050 期間限定の条件交渉
彼は、いつだって後出しだ。
ヒスコック伯爵家から持ち込まれるコートニーの婚約について、一切認めないよう国王陛下に働きかけてくれていたこともそう。今回の唐突な婚約話だって、本当の理由は「切り裂き魔の捜査に注力したいから」という切実なものだった。
(……それを先に教えてくれれば、私だってもう少し冷静でいられたのに)
けれど、ステアばかりを責めるわけにはいかない。そもそも自分に関わったばかりに、彼はわざわざ煩わしい案件を背負い込む羽目になっているのだ。
そう思うと申し訳なさが募り、一度は失いかけた殿下への忠誠心が、わずかばかり蘇ってくるのを彼女は感じた。
現在、ステアは組んだ足の上に肘を突き、横に向けた顔を手のひらで支えている。このまま美術館に運び込み、新作の彫刻として『悩める王子』と題して展示すれば、見学者が殺到するに違いない。
そんな絵になる姿を視界に入れつつ、コートニーは彼からの申し出について考えを巡らせた。
彼はクラスコー王国の第二王子であり、身分としては申し分ない。もちろんそれに付随する制約はあるだろうが、古くから伝わるお伽噺の相手役はいつだって王子様だと相場が決まっている。
いつの時代も、女性にとって「王子様」という響きは憧れの象徴だ。
(私だって、子供の頃はお姫様になることや、慈しみ深く正統派な王子様と結婚することを夢見ていたわ。そう、性格はどうあれ『王子様』という肩書きは正義なのよ……)
問題は、自分とステアが「期間限定」の謳い文句で発売される季節菓子のように婚約した場合、果たしてすんなりと破棄できるのかということだった。
「ステア殿下、もし私がこの期間限定の婚約を受け入れた場合、解消する時はどうされるおつもりですか?」
コートニーの問いかけに、ステアは気だるそうに顔をこちらへ向けた。
「……それは、私が不貞を働いたことにすればいい」
「具体的には、どのように?」
「頑張って夜遊びでもするさ」
うんざりとした表情で告げられたその答えに、コートニーの脳裏には修道院で出会ったあの美しい女性、ジェーンの姿が浮かぶ。
「つまり殿下は、放蕩者として名を馳せる覚悟がおありだと」
「女性が『ふしだら』だと噂されることに比べたら、ずっとマシだろう?」
「悔しいけれど……仰るとおりですわ」
コートニーは唇を噛んだ。いくら実家の財力が凄まじかろうと、一度でも「不潔」のレッテルを貼られれば、まともな倫理観を持つ男性との結婚は望めなくなる。
今後、寄ってくるのは、金のために何でも我慢するテニソン子爵ネイサンのような、一番避けたい愚かな男たちばかりになるのは明白だ。
一方で、遊び相手と本命を分けることに寛容な男性社会では、ステアの受けるダメージは女性ほどではない。
(……理不尽だけれど、それがこの国の現実だわ)
だからこそ、ステアの「自分が悪役になる」という提案は、婚約解消後の彼女の名誉を守るための、極めて現実的で慈悲深い申し出だと言えた。
「もちろん、君だってノーダメージとはいかないだろう。だが、君は泣き真似がうまい。世論を上手く『あんな奴の婚約者だなんて、お気の毒に』と誘導すればいい。噂を作り出すことに長けた新聞社だって紹介するよ」
ステアがいたずらっぽい笑みを向けてくる。
「泣き真似については、か弱い私が持てる力を最大限に発揮した結果ですわ」
嫌味に対して余裕の表情を返すと、ステアは少し姿勢を正した。
「ところで、君が解消後のことまで尋ねてきたということは……私の提案に心が傾いている、と理解していいのかな?」
ステアの自称が、親密な「僕」から外行きの「私」へと戻った。コートニーはそれを少し残念に思う。なぜなら、「私」を名乗る時のステアは、隙のない手強い交渉相手になるからだ。
「浮かれていらっしゃるところ申し訳ございませんが、ほんの少し、です。まだ契約条項をしっかりと話し合っておりませんもの」
「言うねぇ」
「当たり前です。これは私の人生にとって、大きな汚点になる可能性があるのですから」
「汚点か……まあ、確かにそうだな」
てっきり「不敬だ」と怒り出すかと思ったが、ステアはなぜか楽しそうに微笑んで、冷めた紅茶に手を伸ばした。
(……何をそんなに満足げに笑っているのかしら)
コートニーはその姿を眺めながら、他に確認すべき重要なことを必死に探した。
「冷めているな。レナルド、悪いが新しい紅茶を頼めるか?」
ステアの声に、控えていた従者が静かに動く。ふと見渡せば、広い部屋には必要最低限の近衛とレナルドしかいない。秘密の話をするために、徹底的に人払いがされているようだ。
そこで、コートニーの心にある、切実な疑問が浮かび上がった。
「ステア殿下。もし私が婚約を了承した場合、私は実家に戻されることになるのでしょうか?」
通常、婚約したとしても結婚までは実家で過ごし、節度ある付き合いをするのが社交界の常識だ。もしヒスコック家に戻れば、たとえ婚約者という盾があっても、義母たちの嫌がらせという「内戦」は終わらないだろう。
世間の目を欺くために「花嫁修行」という名目で、婚約者の屋敷に滞在するという話はよく耳にする。
(できれば私も花嫁修行と称して、このまま王城に居残りたいんだけど)
ヒスコック伯爵家の屋敷に戻るのだけは、死んでも嫌だった。
それに、よくよく考えれば契約破棄される時期も問題だ。
もちろん犯人は早く捕まってほしい。けれど、もし逮捕の瞬間にまだメルク海域で海賊が暴れていたなら、フィデリア国への高飛びは不可能になる。
祖父に出した手紙だって、いつ到着するか分からない状況だ。かといって、婚約破棄された後まで王子の元に居座るのは、道義的におかしいことになってしまう。
「殿下が本気を出したら、いつ切り裂き魔を逮捕できるのですか?」
「……それが分かるなら苦労しないよ」
「では、メルク海域の海賊騒動はいつ頃収束するのかご存知ですか?」
「すまないが、私は海賊ではないから分からないな」
「クラスコーからフィデリアまでの手紙は、何日で届きますか?」
「どうだろうな。通常は数週間から数ヶ月だが、天候や船便の種類によっても変わるだろう」
「……殿下ともあろう方が、何もご存知ないなんて……」
世も末だと嘆くコートニーに対し、ステアは口元に手を当て、必死に笑い声を噛み殺していた。




