054 悪役令嬢に仕立て上げられて
ようやく、音楽が途切れた。
最後の旋律が空気に溶けると同時に、コートニーは深く息を吸い込んだ。肺の奥がひりつくほど乾いている。四曲連続のダンスは、想像以上に体力を削っていた。
(……水。せめて、水を)
ステアは喉を潤す暇なく、周囲の貴族たちに取り囲まれていた。賛辞、祝辞、政治的な世辞。彼はそれらを完璧な笑顔で受け流している。
「なんなの。もしかしてステア殿下って、体力お化けなの?」
ステアがいない隙に、小声で愚痴をこぼす。
「とにかく、今のうちに休んでおかなきゃ」
今日は四回も連続で踊ったせいで、足も腰も喉の乾きも悲鳴をあげている。正直、許されるならば、水をがぶ飲みしたのち、このままベッドにダイブしたいくらいだ。
「でもな……」
コートニーの婚約者(仮)は、悪魔のようなゴロツキ王子だ。
きっと、ダンスだけで解放なんてしてくれる訳がない。
危険を察知した彼女は、ひとまず水分補給だけは今のうちに済ませておこうと、給仕を探す事にした。
(今なら、少しだけ離れても許されるはず)
コートニーは静かに人垣を抜け、給仕を探す。
ところが。
「お姉様!!」
背後から別の悪魔、しかも厄介な方に呼び止められた。
コートニーは無視するわけにもいかず、静かに後ろを振り返る。
そこには、これでもかとフリルをあしらったピンク色のドレスに身を包んだ、リリアが立っていた。
「お姉様、どちらへ?」
「…………」
彼女に行き先を告げるつもりはない。そのまま歩を進めようとしたが、ピンクの残像が視界を遮り、リリアに先回りされ、行く手を阻まれてしまった。
「まぁ、私に罪悪感を感じているから、逃げるつもりなのね」
(逃げるも何も、喉が砂漠化してそれどころじゃないんだけど)
内心で毒づきながらも、コートニーは四回という回数を強調して告げる。
「逃げるわけじゃないわ。『四回も』殿下とダンスを踊ったから、休憩するだけよ」
するとリリアは、唇をぎゅっと噛み締めた。
「どうして、お姉様ばかり……」
その呟きは、誰に聞かせるでもない独り言のつもりだったのかもしれない。だが、コートニーの耳はそれをはっきりと拾っていた。
リリアの瞳には、隠しきれない嫉妬の炎がゆらめいている。かつては自分の方が美しく、自分こそが王家の寵愛を受けるにふさわしいと信じて疑わなかった義理の妹にとって、今日この場所で光を浴び続ける義理の姉の姿は、耐え難い屈辱でしかないのだろう。
(そんなに踊りたければ代わってあげたいくらいだわ。足の指の感覚なんて、もう死にかけてるもの……)
聞こえないふりをして立ち去ろうとしたコートニーだったが、背後からさらに不快な、ねっとりとした声が降ってきた。
「あなたは本当に、人に不幸を振りまく子ね」
確認するまでもない。
「でた……」
コートニーは大きくため息を吐いて振り向く。
「ソフィア様……」
視線を向けると、そこには彼女を貶めることに、異様なまでの情熱を傾ける継母、ソフィアが立っていた。
ソフィアは、鋭い切れ長の瞳に、常に冷ややかな嘲笑を湛えていた。四十代とは思えないほど張り詰めた肌と、隙のない夜会巻きに結い上げられた漆黒の髪が、彼女の執念深さを象徴しているようだった。
その身に纏っているのは、夜の闇を溶かし込んだような深いミッドナイトブルーのシルクドレス。襟元や袖口には、控えめながらも最高級の黒真珠が惜しげもなくあしらわれ、動くたびに鈍い光を放っていた。
「エリノアもあなたも、他人の慈しむものを掠め取ることに関しては、天賦の才をお持ちのようね」
ソフィアは扇で口元を隠しながらも、その細められた瞳には鋭い毒が宿っていた。
「母まで引き合いに出されるのですか?」
「事実を言っているだけよ。人の愛する人を奪い、その輝きを横取りして平然としている……その強欲な血筋が、今のあなたには色濃く反映されていますこと。ステア殿下の隣という、本来ならあなたが立つべきではない場所を占拠して、悦に浸っている姿はまさにそれじゃない」
ソフィアの言葉は、まるで周囲の空気を凍らせるような冷徹さを孕んでいた。暗に、自分たちの家庭から父の愛を奪い、さらにはリリアが望んでいたであろう王室との縁を奪い去ったのだと、淑女らしいまわりくどい言い回しでコートニーを断罪する。
「悦に浸る……? 私が、ですか」
(笑わせないで。この『座』がどれほどの心労で成り立っているか、一度でもいいから代わってあげたいくらいだわ!)
コートニーの内心の叫びとは裏腹に、ソフィアはさらに追い打ちをかけるように薄笑いを浮かべた。
「だけど、奪ったものは、いずれその代償を払わねばなりませんのよ。偽りの輝きが、いつまでも続くと思わないことね」
そう言い放つと、ソフィアは不気味な手際で側を通った給仕からワイングラスを二つ受け取った。中に入っているのは、嫌な思い出しかない深紅の液体だ。
「今回は、別のルートから代償を払ってもらおうかしら」
彼女はグラスの一つをコートニーに押し付けるように手渡すと、もう一つのグラスを一気に煽った。
(毒見のつもり? それとも、ただの景気づけ?)
敵からもらったグラスに口をつけるほどコートニーは愚かではなかった。喉はカラカラだが、グラスを握ったままソフィアを鋭く睨みつける。
すると、ソフィアがニヤリと口元を歪めた。
次の瞬間、目にも止まらぬ早さで、ソフィアが自身の空のグラスを、コートニーの握るグラスの底へ向かって、下から弾き飛ばすように叩きつけた。
「!!」
物理法則に従い、中身のワインはコートニーの正面に立つリリアの胸元へと降り注ぐ。ピンク色のドレスが瞬く間に血のような色に染まっていく光景に、コートニーは絶句した。
「まぁ、コートニー! いくらなんでもそれはやりすぎよ!」
ソフィアが悪びれる様子もなく、わざとらしい甲高い声を上げる。
「お姉様……ひどい……!」
リリアが胸元を握りしめ、震える声で嘘の証言を口にした。
(またこの展開? 芸がないというか、古典的すぎるというか……)
しかし、状況は圧倒的に不利だった。コートニーの手には空のグラスが残り、ソフィアが手にしていたはずのグラスは、混乱に乗じていつの間にか給仕のトレイへと返されている。
「私は知らないわ。あなたが傾けたんでしょう」
「まぁ、なんて自分勝手な発言なのかしら!」
ソフィアの叫びに呼応するように、周囲の貴族たちが集まり始めた。
「まぁ、主役のコートニー嬢が」
「妹さんにワインを」
ひそひそと広がる間違った認識。そこに、騒ぎを聞きつけた父ウィリアムまでもが姿を現した。
「これは一体……」
ウィリアムがコートニーを見つめる。
「見ての通りですわ。彼女がリリアに、身の毛もよだつような嫌がらせをなさったのよ」
ソフィアが扇を広げ、悲劇の目撃者を完璧に演じながら言い放つ。
「お父様、お姉様が……お姉様が急にグラスを……!」
リリアが震える声で縋り付くと、ウィリアムの顔は見る間に蒼白になった。彼はまず、赤黒く染まった愛娘のドレスに目を落とし、それからコートニーが右手に握りしめている「空のグラス」を凝視した。
(その目で見極めて。私が、そんな短絡的なことをする人間かどうかを)
コートニーは、真っ直ぐに父を見つめ返す。しかし、ウィリアムの瞳に宿ったのは期待していた信頼ではなく、深い失望の色だった。
「コートニー……本当なのか。殿下との婚約が公示された、この上なく名誉な日に、お前は……」
「違います、私は――」
「言い訳はもう結構よ!」
ソフィアが鋭い声で割って入る。
「主役としての自覚が足りないどころか、身内を傷つけることに悦びを感じるなんて。エリノアが生きていたら、さぞかし嘆かれたことでしょうね」
亡き母の名を出され、コートニーの指先が怒りで震えた。
周囲の貴族たちは、もはや疑う余地なしといった風に、侮蔑の視線をコートニーへと投げかける。
「幻の令嬢……本当は、粗暴な令嬢だったのかしら」
「殿下がお気の毒だわ。こんな女性を妃に迎えるなんて」
冷ややかな囁きが四方から突き刺さる。喉の渇きは極限に達し、思考が朦朧とする中で、コートニーは己の孤立を痛感する。
(誰も、私の言葉なんて信じない。証拠も、味方も……)
この場で、彼女の言葉を信じてくれる人間は、一人もいない。
孤立無援。
華やかな舞踏会の中心で、コートニーは、たった一人、断罪の視線に晒されていた。
それでも、彼女は背筋を伸ばす。
(……私は、折れない)
たとえ誰も信じなくても。
たとえ、全員が敵でも。
(ここで崩れたら、それこそ私は悪役令嬢になってしまう)
絶望の淵で、コートニーが諦めず胸を張ったその時。
「失礼ですが」
背後から、静寂を切り裂く男性の声がした。




