057 悪魔王子の広報係になりました
その日、コートニーは人払いされた執務室へと呼び出されていた。
重厚な扉を開け、中へ足を踏み入れた彼女は、室内の奇妙な静けさに思わず足を止めた。
「あれ……マイロ様やレナルド様は、もうお帰りになられたのですか?」
いつもなら、ステアの右腕である男性陣が血眼になって資料をひっくり返し、忙しなく出入りしているはずの場所だ。そこにステアがたった一人、椅子の背にもたれて座っている光景に、コートニーは本能的な警戒心を抱く。
「ああ、切り裂き魔がピタリと犯行を止めたからな。今まで無理をさせていたぶん、最近は、早めの帰宅を推奨している。彼らの中には、守るべき家族がいる者が多いし」
ステアは手元の書類から目を離さずにさらりと答えた。その言葉だけを聞けば部下思いの理想的な上司だが、コートニーは微かな居心地の悪さを感じる。
「それは、大変素晴らしい配慮だと思います。でも、私と殿下が二人きりでお会いするのは、あまりよろしくないのでは?」
たとえ仮初めとはいえ、年頃の男女だ。密室で二人きりという状況は、淑女の教育を受けてきたコートニーにとって看過しがたいものがあった。
しかし、ステアは顔を上げると、心底どうでもよさそうに肩をすくめて見せた。
「何を今さら。私たちは婚約者なんだ。今ここで何をしていようと、周囲は『仲睦まじく愛を語らっている』と勝手に解釈してくれるさ。まあ、問題はないだろう」
「…………」
つい、薄目になってしまう。
(この人、私の『淑女の貞操観念』より『対外的な設定』の方が重要だって言いたいわけね)
あっさり返された言葉に、コートニーは反論する気力すら削がれ、潔くステアの机の前へと歩み寄った。
「それで、その『問題のない婚約者』に、今度はどのような難題を押し付けるおつもりですの?」
腰に手を当てて尋ねるコートニーに、ステアは書類から顔をあげて、愉しげに目を細めた。
「君に与える任務はただ一つ。私の婚約者として相応しい振る舞いを学ぶこと。……もっとも、婚約にまつわる書類の精査、手紙の返信、プレス対応に貴婦人方のお相手などは、当然その範疇に含まれるがな。あとは、そうだな……」
ステアはさらに何かを付け加えようと、視線を宙へと彷徨わせる。
「それ、全然『一つ』じゃないですよね?」
これ以上増やされてたまるかと、コートニーは即座に口を挟む。するとステアは、待っていましたと言わんばかりに口角を上げる。
「文句があるなら、実家に戻ってくれても構わないのだが?」
(……出たわ。その脅し!)
コートニーは内心で激しく毒づいた。
彼がその気になれば、自分を即刻実家に送り返すことなど容易い。正式に結婚しているわけではない以上、王城で同じ屋根の下に暮らしている今の状況こそが異例なのだ。
「切り裂き魔が私たちの婚約を喜び、新聞記事を慶事で埋めろと言っている。ならば、期待に応えてやるのが王族の義務というものだろう?」
ステアは事もなげに言い放つ。その瞳は、獲物を追い詰める猟犬のような鋭さと、悪戯を企む子供のような無邪気さが同居している。
「……とてもやりがいのあるお仕事を、与えてくださりありがとうございます」
コートニーは唇を噛み締めながら、深々と頭を下げた。
正直なところ、仕事内容を聞かされた時は「また、厄介払いされるんだ」と落胆したのも事実だ。
けれど、よく考えれば、この仮初の婚約は、ステアが捜査に専念できる環境を作るためのもの。彼が押し付けてくる雑務を引き受けることこそが、今の自分にできる唯一の「共犯者」としての役割だ。
(それに、私のペン一本で殺人鬼を大人しくさせておけるなら、安いものですわ)
コートニーは密かに自分を鼓舞し、顔を上げた。
「わかりました。殿下が捜査に専念できるよう、この私が、世間の皆様に最高に甘美な夢を見せて差し上げます」
「物分かりが良くて助かる。では早速だが仕事を開始してくれ。ほら、君の仕事机だ」
ステアが指し示したのは、彼の巨大な執務机から数メートルほど離れた場所。部屋の隅に新設された、小ぶりながらも上質なマホガニーの机だった。
「……え、ここですか?」
「ああ。君の広報活動は、私の公務と密接に関わるからな。常に連携が取れる位置にいてもらわなければ困る」
(連携……。要するに、監視下に置いていつでもこき使えるようにってことでしょ)
コートニーは内心で溜息をつきつつも、与えられた「聖域」へと腰を下ろした。
(これは、ご褒美じゃない。ただの餌だから)
自分に言い聞かせながら、コートニーは指先でマホガニーの滑らかな木肌をそっと撫でた。
今まで掃除係として、塵ひとつ残さぬよう磨き上げる対象でしかなかった家具。それが今、自分のためだけに用意され、腰を落ち着ける場所になっている。
(……自分専用の、仕事机か)
嘘の恋物語を綴るための場所だとしても、王城の執務室という「特等席」に自分の居場所が刻まれたという事実は、思いのほかコートニーの心を浮き立たせた。
背筋を伸ばし、新調された椅子に深く座り直すと、まるで自分まで「殿下の協力者」になれたような、くすぐったい誇らしさが胸の奥から湧き上がってくる。
「……ふふ、悪くないわね」
つい緩みそうになる口元を引き締め、彼女は凛とした表情を作った。
隣では、ステアが血生臭い事件資料を再び開き、鋭い眼差しで現場写真の分析を再開している。そのすぐ横で、コートニーは机の上に置いてある書類に目を落とす。
二人の婚約を祝う関係各所からの手紙に、王族のプレスからのポートレイト写真の構図案。さらには、新聞社から届いた「馴れ初め」に関する詳細なリクエスト。
コートニーの手元にある資料は、隣でステアが扱っている「死と絶望」とは正反対の、「生と幸福」を象徴するものばかりだった。
(……この対比、狂ってるわ)
コートニーは、犠牲者の喉の角度を定規で測っているステアを盗み見てから、ポートレイトのラフ画に目を戻した。そこには、ステアがコートニーの腰を抱き寄せ、彼女がうっとりと彼を見上げるという、現実には一秒たりとも存在しなかったポーズが描かれている。
(こんな風に見つめ合ったら、どっちかが先に吹き出すか、首を絞め合うかの二択だわ)
内心毒づきながら、彼女はプレスからの質問状に目を通す。
『第一王子のステア殿下が、運命を感じた瞬間のエピソードを詳しく』
『コートニー嬢が殿下の情熱に絆された、決め手の一言とは?』
新聞社から届いたその依頼書には、読者が何を求めているかがこれでもかと書き連ねられていた。
「『二人の出会いの瞬間を、運命的かつ情熱的な筆致で……』ですって?」
書類を読み進めるほど、コートニーの頬は引き攣っていく。
世間が求めているのは、孤独な王子が一人の令嬢に一目惚れし、情熱的に愛を請う……といった、砂糖菓子を煮詰めたような甘い物語だ。
(現実は、家出した私を娼婦扱いして追い詰めた、最悪の出会いだったっていうのに)
コートニーはちらりと隣のデスクに視線をやった。
「……殿下。駅で私を捕まえた時のことですが。あれをどう書き換えれば『情熱的な出会い』になると思いますか? 記憶では、あの時の私は、不審者として捕まり、恐怖で震えていただけなのですが」
コートニーの問いに、ステアは現場写真から顔を上げることなく、淡々と答えた。
「書き換えろと言っただろう。……例えば、そうだな。逃げ場のない狭い空間で、私の視線から逃れようとする君を追い詰め、その震える肩を引き寄せた。君の瞳に映る怯えを、私への高鳴る鼓動だと錯覚し……とでも書いておけ」
「……っ、それ、やってることは不審者そのものです!」
「だが、王子がやれば『強引で情熱的な求愛』になる。それが世の中の仕組みだ」
ステアは事もなげに言い放つと、ようやく視線をコートニーに向け、皮肉げに口角を上げた。
「期待しているよ、コートニー嬢。君のその豊かな想像力で、私を稀代の情熱家へと仕立て上げてくれ。嘘の中に少しの真実を混ぜるのを忘れるなよ。その方が、人は騙されやすいからな」
(……この悪魔王子、絶対に楽しんでるわ!)
コートニーは湧き上がる反論を飲み込み、手元の真っ白な原稿用紙に羽ペンを突き立てるようにしてインクを含ませた。
「わかりましたわ。後悔なさらないでくださいね。読んだ皆様が悶え死ぬような、とびきり甘くて毒のある物語を綴って差し上げますわ!」
静まり返った執務室に、書類をめくる乾いた音と、恋物語を綴る羽ペンの軽やかな音が重なり合う。
一見すると、寄り添い合う睦まじい婚約者同士の光景。
だがその実態は、殺人鬼を追う王子と、そのために嘘を量産する伯爵令嬢による、奇妙で危うい――だが、誰にも止められない共同作業の始まりであった。




