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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第八章:理性の仮面が剥がれる夜
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063 祝福の本に、疑惑は静かに挟み込まれる

 新聞社というものは、金になるものを嗅ぎつけると即座に寄ってくるものらしい。


 鉄は熱いうちに打てと言わんばかりの素早さで、彼らは行動を開始した。


 事の始まりは、イラストレイテッド・クラスコー・ニュース、通称『ICN』に連載されていた、コートニーの例の作品だ。


 その名も――

『愛と名誉の結びつき。華麗なる貴族の物語』


 あの恥ずかしい捏造物語が、一冊の本として、冊数限定で出版されることが決まってしまったのだ。


「書籍化を望む声も多く、王室のプレスに掛け合ったところ、殿下とコートニー様の了承を得られれば出版して良いとのお返事を頂きまして」


 担当編集者のケビン・マルコスからそう告げられた時、コートニーは危うくその場で卒倒しかけた。


(そんなの、ステア殿下が許すはずがないわ)


 そう信じて相談に及んだのだが、ステアは驚くほどあっさりと承諾した。


「ふむ、市民が喜ぶのであれば構わないのではないか。それに、史実にある程度忠実なのだから、問題ないだろう」


 面白がるようなステアの返答に、コートニーは絶望した。


(私の黒歴史が書籍化されて未来永劫残るとか。殿下はやっぱり悪魔だわ!)


 だが、いくら毒づいたところで、ステアが了承したとなれば、コートニーに拒否権などない。


 こうして、軽い気持ちで描いた嘘八割・真実二割の「夢小説」は、書籍化され、堂々と世に放たれてしまったのである。



 ◇✧◇✧◇✧◇




 現在、コートニーは城下の中心に位置する、文化的なウエスト地区にいる。


 生まれて初めての経験――『グラント・リブロ』という老舗書店での「お渡し会」に臨むためだ。


 店内は、高い天井から優雅なシャンデリアが下がり、壁一面に革装丁の古典的な書籍が並ぶ、重厚で落ち着いた空間だった。


 アンティークの文房具が飾られ、柔らかな時計の音が響く。そんな静謐な場所の一角に、美しい装飾が施されたサイン用のテーブルが用意されていた。


「コートニー様、本日はご足労いただきありがとうございます。私、ICNの編集長をしております、ケビン・マルコスと申します」


 挨拶に現れたケビンは、人懐こい笑顔が印象的な青年だった。


「こちらこそ、よろしくお願いします。お渡し会というのは……具体的に何をすればよろしいのでしょうか?」


「購入された方にサインを書いていただき、二言、三言お話していただくだけで結構ですよ。話題になっていることや、ご興味のあることを話せば、皆さん喜ばれます。まあ、殿下との婚約をお祝いしようと駆けつけるファンも多いと思いますし、笑顔を振りまいておけば、ほぼオッケーです!」


 ケビンの調子の良いアドバイスに、コートニーはとりあえず頷いた。


 初夏の爽やかな風が、開け放たれた窓から店内に舞い込み、本のインクと古い紙の匂いを優しくかき混ぜている。


 書店の一角に設えられた特設会場は、期待に胸を膨らませた淑女たちで、すでに賑わっていた。


(こんなに大勢の人が……私の書いた物語を読んでくれたなんて……)


 感動する一方で、やはり嘘の物語であることを思い出すと、胸がチクンと痛む。


(でも、やり切らないと)


 緊張と感動、そして罪悪感が入り混じった複雑な気持ちで、コートニーは深呼吸をした。


「コートニー嬢、準備はよろしいですか?」


 担当編集者のケビンの声に、彼女は背筋を伸ばして頷く。


「ええ、よろしくお願いします」


「では、始めましょう」


 コートニーが用意された席に着くと、サイン会が始まった。次々と読者が訪れ、どの顔も興奮に満ち、彼女に熱心な感謝の言葉を伝えてくれる。


「素敵な物語をありがとうございます!」


「殿下との恋、本当に憧れてしまいますわ」


 一人ひとりに丁寧にサインをしながら、コートニーは心の中で密かに呟く。


(ごめんなさい……本当は、あんなにロマンティックじゃないのよ……)


 だが、読者たちの幸せそうな笑顔を見ていると、次第に心が凪いできた。


「ミッドナイトテイラーに怯えることなく眠れる日々は幸せです。ご婚約おめでとうございます」


 そんな言葉をかけてくれる人もいて、コートニーの方こそ、救われる気持ちに包まれた。


(幸せは、意外なところから巡ってくるものだわ)


 自分のついた嘘が、巡り巡って人々の不安を和らげ、希望を与えている。その事実は、嘘を連ねる彼女にとって、何よりの救いだった。


「コートニー様、書籍化おめでとうございます」


 不意に聞き覚えのある穏やかな声が響き、コートニーは顔を上げた。そこに立っていたのは、上品な青緑色のドレスを纏ったサラだった。


「サラ様! わざわざ足を運んでくださるなんて……!」


「ふふ、お祝いだもの。それに、この本の売上は国教会派の女子修道会へ寄付されるのでしょう? 私も微力ながら協力したくて」


 淑女の交流の場「円卓の貴婦人」の仲間であるサラは、優しく微笑み、持参した本をコートニーの前に差し出した。


「主人にも、ぜひ読ませたいと思いますわ」


 サラの慈愛に満ちた微笑みに、コートニーの胸がキュンと鳴った。


(さすがおしどり夫婦。私もいつか、お二人のようになりたいわ)


 脳裏に、舞踏会で自分を救ってくれたサラ夫人の凛とした姿、そして彼女を支える優しそうな紳士であるハウエル伯爵の姿が浮かぶ。


(あ、でも……)


 ハウエル伯爵ことマーティンには、愛人がいる。しかも相手は、サラよりずっと若く、美しさを持った、イースト地区の娼婦。


 そんな不穏な情報を思い出してしまい、コートニーのペン先が、わずかに震えた。


 目の前で眩しいほどの微笑みを浮かべているサラ夫人は、それを知っているのだろうか。

 それとも、あまりにも深い愛ゆえに、あえて気づかないふりをしているのだろうか。


「……コートニー様? どうかされました?」


 不意にサラ夫人が首を傾げた。その一点の曇りもない瞳に見つめられ、コートニーは慌てて笑顔を取り繕った。


「い、いえ! サラ様と伯爵様の仲睦まじい姿を思い出してしまいました。……心を込めて書かせていただきますね」


「まあ、嬉しい。主人もきっと喜びますわ」


 サラはそう言って微笑んだ。


 その時、コートニーは、彼女が手にするもう一冊の本の存在に気づいた。彼女の手には、著書とは対照的な、無機質で重厚な革装丁の本が抱えられている。


『産科学の理論と実践に関する論文』


(……産科学?)


 華やかな社交界の話題とはあまりにかけ離れたその単語に、コートニーのペン先がぴたりと止まる。


「あら、ごめんなさい。これは主人のものよ。彼はボランティアで下町の従医をしていて、産科学の研究にとても熱心なの。今日もこの本を買い求めてくるように頼まれていたから、ついつい一緒に持ってきてしまったわ」


 サラ夫人は、茶目っ気たっぷりに笑った。


 コートニーの頭脳は、目の前の和やかな光景を拒絶するように、凄惨な事件のピースを高速で繋ぎ合わせ始める。


(医療従事者。産科学。そして……イースト地区にいる娼婦と顔見知り)


 先日、ステアの執務室で自らが口にした言葉が、鋭い刃となって自分に突き刺さる。


『犯人は、日常的に整理整頓が習慣づいた者……あるいは、そういった教育を受けた経験のある人物』


 サラは、まさにその体現者だ。伯爵夫人である彼女自身の机の上も、きっと自分の机と同じように、凛として整っているに違いない。


(いいえ、何を考えているの、私……!)


 心の中で、激しく首を振る。


(サラ様は、あの冷え切った夜会で孤立していた私に、真っ先に声をかけ、救ってくださった恩人だわ。それに、犯人が女性だと決まったわけじゃないし)


 コートニーは、自分の頭が、あまりにも簡単に恩人を疑ってしまったことが、何よりも許せなかった。


 なんでも事件に結びつけて考えてしまうのは、ステアの執務室に長居しすぎた弊害に違いない。


「……コートニー様? 顔色が優れないようですが、お疲れではありませんか?」


 サラが心配そうに身を乗り出し、細く白い手で、コートニーの机の上に、少しだけ斜めに置かれていた予備のペンを、そっと平行に整えた。そのあまりに自然な動作に、コートニーの心臓がひやりとした。


「い、いえ……! 少し、あまりの光栄に、胸がいっぱいになってしまっただけで。素敵なご主人様への愛妻家ぶりにも、あてられてしまいましたわ」


 コートニーは、引き攣りそうな頬を必死に持ち上げ、いつもの「伯爵令嬢のコートニー」として、しとやかな淑女の笑みを貼り付ける。震える指先でペンを握り直し、流れるような書体でサインを書き入れた。


「はい、お待たせいたしました、サラ様。……ご主人様にも、どうぞよろしくお伝えくださいませ。いつかお二人で、私たちの茶会にもいらしていただきたいですわ」


「ええ、ありがとう。主人もきっと喜びます。では、また円卓の貴婦人でお会いしましょうね」


 サラは満足げに微笑むと、医学書とサイン本を大切そうに胸に抱え、優雅な足取りで人混みの中へと消えていった。


 その後ろ姿を見送りながら、コートニーは小さく息を吐き出した。


(そうよ、あり得ないわ。彼女は私の味方で、円卓の貴婦人のメンバーなんだもの)


 そう自分に言い聞かせ、コートニーは冷たくなった自分の手を、ぎゅっと握りしめた。


 次の読者を迎えるために顔を上げた彼女の瞳には、先ほどの疑惑を無理やり打ち消した、一点の曇りもないはずの笑顔が貼り付いていた。


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