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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第二章:檻の外へ ――王子と机の下の攻防
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007 名前を聞かれたら終わり

 貴族の屋敷に勤める使用人たちは、機械ではなく生身の人間だ。


 主が夜会に出席し、屋敷を空ける夜、彼らは交代で地下に下がり、短い仮眠を取る。だからこそ、ヒスコック伯爵家では、唯一屋敷に残る娘の部屋に、外から鍵がかけられている。


「でも、まさか窓から抜け出すなんて、誰もそんなふうに思わないわよね」


 コートニーは、自分の令嬢らしからぬ大胆さと、運動神経の良さに、口元を緩めた。


「さてと、早いとこ馬車乗り場に急がないと」


 窓から縄の代わりとして吊り下げた、カーテンをつなぎ合わせたそれから視線を外し、急いで必要最低限の物を入れたリュックを背負うと、素早く裏門から屋敷を脱出した。


「あー、僕」


 コートニーは頭に乗せたハンチング帽を目深に被り、低めの声を出す練習をしながら通りを駆け抜ける。


 現在の彼女は、ベージュのズボンにジャケットという出立ちだ。この服はタウンハウスの物置部屋にあったフレデリックのもの。随分前に彼がサイズアウトしたものを、コートニーがリメイクして体に合うよう整えていた。


「幾分、貴族感は否めないけど……わりとイケてる」


 夜道を速歩きしながら、わざとツギハギを足した部分に、彼女はニンマリとしながら、まるで羽が生えたように軽い足取りで、ウエスト地区の中心へと足を進める。


 思っていたより人が少ないのは、ここが比較的治安が良いとされ、多くの貴族がタウンハウスを構える地区だからだろう。


「この時間は、ほとんどの人が何かしらの夜会に参加しているだろうし……通りが静かなのも納得って感じ」


 昼間の雰囲気とは打って変わり、静まり返った夜道は正直怖い。コートニーはボソボソと独り言を漏らし、自分の気持ちを奮い立たせた。


 足裏に石畳の冷たさを感じながら、走り出さない程度に、しかし急いで歩く。今は何としても、顔見知りに会う恐れのあるウエスト地区を脱出し、人が集まるセントラル地区へ向かうことが先決だ。


「意外に寒いわね……くしゅん」


 街灯のわずかな灯りに照らされた歩道を進み、コートニーはひたすら馬車乗り場を目指した。





 ◇✧◇✧◇✧◇





 屋敷を窓から抜け出したコートニーは、ウエスト地区から乗り合い馬車に乗り、セントラル地区へ向かう。


 乗り合い馬車に乗るのは、もちろん初めての経験だ。仕組みがよくわからない上に、見知らぬ人と同じ空間に密閉されるという状況に、多少ビクビクしてしまうのも無理はない。


 揺れる馬車の中、仄かな光の下で、コートニーはお守り代わりの日記帳をそっと開く。パラパラとめくり、地図を貼り付けたページを見つめた。


(王城を中心に、西は貴族街、東は行ってはいけない場所、南は広大な工業地帯。そして、私が今目指している西のウエスト地区からセントラルへの境界線……)


 指先で地図をなぞる。


 区画整理された王都は、中心にある王城を囲むように、東西南北それぞれ大きく区域が分かれている。しかし残念なことに、彼女が目指すフィデリア国行きの船は、王都の港からは出航していない。

 そのため、フィデリア国行きの船に乗るためには、王都中心部にあるウォータール駅から汽車に乗り、二時間半ほど南へ下った港町――サンプトンへ行く必要がある。


(ウォータール駅まではいいとして……そこからサンプトンまで汽車か)


 汽車に一人で乗る。

 しかも二時間半も、一人で。


(もし名前を聞かれたら? もし疑われたら?)


 その一つで、すべてが終わる。


(想像では何度もトレースした道のりだけど、実際に一人で座席に揺られるとなると……心臓が口から飛び出しそう)


 日記帳を持つ指先に、ぎゅっと力が入る。


 生まれてから今日まで貴族の令嬢として生きてきたコートニーにとって、移動といえば豪華な馬車に、御者や護衛、侍女たちが付き従うのが当たり前だった。


 それが今は、一人で切符を買い、行き先を確認し、見知らぬ人々と肩を並べて運ばれている。


(まるで、これから売られる野菜みたい)


 それは彼女の人生において、ある種の「革命」に近い出来事だった。


(……大丈夫。すべて順調だもの。余裕よ)


 コートニーは地図のページを指でなぞりながら、自分に言い聞かせるように深く息を吐いた。


 乗り合い馬車が大きく揺れ、隣に座っていた酔客の肩が、コートニーにぶつかる。


「……あ、すまねぇな、お兄さん」


「……あぁ、気にするな」


 咄嗟に低く作った声で短く答える。冷や汗が背中を伝ったが、相手は彼女の正体など露ほども疑っていない様子で、再びいびきをかき始めた。


(……やれているわ。私は今、ただの『少年』として世界に溶け込んでいる)


 少しずつ自信が湧いてくるのを感じながら、コートニーは窓の外を見た。


 やがて馬車の速度が落ち、巨大な時計塔を備えたウォータール駅の堂々としたたたずまいが、ガス灯の光の中に浮かび上がる。


「……降りろ。坊主はここまでだろ」


「あ、ありがとうございます」


 御者のぶっきらぼうな声に肩を震わせ、コートニーは慌てて馬車を降りた。


 彼女ただ一人を降ろした馬車は、軽快に石畳を叩きながら、夜の街へと消えていく。


「みんな……どこに行くんだろ」


 自分しか降りなかったことに首を傾げ、振り返る。そこには、王都の心臓部とも言えるウォータール駅の巨大な石造りの駅舎が、怪物のように口を開けて待っていた。


「大きいわね……」


 令嬢らしい感嘆が漏れそうになり、慌てて口を噤む。


 蒸気の熱気と石炭の匂い。それらが混ざり合った、時代の最先端を行く機械文明の香りが、巨大な吹き抜けを支配していた。


 コートニーはハンチング帽を深く被り直し、フレデリックのジャケットの襟を立てて、駅舎へと足を踏み入れる。


 見上げるほど高い天井、鉄骨の梁。


(……すごい。本当に、別の世界に来たみたい)


 一歩進むごとに、石鹸と香水の香りしかしなかった「ヒスコック伯爵家のコートニー」が、削ぎ落とされていくような感覚。


 切符売り場を探し、巨大な木の板に手書きで並べられた時刻表を見上げる。


「サンプトン、サンプトン……え、嘘でしょ?」


 頭が真っ白になり、呆然と立ちすくむ。


「駅って……やってない時間があるの?」


 《サンプトン行き 始発 午前五時五分》


 そう書かれた看板の前で、動けなくなる。


「五時って……まだ六時間以上もあるじゃない!」


 思わず地声が出そうになり、コートニーは慌てて両手で口を塞いだ。


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