069 紳士クラブ潜入と、キスの話題は想定外です2
「確かに、ジェーンさんの仰る通りかもしれません。ですが、私たち貴族にとって、身体は自分ひとりのものではないのです。家名、領地、そして次代へと繋ぐ血統……それらを守るための『器』としての側面が、個人の感情よりも優先されてしまいます」
「血統ねぇ。まるでお馬さんの話をしてるみたい」
ジェーンは皮肉っぽく笑い、煙草を指先で弄んだ。
「でも、あんた。そんな窮屈な理屈を並べてるけど、心までは縛られてないんでしょ? さっき『キス』って単語を出しただけで、茹で上がった蛸みたいになってたじゃない」
「それは! その、あまりにも直接的な言葉を向けられることに慣れていないだけで……」
「ふーん。じゃあ、もし。もしもだよ?」
ジェーンは一歩、コートニーに歩み寄った。彼女が纏う、安物の香水と煙草が混じった、どこか鼻を突くけれど癖になるような香りがコートニーの鼻腔をくすぐる。
「家柄も、結婚も、義務も全部抜きにして。目の前に、どうしても触れたい、触れられたいって思う男が現れたら、あんたはどうするの? 法律と家名のために、その『自然な気持ち』を殺して、一生お利口な人形で居続けるわけ?」
「…………」
コートニーは言葉に詰まった。
(そんなの、わからないわ)
そもそもコートニーが出会う男性の多くは、「わきまえた紳士」ばかりだ。
しかも、デビュタント後に参加した舞踏会で血濡れた令嬢となり、その後、ステア預かりとなった彼女は、男性からこっそり庭園の物陰に連れ込まれたり、情熱的な言葉で口説き落とされそうになったりするチャンスを失った。
(つまり、私は一生自然な気持ちとやらを感じる機会を損失したってこと?)
貴族令嬢として、危険から遠ざかっているという意味では、これ以上ないほど安全な環境に置かれていると言える。
けれど、「お利口な人形」という言葉が、逃げ場のない真実として、鋭い針のようにコートニーの胸に刺さった。
「……私の周りには、そういった『無作法』な方はおりません。皆さま、私をステア殿下の所有物か、あるいは触れてはいけない壊れ物のように扱われますから」
自嘲気味にそう告げると、コートニーは自分の指先を見つめた。
「でも、もし……もしも、そんな方が現れて、私の理性を力ずくで剥ぎ取ろうとしたら……私が私でいられる自信なんて、どこにもありません」
それは、自分でも驚くほど素直な吐露だった。
規律と論理で固めた心の城壁が、ジェーンの放つ紫煙と夜の熱気に、少しずつ溶かされていく。
「へぇ……。あんた、面白いこと言うじゃない」
ジェーンは面白そうに喉を鳴らした。
「『触れられたことがないから、どうなるか分からない』。最高にそそる台詞ね。それ、中の男たちに言ったら一撃で落ちるわよ。あんた、自覚ないだろうけど、その危うい感じが一番男を狂わせるんだから」
「か、揶揄わないでください……!」
真っ赤になるコートニーを見て、ジェーンは「あはは」と快活に笑い、最後の一服を吐き出した。
「はいはい。冗談はこれくらいにして」
ジェーンは、地面に落とした煙草を、尖った靴の先でもみ消す。
「今夜のあんたは、高潔な伯爵令嬢じゃない。『ホワイト』の華やかな闇に紛れる、名もなき淑女なんだからね?」
ジェーンが腕にかけた小さなハンドバックから薄いレースの手袋を取り出した。
「あ、でもさ、殿下には私が連れ出したってことは、絶対内緒にしてよね?」
細い腕を手袋でしっかり覆うジェーンに、しっかり釘を刺された。
「もちろんそれは、承知しておりま……」
返事をしようとしたコートニーの言葉が、不自然に途切れた。
ジェーンが手袋の上から、仕上げとばかりに嵌めたサファイアの指輪。
それを見た瞬間、コートニーの胸に、息が詰まるほどの衝撃が走ったからだ。
(……えっ、嘘でしょう!?)
コートニーの若草色の瞳に映るのは、オーバルカットのサファイアを、繊細なダイヤモンドがぐるりと縁取った、特徴的な金の指輪だ。
それは、父が母エリノアに贈り、コートニーが形見として家出の際に持ち出した、かけがえのない宝物にそっくりだった。
孤児院でトランクケースごと盗難に遭い、二度と戻らないと諦めていたはずの遺品が、今、目の前の女性の指で冷ややかに輝いている。
「……指輪、とても綺麗ですわね」
何気ないふうを装おうとしたが、自分でも分かるほど声が震え、隠しきれない疑念が混じる。
「ふふ、素敵でしょ? ナナから破格の値段で買い取ったのよ」
ジェーンは自慢げに微笑み、うっとりと指輪を見つめた。
(ナナ……ナナ・ボーイズさんね……!)
修道院に身を隠していたコートニーを見つけ出し、五十リンクで売った、人当たりの良い女性。
(トランクを盗んだ犯人は、やっぱり彼女だったんだ)
コートニーの中で、点と線が繋がった。
問題は、ジェーンが「購入した」と言っている点だ。彼女が盗品と知らずに正当な対価を払っているならば、無理やり取り上げるわけにはいかない。
「ほら、行くよ。もぐりの先生が作ってくれた『真っ白な証明書』を盾にして。紳士の仮面の裏側で、どんな不道徳な世界が広がっているのか、その目で確かめてきなさいな」
ジェーンは固まるコートニーの手を引いて、軽やかな足取りで通りの向こうへ歩き出した。
(ここで騒ぎ立てては、潜入捜査が台無しになる。……落ち着け、コートニー。所在が分かっているのなら、折を見て買い戻す交渉をすればいいだけの話だし)
コートニーは乱れる呼吸を整え、未踏の地への好奇心に「形見の奪還」という新たな目的を上書きした。
「……ええ。行きましょう。私の『理性』が、どこまで通用するのか試すためにも」
二人は路地の闇を抜け、煌々と明かりが灯る『ホワイト』の裏口へと歩き出した。そこでは、夜の蝶たちが怪しく羽ばたき、欲望と秘密が混ざり合う香りが漂い始めていた。




