」
(フレデリック……目を覚まして、あなたが甘い言葉を吐いてるのは義理の妹だから!)
コートニーは内心で毒づく。
ただ、ここで正体を隠したままフレデリックを捕まえておけば、彼が他の女性と羽目を外す……つまり、妹として絶対に見たくない「気まずい身内の醜態」を目撃するリスクを回避できる。
さらに、不道徳な輩がうろつくこの会場において、フレデリックの隣は皮肉にも最も安全な「避難所」となり得るのだ。
(これも一つの合理的選択ってわけね)
コートニーは覚悟を決め、グラスを受け取るとフレデリックの方へ向き直った。
「毒だなんて心外ですわ。私はただ、この場所の……そう、『生態系』に興味があるだけですから」
声を少し低めに作り、淑女の微笑みを仮面の下に張り付けて、彼女は「兄」との奇妙な相席を受け入れた。




