058 独占欲が設定を突き破りました
壁一面を埋め尽くす書棚には、革表紙の法学書や歴史書が整然と並ぶ一方で、ステアの巨大な執務机の上は、血生臭い事件現場の写しや複雑な人脈図、そして幾重にも積み上げられた捜査資料によって占拠されていた。
そんな中、ステアの視線が届く場所に設えられたコートニーの仕事机は、まるで殺伐とした戦場に咲いた一輪の雛菊のように、柔らかな空気を纏っている。
部屋全体の重厚な黒檀とは対照的に、彼女に与えられたのは温かみのあるマホガニーの机。その上には、ステアが扱う「死」を象徴する資料ではなく、市民に夢を売るための華やかなポートレイト写真や、愛を語るための真っ白な原稿用紙が並んでいた。
(……この部屋の空気、相変わらず極端だわ)
世間を騒がせていた切り裂き魔は沈黙を貫いている。その代わり、新聞各紙には連日のように、彼女とステアの華やかな写真や版画が躍っていた。
紙面を開けば、赤面せずにはいられないような馴れ初めや、赤裸々に語られた(という体の)インタビュー記事も並んでいる。そしてその目玉こそが、コートニー自ら執筆した「殿下と伯爵令嬢の恋物語」の連載であった。
(……自分で書いた文章なのに、インクが乾くそばから燃やしてしまいたいんだけど)
自らのペンが生み出した、甘く、情熱的で、それでいて嘘八百な世界。その虚像に熱狂する読者たちの視線を感じながら、コートニーは複雑な達成感とともに、今日も小さな机に向かう。
切り裂き魔事件で沈んでいたクラスコー王国に、今やステアとコートニーの「偽りの恋」が、明るい未来への「希望」という名の熱狂をもたらしている。
(まさか、私の書く嘘八百がここまで王国を熱狂させるなんて。もはやこれは歴史の修正に近い快挙よ!)
コートニーは自画自賛しつつも、手にしたポストカードに恨めしい視線を送る。
それは、コートニーが頬を染めて恥じらうように微笑み、ステアがそれを慈しむような眼差しで見つめているという、見るに堪えないほど恥ずかしい構図のポストカードだ。
驚くべきことに、市民たちはそれを競うように買い求めているという。
(……撮影の数分前までお互いに皮肉を言い合ってたのに。市民の皆様、目を覚まして! それは全部、私の仕事の成果——いえ、血と汗の結晶で作られたフィクションなのよ!)
心で悲鳴を上げつつ、彼女はこの「捏造された幸福」が、自らに課された任務の輝かしい成果であることを認めざるを得なかった。
「コートニー嬢、ちょっと」
ステアから声をかけられ、「はい」と返事をして彼の執務机の方へと歩み寄る。
「何かご指示でしょうか、殿下」
「これを見てくれ」
彼は机の上に置かれていた一通の書状を、指先で滑らせるように彼女の方へと差し出す。
「君の素晴らしい才能を、世間は放っておかないつもりのようだ。『イラストレイテッド・クラスコー・ニュース』の担当記者からだ。君が寄稿した記事……ええと」
わざとらしくステアが言葉を切る。アメジスト色の瞳には、明らかな愉悦の色が浮かんでいた。
「愛と名誉の結びつき。華麗なる貴族の物語」
本棚に顔を向けているレナルドが、淡々と、気恥ずかしいタイトルを補足した。
(やめて、レナルド様までその名前を口にしないで!)
冷静沈着なレナルドが補足したことで、余計にその「嘘」の重みが際立ってしまう。
コートニーは、自分の妄想を炸裂させた記事につけられた、あまりに甘美で大仰なタイトルを突きつけられ、思わず顔を覆いたくなった。
「……そうだったな。その五話目が掲載された新聞が、通常の三倍の売り上げを記録したらしい。だから、続編の執筆依頼が来ている。それも、当初の予定を大幅に上回るボリュームで、だ」
ステアは椅子に深く背を預け、組んだ足の先を軽く揺らした。
「内容は、私たちの出会いから婚約に至るまでの『情熱的な部分の心理描写』をより詳細に、だそうだ。読者は、私が君のどこに惹かれ、君が私のどこに陥落したのか。その『甘い毒』のような過程を知りたがっているらしいぞ」
(甘い毒……? 私が陥落……? 陥落させられたのは、私の自由と平穏な侍女係としての日常の方なんですけど!)
密かに激しいツッコミを入れつつ、コートニーは差し出された書類に目を通す。そこには「さらなる情熱的な脚色を期待する」という記者の鼻息の荒い要望が並んでいた。
「……殿下。これ、書けば書くほど、私の将来の結婚相手が絶滅するような気がします。こんな情熱的な恋物語のヒロイン、誰が次に引き受けてくれるんですか?」
「案ずるな。これだけ派手にぶち上げたんだ、次など最初から存在しないさ」
事もなげに、恐ろしい呪いのような言葉を吐くステア。
その瞬間、部屋の空気がわずかに凝固したような気がした。
「……次など、最初から存在しない?」
コートニーが呆然と呟くと、ステアは机の上に肘をつき、指を組んでその上に顎を乗せた。
「当然だろう。国を挙げての熱狂、殺人鬼を黙らせるほどの『運命の恋』だ。それを上書きできる男がこの国にいると思うか? 君は名実ともに、私のものとして歴史に刻まれる」
(……この人、さらっと怖いこと言ったわ。それって、一生独身でいろって呪いじゃない)
背筋に寒いものが走るコートニーを余所に、ステアのアメジスト色の瞳には、悪びれる様子が一ミリもない。
「殿下、いまサラリとすごい告白をしましたよね?」
「ああ、しかも相当に独占欲が高めなやつを」
書類の陰から、あるいはソファの端から、いつの間にか聞き耳を立てていた部下たちが一斉にニヤニヤと顔を出した。
「法の猟犬と呼ばれる殿下が勤務中に、あんな熱烈な惚気を口にされるとは」
「明日は、季節外れの雪かもしれないな。いや、雹でも降るんじゃないか?」
マイロやレナルドを筆頭とした精鋭部隊の面々が、ここぞとばかりに囃し立てる。
普段、冷徹な上司に容赦なくこき使われている彼らにとって、これ以上ない格好の娯楽を見つけたというわけだ。
「……君たち、報告書は終わったのか? 終わっていないのなら、今すぐイースト地区のドブ板を一枚ずつひっくり返す任務に切り替えてもいいんだが」
ステアがアメジスト色の瞳を冷ややかに細め、低い声で威圧する。しかし、部下たちは怯むどころか、さらに面白そうに肩を揺らした。
(ちょっと……。 殿下の独占欲なんて、ただの『設定』の延長に決まってるじゃない)
顔から火が出るほど赤くなり、必死に否定しようと口を開きかけたコートニーだったが、間一髪で思いとどまった。
(……ダメだわ、ここでは言えない)
この部屋にいる部下たち全員が事情を知っているわけではない。この「仮初の婚約」の裏側を共有しているのは、ステアの側近であるマイロとレナルドの二人だけ。
(下手に否定して、万が一にも『実は捜査のための偽装なんです』なんて漏れたら、それこそ国家レベルの不祥事になっちゃう)
そう、いま自分ができる唯一の正解は、この屈辱的な「惚気扱い」を黙って受け入れることだけ。
「コートニー嬢と結婚して、少しは殿下が家庭を顧みるようになればいいんですがね」
「全くだ。コートニー嬢、殿下をしっかり手懐けてくださいよ。俺たちの命運は君にかかっているんだから」
(手懐けるどころか、私がこの猛獣の檻に入れられたようなものですけど)
コートニーは、喉まで出かかった言葉を飲み込み、代わりに引き攣った笑みを浮かべる。
「ぜ、善処いたしますわ。殿下は、その……とてもお仕事に熱心な方ですから、身体を壊されてしまわないか、私……心配で……っ」
そこまで絞り出すのが限界だった。
もはや羞恥心は飽和状態。
言い終えた瞬間にコートニーは耳まで赤く染まり、逃げるように自分の席へと戻った。
「殿下、今の聞きましたか? 幸せ者ですねえ!」
「聞いたか? 『心配で』だとさ。あれだけ無茶を言われても殿下を立てるなんて、健気すぎる。俺、ちょっと泣きそうですよ」
マイロがわざとらしく目元を拭う仕草をすると、周囲からドッと笑いが起きた。
その喧騒の真ん中で、ステアだけは悠然と椅子に座ったまま、面白そうに頬杖をついてコートニーの反応を眺めている。助け舟を出す気など毛頭なさそうだ。それどころか、困り果てた彼女の様子を「よくやった」とでも言いたげな、満足感を湛えていた。
(……この人、私の困り顔を肴に楽しんでるわね!?)
逃げ場を失ったコートニーは、もはや真っ赤な顔のまま、声をあげる。
「……皆さま。殿下のお仕事の邪魔をしてはいけませんわ! 私は、ええと、小説の続きを書かなければなりませんの。締め切りが……そうです、締め切りが怖いですから!」
言い切って、真っ白な原稿用紙を盾にするように顔を隠す。背後で部下たちの「お熱いことで」という小声の冷やかしが聞こえるたびに、コートニーの心拍数は跳ね上がる。
(いいわ、書いて差し上げますわ。『独占欲の塊のような冷徹王子が、最愛の女性を執務室に閉じ込める情欲の牢獄編』を! 読者が呼吸を忘れるくらいの地獄の甘さを叩き込んでやるんだから!)
コートニーは復讐の鬼と化し、羽ペンをインク瓶に深く沈めた。 隣で平然と惨殺事件の資料をめくるステアの横顔を、呪いと羞恥の混じった視線で一度だけ射抜いてから、彼女は猛然とペンを走らせ始めた。
――この国で、最も危険な恋物語を生み出すために。




