068 紳士クラブ潜入と、キスの話題は想定外です1
ついに、コートニーが指折り数えて待った紳士クラブ『ホワイト』に、潜入捜査の日がやってきた。
知的好奇心が限界突破し、瞳には怪しいまでの輝きが宿っているコートニーは、鏡の前で自身の姿を最終確認する。
(うん、いいじゃない)
潜入にあたってコートニーが着用しているドレスは、ジェーンが「ここぞという時の勝負服」のひとつとして貸し出してくれたもの。
夜の闇に溶け込むような深いミッドナイトブルーのドレスだ。
問題は、それをコートニーが着こなすには少々……いや、かなりの物理的な課題が立ちはだかったということだ。
(二十歳のジェーンさんと、十六歳の私……。たった四歳の差で、これほどまでに容積の差異が生じるなんて、生物学的な神秘というよりはもはや不条理ですわ)
ジェーンが着れば魅惑的な曲線を描くはずの襟ぐりは、コートニーが袖を通すと、まるで崖から今にも滑り落ちそうなほど心許なく横に広がり、ウエストから腰にかけてのラインも、悲しいかな布地が余り、だらしなく弛んでしまった。
(結局、昨夜は一晩中、手帳の代わりに針と糸を握る羽目になったし)
コルセットで無理やり該当部分を盛り上げることも検討したが、潜入捜査における機動力の低下を懸念し、コートニーは自ら「仮縫い」によるサイズ調整を決行。浮き上がってしまう胸元をつまんで縫い留め、余分な布地を内側に隠してピンで固定することで問題を解決した。
苦労の末、どうにか鏡の前に立ったコートニーの姿は、いつもの清楚な令嬢とは、まるで別人。貴族令嬢としての常識を大きく逸脱するものだ。
「……よし。これで、サイズに違和感はないはず」
仮縫いのおかげで、幾分かタイトなシルエットになったドレスは、ジェーンほどの「迫力」はないものの、慣れないドレスに少しばかり背伸びをした女性特有の危うい魅力が、絶妙なアンバランスさを醸し出している。
「……ふふ、準備万端。ステア殿下、あなたが隠し通している『本命の恋人』の正体、そして紳士クラブという名の不潔な社交の実態。このわたくしが徹底的にデータ化して差し上げますわ!」
手元には、薄暗い店内でも迅速に筆記できるよう、特注の小型手帳と鉛筆をスカートの隠しポケットに忍ばせている。
大人びたドレスを身につけたコートニーは、夜霧に紛れるように、ひっそりと王城の独身寮を抜け出した。
脳裏に浮かぶのは、いいつぞや王妃エロイーズと交わした約束。
「エロイーズ殿下、今夜私は必ずや、殿下の鉄面皮を剥がして赤面させて見せます!」
知的好奇心という名の燃料を得て、彼女の瞳は夜霧の中でも爛々と輝いていた。
◇✧◇✧◇✧◇
「受付で書類を渡せって言われるだろうから、私がまとめて渡すね。書類作成の代金は、余った切手代をもらうってことで、チャラね?」
集合場所近くの裏路地で合流するなり、ジェーンはさも日常的な事務手続きであるかのように告げた。
「ドレスも貸してもらいましたし、全然構わないですけど、書類ってなんですか?」
「何って、性病検査の陰性証明書だよ。ホワイトみたいな高級な場所は、こういうのがしっかりしてないと入れてくれないんだから」
「け、検査……!?」
コートニーは目を白黒させた。そんなもの、いつの間に用意したのか。
そもそも、未婚の令嬢であるコートニーには、そんな検査を受けに行った記憶など、天地がひっくり返っても存在しない。
「ジェーンさん、その……私はそのような診断を受けた覚えはありません。どうやってその書類を用意したのですか?」
「ああ、それ? いつものもぐりの医者様に頼んで、あんたの名前で一通書いてもらっただけ。もちろん、中身は『シロ』でね」
ジェーンは事もなげに、けろりと言ってのけた。
「も、もぐり……!? 明白な公文書偽造、あるいは医師法違反に該当するのでは?」
「硬いこと言わないの。もぐりだって、私たちにとっては立派な先生だよ。安く済むし、余計な説教もしない。それにさ」
ジェーンは仮面の奥の瞳を悪戯っぽく細め、コートニーを上から下まで眺めた。
「未婚の伯爵令嬢様が、正真正銘の本物の病院へ行って『紳士クラブに潜入したいので性病検査をお願いします』なんて言うのと、どっちが大きな問題になると思う?」
「っ……!」
ぐうの音も出なかった。
論理的思考を武器とするコートニーにとって、これほど反論の余地がない正論(?)を叩きつけられるのは屈辱的ですらあった。
確かに、本物の診断書を求めて病院の門を叩けば、翌朝には「コンラッド伯爵令嬢、乱行の疑いか」と社交界紙の一面を飾ることは火を見るより明らかだ。
(違法行為というリスクと、社会的抹殺というリスク。天秤にかけるまでもないってわけね)
「……合理的な判断です。感謝いたします、ジェーンさん」
コートニーは頬をわずかに赤くしながら、絞り出すようにそう言った。
「でしょ? というか、コートニー様って、男性経験あるの?」
「ふぇ!?」
突然の質問にコートニーは、素っ頓狂な声を上げてしまう。
「いやいや、無いです」
「え、じゃあ純潔なの?」
「じゅ……!? え、えぇ、まぁ……」
顔が真っ赤に染まる。
恥ずかしさで死にそうだ。
「でも、キスぐらいはしたことあるでしょ?」
「き……き、キス!?」
コートニーは、もはや息も絶え絶え、頭を抱えて狼狽える。
「もうその反応だけで分かるわ、コートニー様って純情なのね」
「ど、どうしてそんな事聞くんですか」
不躾な質問を連続でぶつけられて、思わず涙目になりつつ尋ねる。
「え? いや気になったからだけど。時間あるから、一本煙草吸っていい?」
ジェーンが小さなバックから、四角くて薄い缶を取り出した。
「どうぞ」
断る理由もないため、コートニーは頷く。
ジェーンが慣れた手つきでマッチを擦り、細い煙草の先に火をつけた。夜の闇に一瞬、赤々と燃える火種が浮かび上がり、その向こう側で彼女は紫煙をゆるやかに吐き出した。
(煙いけど……美しい女性は煙草を吸う姿さえ、絵画のように様になるのね……)
退廃的な美しさに、つい見惚れてしまう。
「噂では聞いてたけどさ、やっぱり貴族って結婚まで、そういうことしないんだね」
ジェーンの好奇心が、またもやセンシティブな話題に戻る。
(そっか、ハウエル卿の愛人になるかどうか、悩んでいるみたいだったもんね)
きっと貴族階級で生きるための価値観を知りたいのだろう。
コートニーは、ひとり納得して、乱れた呼吸を整えると、自身の矜持を語るように背筋を伸ばす。
「そもそも年頃の娘は、男女関係を疑われないために、男性と二人きりになるなんて論外なんです」
「マジで? 救貧院より厳しくない?」
ジェーンは心底驚いたように声を上げ、呆れた顔で肩をすくめた。
その様子にくすりと笑いながら続ける。
「手袋なしで手を繋ぐことだって大事件なんです。直接肌が触れるなんて、もう……」
コートニーは自分の手を覆う、いつもより薄くて頼りない黒いレースの手袋を見つめた。
(ステア殿下に至っては、私を抱きかかえた罪で婚約する羽目になったわけだし。あの『事故』のせいで、私の純潔指数は社交界において非常に危うい判定を下されているんだから)
つい遠い目になってしまう。
「そんな生活、私なら三日ももたないわ。それにさ」
煙を吐き出しながら、ジェーンはどこか挑発的な色を瞳に宿してコートニーを見た。
「男と女が出会って、恋に落ちる。触れ合いたいと思う。そういう自然な気持ちを完全に無視してない?」
「自然な気持ち、ですか……」
コートニーはジェーンの言葉を反芻し、夜の空気と共に胸の奥へ吸い込んだ。




