067 貴族の愛人は、幸せか?2
「もしかして、ジェーンさんは、ハウエル卿に『愛人になってほしい』と勧誘されているのですか?」
不躾を承知で、核心に迫る質問をしたコートニーの胸が大きく脈打つ。
女子修道院の回廊の石床には、アーチ型の柱の間から、目が眩むほど鮮やかな陽光が幾何学模様を描き出している。
外庭の百合の香りが熱を帯びて漂い、遠くで聞こえる修道女たちの詠唱が、かえって二人の間の沈黙を際立たせる。
「……まあね」
ジェーンはふっと小さく、自嘲気味に口角を上げた。
「あそこ、奥様との間に子供ができないみたいで。だから、もし私に子供ができたら、その子を跡継ぎにしたいんだって。私としても、衣食住の保障をしてくれるなら悪くないかなって思うんだけど。でも、やっぱり本妻さんから見たら、どうなのかなって思ってさ」
一瞬、コートニーの脳裏にサラの顔が浮かび、胸の奥がひやりと冷えた。
だが、すぐにその穏やかな微笑みを、無理やり心の奥へと押し戻す。
たとえ、不妊に悩み、愛人を許すに至った母エリノアの孤独や、彼女が味わったであろう絶望を知識として知っていたとしても――。
(今は、サラ様の気持ちに寄り添っている場合じゃありませんわ。これは純粋な『実態調査』なのですから)
機械的なまでに素早く思考を切り替えたコートニーは、ジェーンを見つめる。
「実際さ、愛人になって幸せになれるのかな?」
ジェーンの口からこぼれた切実な問いかけが、柔らかな風に乗って、修道院の回廊を吹き抜けていく。
「コートニー様、あなたはどう思う?」
ジェーンは欄干に背を預け、眩しそうに目を細めて中庭を見つめた。白く咲き誇る百合の花が、陽光に晒されて、どこか毒々しくさえ見える。
「少なくとも、掃き溜めみたいな下町で、一生誰にも見つからずに朽ちていくよりは、シルクのドレスに身を包んで、豪奢な食卓につく方が『マシ』だとは思わない?」
彼女の声は、淡々としていた。けれどその言葉の端々には、逃れられない運命を冷徹に見極めようとする、野生動物のような鋭さが宿っている。
「愛なんて、お腹を満たしてはくれないわ。それに愛人の座っていうのは……常に『賞味期限』との戦いでしょ?」
「賞味期限ですか?」
「子どもを産めば跡継ぎの母になれるかもしれないけれど、もし産めなかったら? あとはさ、ハウエル卿が新しい『飾り』を見つけたら?」
「正直、あまりに危うい賭けだと思います」
コートニーは、感情を排したビジネスライクな声を保とうと努めた。胸の鼓動はまだ速いが、頭脳は新緑の季節の空気のように、澄み渡っていく。
「愛人という選択は、サラ様の……本妻の立場を脅かすだけでなく、貴女自身の尊厳さえ、ハウエル卿の気まぐれ一つで左右されるわけで、実態調査として申し上げるなら、それは極めて投資効率の悪い、不確定要素の多い選択です。たとえ一時の衣食住が保証されたとしても」
「投資効率。ふふ、あなたらしいね」
ジェーンが低く笑い、ふいに向き直った。光の粒を背負って立つ彼女の輪郭が、初夏の陽炎のように美しく揺れる。
「……結局のところ主観的な幸福度は、人それぞれだと思います」
コートニーは、自身の家庭というサンプルケースを脳裏に浮かべ、嘘偽りのない実感を込めて答えた。
「え? なにそれ」
コートニーの回答がよほど予想外だったのか、ジェーンは驚いたように目を丸くした。
「私の実の母は、愛人の存在を容認していました。本妻である母が産んだ私に、なぜか数か月年上の異母兄がいるのは、そのためです」
「え!? ああ……そっか。あなたに義理のお兄さんがいるってことは、確かに愛人のほうが先に子どもを産んだってことになるんだ」
ジェーンは納得したように、細い指先を顎に添えて呟いた。
「そういうことです。貴族にとって、継承者問題は極めて切実なものです。我が家の場合も、愛人であるソフィアが兄を産んでいなければ、私自身の立場は、もっと面倒なことになっていたでしょう。そう分析すれば、義理の兄だけは、許容の範囲内と言えなくもありませんけど」
コートニーは、貴族社会の淑女が口にすべきではない本音を、うっかり漏らす。
コンラッド伯爵家の次期当主となる、腹違いの兄、フレデリック。
お調子者で、少々気弱なところのある彼は、家族ごっこをする中で、コートニーとリリアに対し、常に平等に接しようとしてくれた、唯一の存在でもある。
その上、彼から悪意や憎悪を向けられたこともない。
(……まあ、フレデリックに抱く感情だけは、世間一般の家族愛に近いのかもしれないわ)
もちろん、本人には、天地がひっくり返っても言うつもりはないが。
一人、金髪碧眼に人好きのする笑みを浮かべる義兄の顔を思い浮かべ、コートニーは、密かに口角を上げた。
「なるほどねぇ。コートニー様も色々大変なんだね」
ジェーンは感心したように頷くと、悪戯っぽく瞳を輝かせて身を乗り出した。
「じゃあさ、コートニー様は、ステア殿下と結婚したら、愛人の存在を認める派?」
「……それは、その時になってみないと分かりません」
コートニーは曖昧に答えた。
個人的な信条を言えば、将来の夫が愛人を持つなど、到底許せることではない。
けれど、相手がステアとなれば話は別だ。彼と本物の夫婦になる未来など、万に一つもあり得ない。だから、「どうぞご自由に」というのが正直な感想であり、もしもを仮定したところで、考察する必要すらない事案だ。
(そもそも、婚約破棄した私がこの先結婚できるかどうかも怪しいし……)
自分の未来に立ち込める自分の未来に立ち込める、どんよりとした暗雲を振り払うように、コートニーは軽く首を振った。
「私の未来の話はさておき。ジェーンさん、今のあなたの話から推測するに、ハウエル卿の提案は『純粋な跡継ぎ確保』が主目的だとお考えなのですね?」
「ええ、表向きはね」
ジェーンは欄干から身を離し、修道院の白い石柱を指先でなぞった。
「でも、男の人って結局、大義名分が欲しいだけでしょ? 『家のため』と言えば、どんな不実も正当化できると思っている。……ねえ、コートニー様。もし私が本当に彼の子を産んだら、私はその子の『母親』として、表の世界の空気を堂々と吸い込めるようになるのかな」
ジェーンの瞳に宿ったのは、先ほどまでの自嘲ではなく、切実なまでの「生」への渇望だった。
「それとも、一生『日陰の女』として、本妻さんの顔色を伺いながら、自分の産んだ子を『坊ちゃま』と呼んで育てることになるの?」
その問いは、コートニーが心の奥底に封印していた、実母エリノアの寂しげな背中を直撃した。
愛人を認め、家系を守るという「義務」を果たした母。その母が、異母兄フレデリックを抱く父の姿をどのような目で見つめていたか。
(……いけない。調査に私情を挟むのは、三流のすることですわ)
コートニーはあえて冷徹なトーンを保ち、弾かれたように言葉を紡いだ。
「ジェーンさん。あなたが『マシ』な生活を求めて賭けに出ることを、私は否定しません。ですが、ハウエル卿が提示しているのは『未来』ではなく『契約』です。契約書にない幸福を期待するのは、あまりに情緒的すぎますわ」
「厳しいね。でも、本当のことだ」
ジェーンはふっと笑い、コートニーの瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「相談……というか、愚痴に付き合ってくれたついでに、いいこと教えてあげる」
ジェーンは声を潜め、わずかにコートニーの耳元へ顔を寄せた。五月の爽やかな風に混じって、彼女が使っている安価だがどこか官能的な香油の匂いが鼻をくすぐる。
「実はさ、前に紳士クラブに行ったとき、ステア殿下にはお気に入りの遊び相手の子がいるって、耳にしたんだよね」
「……は?」
唐突に明かされた事実に胸の奥が、きゅっと小さく縮んで、コートニーの思考がフリーズした。
数秒かけて目をパチパチと瞬かせ、停止しかけた脳内の歯車に無理やり油を差し、再び力技で回転させる。
「その情報の出所……いえ、誰から聞いたのですか?」
「紳士クラブ『ホワイト』の連中だよ」
「なるほど……」
ふむふむと頷きつつも、コートニーの内心は激しく波打つ。
(まさか殿下、身分違いの恋に悩んでいたの!?)
思考の歯車が、猛烈な勢いで回転し始める。
修道院でのあの一件により、自分との熱愛疑惑が世間に報じられた。
ステアはそれを逆手に取り、本命の彼女をスキャンダルの目から隠すため、そして王室からの「結婚の重圧」を回避するために、自分との偽装婚約という盾を選んだのではないか。
(だからこそ、私のピンチには、いつも傍観者を決め込み、いつだって意地悪くからかってくるんだわ。――すべてのパズルが繋がった気がする)
コートニーは、長年の難問を解き明かした学者のような、一種の感動すら覚えてしまう。
「えっとさ」
黙り込んだコートニーを見て、ジェーンは困ったような苦笑いを浮かべた。
「コートニー様も、行ってみる?」
「え?」
一体どこへ、と呆然と問い返す。
「実はさ、近々また『ホワイト』に呼ばれてるんだよね。あそこは、行くだけで割の良い日当が出るし、その上、一晩のお相手を見つけられたら、もっと稼げる。あ、もちろん、コートニー様は誰かとどうこうなっちゃ駄目だけどさ。ステア殿下の愛人がどんな女なのか、探りを入れるのはアリかなって」
「それは……私も行ってよろしいのですか?」
コートニーは、思いもよらない提案に目を見開く。
女人禁制が鉄則であるはずの紳士クラブ――その重厚な扉の向こう側を覗ける機会が訪れるなど、想像だにしていなかった。
(未知の領域、紳士クラブ! フレデリックが漏らす情報しか知らなかった秘密のヴェールに包まれた世界の実態を、この目で観察できるなんて!!)
もちろん、誰かの「お相手」をするつもりなど、毛頭ない。しかし、未知なる社交場への知的好奇心に加え、ステアの「決定的な弱み」を握れるかもしれないという期待が、彼女の胸を激しく高鳴らせる。
「コートニー様は可愛いから、あそこの男たちには大ウケ間違いなしよ。それに、女性が呼ばれる日は、全員仮面をつける決まりになってるから、素性がバレる心配もないしね」
「仮面、ですか……」
どうやら紳士諸君は、妻を家に閉じ込めておきながら、自分たちは顔を隠して羽目を外しているらしい。
(……これは、全貴族女性を代表して視察を行い、しかるべきタイミングで、王妃殿下あたりに奏上すべき案件かもしれない)
突如として、もっともらしい「正義という名の好奇心」が、コートニーの内に燃え上がる。
「ジェーンさん。ぜひ、私も連れて行ってください!」
前のめり気味に参加を志願したコートニーは、その場で彼女と住所を交換した。
切手代を前払いし、手紙でのやり取りを約束し、新たな調査目標を見つけた彼女の心は、すでに未知なる『ホワイト』の夜へと飛び立っていた。




