055 貴族の流儀
絶望の底で、背筋を伸ばしたその瞬間。
「失礼ですが」
落ち着いた男性の声が、張り詰めた空気を静かに切り裂いた。
ざわめきが波紋のように広がり、人々が振り返る。その視線の先に立っていたのは、壮年の紳士と、彼の腕にそっと手を添える一人の淑女だった。
「あぁ、ハウエル卿。お見苦しいところを」
ウィリアムが、突然声をかけてきた男性に、軽く会釈をする。
(ハウエル卿?)
コートニーは、その名前に聞き覚えがあるような気がして、記憶の引き出しを必死に探る。
脳裏に浮かんだのは、石壁のアーチが連なる薄暗い修道院の食堂。そこで、自分の顔に貼られた湿布を見て驚き、憐れんでくれた赤いドレスの美しい女性。
輝くブロンドの髪と吸い込まれるような青い瞳を持つ彼女の名前は、ジェーン。
(そうだわ。彼女が口にしていた支援者の名前が、ハウエル卿だったはず……)
コートニーの心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
「ご挨拶が遅れまして申し訳ありません。私はハウエル伯爵家の当主、マーティンと申します」
紳士は洗練された動作で胸に手を当て、優雅に名乗った。そして、隣に寄り添う漆黒の髪と瞳を持つ貴婦人を、慈しむような眼差しで見つめる。
「こちらは妻の、サラです」
「ハウエル伯爵夫人のサラでございます」
サラがにこりと微笑んだ瞬間、コートニーは複雑な心境に陥った。
彼女は、正義感に溢れる夫人たちの集まり「円卓の貴婦人」のメンバーだ。
人の良さそうな紳士の隣で、汚れなき微笑みを浮かべる正妻。そしてその裏にいる、修道院で出会った美しい愛人の存在。
(こんな修羅場の最中に、さらなる修羅場の種を抱えたご夫婦が登場するなんて……。一体、何の目的で?)
夫側の不倫を知っているという罪悪感と気まずさに押し潰されそうになりながらも、コートニーは必死に淑女の笑みを貼り付けた。
「ヒスコック伯爵家のコートニーと申します。不束者ですが、以後お見知りおきを」
コートニーが淑女の礼を取ると、ハウエル卿は穏やかな表情を崩さないまま、本題を切り出した。
「今の一件、少々誤解があるように思いましてね」
その言葉に、ソフィアがわずかに眉を動かす。
「誤解、ですって?」
「ええ。妻が、ちょうどその場面を見ておりまして」
視線が、サラへと集まる。
彼女は一歩前に出ると、胸に手を当て、静かに会釈した。
「混雑の中で、ソフィア様が後ろから押され、その拍子に、コートニー様のグラスがぶつかったように見えましたわ」
場が、静まり返る。
(……どういうこと? サラ様は、嘘をついてる)
コートニーは、混乱する。
ソフィアが故意にグラスを弾いたのを、コートニーは知っている。そして、突如現れたサラもまた、目撃していたと主張している。
それなのに、なぜ「後ろから押された事故」などという、加害者であるソフィアに都合のいい解釈を口にするのか。
混乱するコートニーがふと視線を横に向けると、彼女の隣に立つハウエル卿が、一瞬だけ、優しく諭すようなウィンクを投げかけてきた。
(……あ、そっか。そういうことなのね)
コートニーの頭脳が、即座にその意図を弾き出す。
今この場で、ソフィアが「故意に」ワインをぶちまけたと告発し、彼女を罪に問う。それは家族間の醜い争いを公衆の面前に晒すことになる。本日開催されている舞踏会の主役であるコートニーが育ての母を徹底的に弾劾すれば、周囲からは「情け容赦のない娘」というレッテルを貼られかねない。
あえて「不慮の事故」という形を取ることで、ソフィアには逃げ道を与え、同時にコートニーの「故意の犯行ではない」という潔白だけを確定させる。
「不慮の事故、ということですのね?」
まるでコートニーの気づきを読んだかのように、誰かが確認するように呟く。
「ええ。少なくとも、コートニー様が故意になさったとは、私には到底思えませんでした」
サラの一言で、空気が変わった。
コートニーに向けられていた疑いの視線が、ゆっくりと散っていく。
人々は「断罪」ではなく、「事故」という、最も体面の保たれる結論へと流れ始めていた。
これが、社交界の荒波を生き抜いてきた「円卓の貴婦人」に連なるメンバーの、そしてマーティン・ハウエル卿の、洗練された人助けの流儀なのだ。
「え……ええ。そうですわ。あまりに人が多くて、私もつい……」
ソフィアが、毒気を抜かれたように震える声で同調する。もはや「事故」という救助艇に乗るしか、彼女に生き残る道はない。
「そうだったのですか……。それは、とんだ早とちりをしてしまった」
ウィリアムが安堵とバツの悪さが混じった表情で、ようやくコートニーに向き直る。
「コートニー、疑ってすまなかった。私の不徳の致すところだ」
(謝ってほしいわけじゃないわ。……ただ、信じてほしかっただけなのに)
ウィリアムへの冷めた感情を押し殺し、コートニーは淑女の微笑みを貼り付ける。
「いいえ、お父様。誤解が解けて何よりですわ。……ハウエル卿、サラ様。お心遣い、感謝いたします」
コートニーは深く、心からの敬意を込めて二人に頭を下げた。
「おめでたい日なのですから。主役がそんなに神妙な顔をしていては、殿下も心配されるでしょう」
サラはそう言って、コートニーの手に自分の手を優しく重ねた。その指先から伝わる温もりは、冷え切っていたコートニーの心を微かに溶かす。
「ありがとうございます。お二人のご厚意に、心より感謝いたします」
改めてコートニーは、深く頭を下げた。
「私たちが口を挟まずとも、賢いあなたなら切り抜けられたでしょうけれど。晴れの舞台で誤解されたコートニー様が、あまりに忍びなかったものですから」
サラ夫人はリリアのドレスを一度だけ一瞥し、何事もなかったかのように、当然の所作でマーティンの腕に手を戻した。
「それでは、私たちはこれで。ヒスコック伯爵、素晴らしい夜会へのご招待をありがとう」
ハウエル卿はウィリアムに短く会釈をすると、嵐を鎮めた自覚など微塵も感じさせない涼やかな足取りで、サラと共に人混みの向こうへと消えていった。
その後ろ姿を見送りながら、コートニーは改めて、この世界の複雑さと、その中で示される「本物の知性」に胸を打たれる。
「全く、上手くいかないものだな……」
ウィリアムが力なく呟く。上手くいかない原因が、盲目的にソフィアを信じ、公平な目を持てない自分自身にあるとは、彼は一生気づかないのだろう。
(やっぱり、大嫌いだわ)
沈み込むウィリアムを冷ややかに見限ったコートニーの背後から、ようやく悪魔の声が響く。
「どうやら、私の出る幕もなく解決したようだな」
人混みを割り、悠然と現れたステア。その瞳は、すべてを最初から特等席で眺めていたかのように、どこか愉快そうに輝いている。
「そもそも私は無罪ですもの。殿下の助けなどいりませんわ」
コートニーがとびきり嫌味なあざとい笑顔を向けると、ステアは可笑しそうに目を細め、騒動の余韻を愉しむように小さく頷いた。




