070 仮面の紳士と、聖域の闇
目的地である紳士クラブ『ホワイト』の入口には、精緻な彫刻が施された重厚な木製ドアが鎮座していた。その前に立った瞬間、ジェーンのまとう空気が一変する。
鮮やかな赤いドレスに身を包み、濃く引いたルージュを妖艶に歪めて微笑む彼女は、夜の毒気を凝縮したような美しさを放っていた。それは紛れもなく、仕事モードに入った証だった。
彼女は、聖域を護る彫像のように立ちはだかる門番へ迷いのない足取りで近づくと、指先に挟んだカードをそっと差し出した。
「エドウィーナの紹介よ」
その一言が、秘密の扉を開く呪文となる。
カードを一瞥した門番は、目元を覆う羽根飾りの仮面を差し出した。鉄仮面のように無機質だった表情をわずかに緩め、恭しく二人へ道を譲る。
「ジェーン様、それにコニー様ですね。エドウィーナより伺っております。……お二人は二階のサロンへお進みください」
ジェーンが事前に手配しておいたのだろう。その愛称が、コートニーの新しい偽名として、夜の静寂に溶けていく。
(コニー……。いつもの私とは切り離された、潜入者の名前ってわけね)
その響きを心の中で反芻し、小さく頷いて足を踏み出す。
「失礼します」
通り過ぎようとした瞬間、門番の視線がナイフのような鋭さでコートニーを上から下まで上下した。
背筋に冷たい戦慄が走る。
(っ……! 何か不自然だった?)
借り物の派手なドレス、慣れない化粧。
(ま、まさか! この場に相応しくない「伯爵令嬢の潔癖さ」が漏れ出しちゃってるのかしら!?)
コートニーの剥き出しの肩が、夜風とは違う冷気に震える。
心臓が早鐘を打ち、隠し持った手帳の重みが急に増したような錯覚に陥る。しかし、門番の口から漏れたのは疑念ではなく、含みのある忠告だった。
「……そちらのお嬢さんは、いささか『生真面目』が過ぎるようだ。ここは、そういう場所ではありませんよ。コニー様」
「……善処いたしますわ」
上擦りそうになる声を必死に抑え、コートニーは仮面の下に淑女の微笑を張り付かせた。
「ごめんなさいね。この子、今日が初めてで緊張しているのよ」
ジェーンが手際よく間に割って入り、彼女の肩を抱いて中へと促す。その際、ジェーンの指先で冷たく輝く母の形見、サファイアの抜けるようなブルーが、コートニーの視界を掠めた。
(……そうですわ。怯えている暇なんてない)
門番の重圧を振り切り、彼女は覚悟を決めて一歩を踏み出した。
「コニー、仮面をつけて」
「あ、はい」
言われた通り、仮面を装着する。
「じゃ、いくわよ」
「ええ」
二人は視線を絡めたあと、二階へと続く階段を登る。
「例の人にバレないようにね」
階段を登りながら、ジェーンがからかうように告げた。
「大丈夫、今日はどこかの夜会に出席するって言ってたから」
コートニーはステアの行動をリサーチ済みであることを告げる。
マイロ情報によると、本日ステアはチャリティー色の強い夜会に出席予定となっている。だから鉢合わせすることは絶対ない。
問題は、フレデリックと父の方だ。
(でも、仮面してるし)
何より今日のコートニーはしっかり髪をあげているし、お化粧だってしっかりしている。
ドレスだってジェーンから借りた、普段の彼女なら絶対に選ばないような、扇情的なカッティングのものだ。
(いつもの「地味で堅物なコートニー・コンラッド」を見分けられる者など、この場には一人もおりませんわ。……ええ、論理的に考えて、正体が露呈する確率は限りなくゼロに近いはず)
自分に言い聞かせるように、コートニーは背筋を伸ばす。
「誘っておいてなんだけど。わりと衝撃的かも知れないから、覚悟しておいてね」
「衝撃的ですか?」
コートニーの問いに答えることなく、ジェーンは目の前の重厚な扉を開けてしまう。
そこには街灯の届かない、濃密で贅沢な闇の世界が広がっていた。
一歩足を踏み入れた瞬間、コートニーの嗅覚を刺激したのは、安物の酒場とは一線を画す最高級の葉巻と、熟成されたオーク樽の芳香。そして、どこからか聞こえてくる低いピアノの旋律と、男たちの抑制された、それでいてどこか野卑な笑い声。
(ここが、紳士たちの聖域……)
コートニーは、仮面の下で目を凝らす。
金色の光を放つシャンデリアはあえて光量を落とされ、深い赤の絨毯が足音を吸い込んでいる。ソファに深く腰掛けた紳士たちは、静かにグラスを傾けながら、仮面で素顔を隠した淑女たちとの秘めやかな会話を楽しんでいた。
ただその距離は、明らかに紳士淑女に許される距離ではない。
男性が膝の上に女性を抱えていたり、座る男性に向き合うように女性が男性の上に乗っかっていたりと、かなり問題アリな状況だ。
「これは、ないわ……」
衝撃的な光景に、コートニーは自分の顔が赤面していることを自覚する。
(半分だけでも、仮面で顔が隠れていて良かったわ)
コートニーがホッと一息ついた瞬間。
「お嬢さん、よければ私とどうかな?」
さっそく声をかけられて、びくりと肩をあげる。
(落ち着くのよ、コートニー・コンラッド。これは単なるフィールドワーク。未知の検体とのファーストコンタクトに過ぎないわ。心拍数の上昇は生理現象として許容範囲内!)
コートニーは仮面の下で必死に自分を鼓舞し、目の前に立つ男性を観察した。
男は、この蒸し暑いクラスコーの初夏にはいささか重厚すぎる装いだが、それが逆に彼の地位を物語っていた。
最高級のウールで仕立てられた、ミッドナイトブルーのフロックコート。その下には、初夏の宵にふさわしい涼やかな白いピケ織りのジレを覗かせ、胸元には丁寧に結ばれた絹のアスコット・タイが、一点の曇りもない真珠のピンで留められている。
手には、季節に合わせた淡い色の革手袋と、黒檀のステッキ。 隙のないその姿は、昼間の議事堂で見かければ誰もが敬意を表する「完璧な紳士」そのもの。
(……これほど完璧な正装を維持しながら、この破廉恥な空間に馴染んでいるなんて。まさに論理的矛盾の極みなんだけど!)
さらにコートニーは気付いてしまう。声をかけてきた男性の視線は、もはやコートニーを通り越し、隣に立つジェーンの露わになったデコルテと、その妖艶な微笑みに釘付けだということを。
(なんてこと!!)
紳士の装いでありながら、欲望をそのまま瞳に宿し、あからさまな視線で女性の肉体を品定めしている。
(外装と中身の乖離が著しすぎますわ!これが……これが一流の教育を受けたはずの紳士たちの真の生態だというのですか!?)
コートニーが内心で激しい憤りを覚えている間にも、事態は進行していく。
「ふふ、今夜の私はとっても高くつくわよ?」
ジェーンは扇で口元を隠し、試すような視線を男に投げた。男は鼻を膨らませ、二つ返事で彼女を連れ去ろうとする。
ジェーンはコートニーにだけ分かるように、仮面の奥で「うまくやりなさいよ」とウィンクを送り、そのまま男の腕に絡みついて人混みの奥へと消えていった。




