064 悪役は、現実の方がよほど出来がいい
お渡し会の前半が終わり、コートニーはケビンに案内され、近くのカフェテラス『ロイヤル・レジェンシー』で休憩をとることにした。
(思いの外、疲れた……)
見知らぬ人に愛想を振りまくのも、もちろん骨が折れる作業だ。しかしそれ以上に、サラが持っていた医学書の存在が、強烈な残像として脳裏に焼き付いて離れなかった。
(……いいえ、ダメよ。せっかくの休憩なんだから。サラ様がご主人のために本を買うなんて、どこにでもある『仲の良い夫婦の日常』じゃない)
そう自分に言い聞かせ、運ばれてきたオレンジピールのシフォンケーキを一口運ぶ。しっとりとした生地から広がる爽やかな香りが、こわばっていた神経を少しずつ解きほぐしていく。
「お疲れのようですね、コートニー様。やはり初めての『お渡し会』は、緊張されるでしょう?」
向かいに座るケビンが、気遣わしげに声をかけてきた。
「ええ、少し。でも、読者の皆様があんなに喜んでくださるなんて思わなくて……。なんだか、こちらが力をいただいた気分ですわ」
「それは良かったです。皆さんも、物語の中の素敵な殿下だけでなく、執筆されているあなたのファンでもありますからね」
ケビンはそう言って、悪戯っぽく微笑んだ。その軽妙な語り口に、コートニーもようやく自然な笑みを浮かべることができた。
「ところでケビン様。ここはステア殿下が学生時代に通われていたとお聞きしましたが、当時はどんなご様子だったのですか?」
気持ちが前向きになったところで、先程あっさり聞き流していた、ステアの学友だというケビンから振られた話題を掘り下げてみることにした。
「ああ、それはもう。殿下は当時から、お忍びで街の様子を観察するのがお好きでしたよ。今と同じように、理屈に合わないことや、弱い者が虐げられているのを見ると、じっとしていられない性分で……。よく、このテラス席で難しい顔をしてノートを広げていました」
ケビンの語るステアの姿は、今の彼と重なる部分が多い。
そのことに気付いた彼女の胸に、不思議な温かさが灯る。
(結局のところ、困っている人を放置できない性分だから、あんなに熱心に街を回っていらっしゃるのね)
ステアの行動原理が単なる義務ではなく、彼という人間の本質に根ざしたものだと知り、一向に消える気配のないあの目の下のクマも、彼が誠実に生きてきた証なのだと納得がいった。
「コートニー様?」
「あ、すみません。殿下も意外と苦労されていたのだなと思って」
「ふふ、確かに。でも、今の殿下がこれほど活き活きと捜査……おっと、公務に励んでいられるのは、間違いなく隣にコートニー様がいらっしゃるからですよ」
ケビンの温かな言葉に、コートニーの心から、ようやく事件のどろどろとした影が消えていく。
(そう、今は幸せな物語の著者として、この平穏な時間を楽しんでも許されるはずだわ)
コートニーは紅茶を一口啜り、安らぎと共にその香りを胸いっぱいに吸い込む。
しかし、そんな穏やかな午後のひとときは、背後から響いた耳障りな声によって、無惨にも切り裂かれることとなる。
「あら、お姉様」
この世で最も聞きたくない、甘ったるく毒を含んだ声。
コートニーは、思わず紅茶のカップを置く手が止まる。
(……どうして、いつも一番邪魔されたくない時に現れるのかしら)
ゆっくりと顔を上げると、そこには案の定、嫌味なほど鮮やかなグリーンのドレスを纏ったリリアと、その後ろで蛇のように冷ややかな笑みを浮かべるソフィアが立っていた。
「家を飛び出した挙句、そんな下品な労働までなさっているとか。血筋というものは、やはり誤魔化せませんわね」
優雅に扇子で口元を隠しながら、放つ言葉は相変わらず薔薇の棘よりトゲトゲしい。
「本屋で卑しくも名前を売っているなんて、ステア殿下がご存知になれば、きっとお嘆きになるでしょうに」
ソフィアの言葉に、コートニーはゆっくりと背筋を伸ばす。
「ごきげんよう、ソフィア様、リリア」
努めて優雅に、冷ややかな微笑を返しておく。
「これは『卑しい労働』ではなく、殿下の御公認をいただいた慈善活動です。売上のすべては、国教会派の修道会へ寄付することになっておりますの。あなた方も、少しは世の中のためにお金を使うことをお考えになったら、いかがかしら?」
一瞬、ソフィアの顔が屈辱に歪んだ。しかし、彼女はすぐに取り繕い、コートニーの向かいに座るケビンへと視線を移す。
「慈善活動ですって? 今まで一度もしたことがなかったのに。随分いい子になったのねぇ」
あからさまな嘲笑を投げかけてくる二人に対し、コートニーは薄目で応じた。
(今までは外出すら自由にさせてもらえなかったもの。今の私は、自分の意志で寄付だってできる。自由なのよ)
笑顔を顔に貼り付けつつ、コートニーは泰然とした態度を崩さなかった。
「おっしゃる通りですわ、ソフィア様。自由を知って初めて、世の中には助けを必要としている方が大勢いらっしゃると気づけたのです。狭い屋敷の中に閉じこもっていた頃には、決して見えなかった景色ですわ」
皮肉を込めて言い返すと、ソフィアの眉が不快げに跳ね上がる。
「あら、口だけは達者になったこと。でも、いくら聖女の真似事をしても、家を出たという事実は消えなくてよ……それより」
ソフィアは侍女に命じ、わざわざ購入したというコートニーの本を取り出させた。
(……買ったんだ)
コートニーは、差し出された自分の著書を見て、複雑な心境に陥った。
(まさか嫌悪している相手の書いたものを、自ら代金を払ってまで手に入れるなんて)
「随分と売れているようですけれど、中身は案の定、お花畑のような捏造ばかり。殿下との馴れ初めをここまで美化して書けるなんて、その図太い神経だけは尊敬いたしますわ」
ソフィアは本の表紙を指先で弾き、汚らわしいものを見るかのように目を細めた。
「でもま、知り合いに配るから、サインを書いてちょうだい」
「え」
思わず間の抜けた声が漏れた。 あれほど酷評しておきながら、あろうことか「サインを書け」と言い出した継母の厚かましさに、一瞬思考が停止したからだ。
「何よ、その顔は。あなたの本を宣伝してあげようっていう、お母親の温かい配慮じゃない」
「配慮ですって?」
「これをしかるべき場所に配って、お姉様が殿下と仲睦まじくやっていることをアピールすれば、実家の格も上がるってことよ」
アンジェリカはクスクスと笑いながら、手元のサイン本を数冊、テーブルに積み上げた。
「せっかくですから、一冊ずつ丁寧に、愛を込めて書いてくださいね。ああ、殿下のサインも入っていれば最高だったのだけれど」
(実家の格を上げるために、私の「黒歴史」を利用するつもりなのね……)
自分を追い出したときにはあんなに冷酷だったのに、いざ金や名声の匂いがすれば、これでもかとばかりに擦り寄ってくる。その図太さは、もはや一周回って、呆れるほどだった。
コートニーは、目の前に積まれた本と、期待に満ちた(というよりは、獲物を値踏みするような)二人の視線を交互に見つめる。
「……承知いたしました。そこまで仰るなら、書き添えさせていただきますわ」
ソフィアから渡された真っ赤な装丁の本を開くと、万年筆にたっぷりとインクを浸した。
(二度と私の前に現れませんように……!)
呪いにも似た強い願いを込めて、コートニーは紙が破れんばかりの勢いで、力強くサインを書き記す。
「次はこれね」
「……」
差し出される次の本にも、コートニーは無心でペンを走らせる。一冊、また一冊と、事務的に「コートニー」の名を刻んでいく。
「お姉様、そちらの方は? こんな場所で、殿下もなしに男性と密会なんて。はしたないと思わなくて?」
黙って待てない性分らしいリリアが、扇子の隙間からねめ回すようにケビンを凝視した。
「こちらはICNの編集者、ケビン・マルコス様よ。お渡し会の運営責任者として、同席してくださっているの。はしたないなどと、どの口が仰るのかしら?」
冷徹に言い放つと、ケビンはそつのない所作で立ち上がり、軽く一礼した。
「左様でございます、お嬢様。本日はコートニー様の輝かしい門出の日。それを祝う場に、身内の方々がいらしてくださるとは……。よほど姉妹仲がよろしいのですね」
ケビンの言葉には、微かな、けれど確かな皮肉が込められていた。マルコス子爵家の次男として、彼はこの程度の嫌がらせを捌く術を熟知しているようだ。
「な……! 皮肉のつもり? ICNなんて、下品な三流紙じゃないの。お姉様にはお似合いですわね」
リリアが顔を真っ赤にして言い返す。
「ICNを『下世話』と断じるのは構いませんが、我がマルコス子爵家への侮辱は看過できかねますな」
ケビンの穏やかな、けれど芯の通った声に、アンジェリカの笑い声が止まった。
「……子爵家? あなた、貴族なの?」
「マルコス子爵が次男、ケビン・マルコスと申します。現在は報道の自由と王室の広報のために筆を執っておりますが……。なるほど、これほどはっきりと物言う淑女にお会いするのは、記者人生でも稀な経験だ。非常に興味深い。次回のコラムのネタにさせていただいても?」
ケビンが手帳を取り出そうとする素振りを見せると、ソフィアが慌ててアンジェリカの肩を叩いた。
「もういいわ、リリア……さあ、コートニー。早く書いて頂戴。あなたのその『素晴らしい才能』とやらは、私たちが買い与えた本のお陰なのだから」
(は?)
コートニーのこめかみに、ピシリと青筋が浮かぶ。
「お言葉ですが、ソフィア様。私が知識を育んだのは、亡き母エリノアが私に残してくれた財産で買い集めた蔵書のおかげですわ。確かに父からも何冊か本を贈られましたが……」
コートニーは、目の前のソフィアを真っ向から見据え、氷のように冷ややかな微笑を浮かべた。
「少なくとも、貴女から有意義な本を一冊でも買い与えられた記憶はございませんわね。ああ、失礼。……礼儀作法の読本を頭に乗せて歩かされたことは、数え切れないほどございましたけれど」
「な、なんですって……!」
ソフィアが顔を強張らせるのを無視し、コートニーはペンを走らせた。一冊、また一冊。事務的なサインが、まるで彼女たちとの決別を告げる境界線のように、白い紙面を埋めていく。
「……はい、終わりましたわ。どうぞお持ち帰りください」
コートニーは、インクを吸い取らせることすらもどかしく、まだ湿り気を帯びた本を乱暴に閉じ、ソフィアへと突き返す。
「ふん、相変わらず可愛げのない。……いいわ、これを持ってお茶会へ行けば、ヒスコック家の教育が如何に素晴らしいか、皆様も納得されるでしょう」
ソフィアは本の背表紙をなぞり、そこに刻まれた「コートニー」の名が金貨に見えているかのような、卑俗な笑みを浮かべている。
「そうそう、……先ほどお見かけしたハウエル伯爵夫人。あの方のご主人は、今やイースト地区の救世主ですって。陛下のお側近くに仕えながら、あんな不潔な場所に足繁く通い、無料で治療や支援をされているそうよ。あなたの空想物語よりも、伯爵の行う真実の献身の方が、よっぽど民衆の心に深く刻まれているでしょうね」
嘲笑を残して、今度こそ二人は立ち去った。
静寂が戻ったテラス席で、ペンを置いたコートニーは、「ふぅ」と一息ついて、カップの中に残った冷え切った紅茶を一息に飲み干した。
「コートニー様。今の女性たちは一体……」
ケビンが、恐る恐る声をかけてきた。
「……私の物語に出てくる『悪役』のモデルに、ぴったりな方々ですわ」
そう言って無理やり微笑んだものの、カップをソーサーに戻す指先は、自分でも驚くほど冷たく震えていた。




