044 保留のまま、夜のサロンへ
王城の回廊を、途中で合流した眼鏡の文官・レナルドと共に歩く。
「レナルド様、ステア殿下はやっぱり怒っていますか?」
重い足取りで歩きながら尋ねると、「私には何とも」と曖昧な返事が返ってきた。
(そういう、どっちつかずな返事の時って、統計的に見ても、大抵悪い前触れなのよね……)
レナルドは視線をまっすぐ前に向けたまま、指先で眼鏡のブリッジを押し上げた。その無機質な動作が、余計にコートニーの不安を煽る。
逃げ出したい衝動に駆られるコートニーに、レナルドがボソリと呟く。
「……補足しておくならば」
「は、はい」
「殿下は先ほど、執務室の羽根ペンを三本ほど、物理的にへし折っておいででした」
一瞬、心臓が跳ね上がった。三本。それは怒りのボルテージが「ちょっと不機嫌」を通り越して、「視界に入るもの全てを灰にしたい」レベルに達している証拠だ。
「それ、もう『何とも』じゃないですよね? 完全にアウトなやつですよね?」
「主君のプライバシーに踏み込むのは、文官としていかがなものかと」
彼は淡々と言い放つが、心なしか歩く速度が上がっている気がする。コートニーを早く処刑台へ送り届けようとしているのか、それとも怒りの爆風に巻き込まれるのを恐れているのか。
どっちにしろ、悪い兆候だ。
「ただ今は、怒りを忘れるほどの事が起きているので、それどころではない、という感じかも知れませんけどね」
「それどころじゃない?」
「詳しくは殿下に直接お聞き下さい」
レナルドは、怪しげな笑みを浮かべ、話を締めくくる。
(それどころじゃない事態って、一体何……?)
「到着しました。どうぞこちらへ」
「あ、はい。失礼します……」
大きな不安を抱えたまま、ステアが待つというサロンにあっさり通されてしまう。そこは、重厚な木目調の壁に大きな風景画が映える、静謐な場所だった。
コートニーは、壁に飾られたのどかな田舎の風景画に目を奪われる。
故郷のヒスコック領と重なる景色を眺めながら、今ここに立つ自身の数奇な運命にため息が漏れる。
(今年社交デビューをしたばっかりなのに……)
社交デビューを前に、白いドレスを仕立てていた時は、まさか家族や国を捨てるという願望を、こんなにも早く、こんな形で実現させることになるとは思ってもみなかった。
(あの時は、もっとこう……穏やかに、計画的に未来を切り拓くつもりだったのに)
運命の急流に飲み込まれ、今や自分は王子のプライベートサロンで、歴史の大きな渦の中に立ち尽くしている。
「気に入ったのか?」
背後からの低い声に肩が跳ね、コートニーは弾かれたように振り返った。そこには、上着を脱ぎ捨て、襟元を寛がせた白シャツ姿のステアが立っていた。
月光と室内灯の淡い光が、彼のアメジスト色に染まる瞳を冷ややかに、しかし妖艶に際立たせている。その姿を見た瞬間、コートニーの脳裏に彼に抱きかかえられた時の感触が鮮烈に蘇り、顔が一気に熱を帯びた。
(っ……! だめ、直視できない。家族とだってあんなに密着したことないのに……)
脳裏に残像のように焼き付いた、あの逞しい腕の感触。
コートニーは、恥ずかしさを誤魔化すように慌てて深く俯いた。
「……あ、あの、夜分に申し訳ありません」
膝の上でぎゅっと握りしめた指先が、コートニーの動揺を何よりも雄弁に物語っていた。
「この絵は私が描いたんだ」
「えっ、そうなんですか?」
コートニーは勢いよく顔を上げ、ステアと絵画を何度も見比べた。
「……意外にも、絵がお上手なんですね」
「意外にもは、余計だ。私は比較的なんでも卒なくこなせる、万能タイプの王子だからな」
おどけた調子で自画自賛するステアを見て、コートニーは直感した。
(……これ、わざとよね? お互いの間に漂う気まずい空気を、なんとか緩和しようとしてるんだわ)
彼もあの「密着事件」を気にしているのかもしれない。
実際、思い出すだけで顔が火照るほどの大事件なのだから。
コートニーはステアの気遣いに全力で乗ることに決め、調子を合わせて軽口を叩いた。
「殿下は自信過剰ですね」
「君の頑固さには負ける」
「私はそこまで頑固ですかね?」
「何度失敗しても逃走を諦めないのだから、十分頑固だろう」
「……確かに。私はどうも頑固なようです」
ようやく二人から余計な力が抜けたのを感じたのか、ステアは「認めてくれたか」と微かに唇を綻ばせた。
「とりあえず、座ってくれ」
そう言って、ステアがさりげなくエスコートのために腕を差し出した。
おそらく、高貴な身分ゆえに身に付いた「重度の紳士病」なのだろう。無意識に女性を労わろうとするその所作は完璧だったが、今のコートニーには、それを素直に受け入ることはできない。
「申し訳ございません。今日は正式なお茶会ではないと思っておりましたので、このような状態で……」
コートニーは失礼を詫びるように、手袋をしていない両腕を顔の前に掲げた。
王城の暮らしに馴染みすぎて、実家の屋敷を歩くような感覚で手袋を忘れたというズボラな事実は、歴史の闇に葬っておく。
「そうか。伝えなかった私の責任だ。とは言え、今日はどちらかというと仕事の話に近いからな。気にするな、座ってくれ」
幸い、ステアは彼女の素肌に触れることを避けるように、すんなりと腕を引いてくれた。
「いえ、どうかお気になさらずに」
「プライベートと仕事。相手が女性だと色々と、めんど……面目ない。今後は気をつけることにしよう」
(……今、確実に『面倒』って言いかけましたよね!?)
一瞬、冷徹な「法の猟犬」の牙が引っ込んだかと思えば、これである。
ただ、貴族の間にだけ設定された細かいルールが面倒なのは間違いない。
良くも悪くも、彼らは厳格な掟の中で「清く正しく距離を保つ」よう教育されてきた紳士淑女だ。現に今も、壁際では近衛兵と従者が空気のように静かに控えている。
独身の男女が二人きりになることなど、この社交界では許されない。
(一人の人間である前に、まず『性別』が重要視される。後継者問題が絶対の貴族社会なら、それも仕方ないのかもしれないけれど……)
その線引きが明確すぎるせいで、それぞれの役割がきっちり固定されているのも事実だ。
社会が押し付けてくる「わきまえ」のせいで、女性が一人で生きていくことは、この国ではあまりに難しい。自分が頑なに逃亡を企てるのも、煎じ詰めれば、女性が一人で生きていける仕組みがこの国にないからだ。
部屋の中央にある大きなソファに腰を下ろしながら、彼女は目の前の王子を冷ややかな目で見つめる。
(ステア殿下は、きっと私の味方にはなってくれない。だって彼は、この国の保守的な思想そのものだもの)
女性には『慎ましさ』や『わきまえ』を求める、典型的な特権階級の男性。模範的な王子として、彼はそうあるべきなのだろう。
(でも……)
「完璧な王子様」の化けの皮を剥ぎたくなってしまうのが、コートニーの悪い癖だった。
「そう言えばステア殿下は、紳士クラブで――」
お遊びをしてるんですものね、と言いかけ、コートニーは咄嗟に両手で口を塞いだ。
「どうした?」
ステアが怪訝そうに眉を寄せる。
「いえ、何でもありませんわ」
慌てて手を離し、営業用の微笑みでその場を誤魔化す。
(そもそも、殿下の夜のお遊びについて、私が口を挟む筋合いなんてないわよね)
コートニーは内心で自分に言い聞かせた。
男社会において、女性には踏み込ませたくない領域があるのだろう。それに、自分はステアの妻でもなければ、辞表を出した今となっては正式な部下でもない。
(殿下の言う通り、今の私はただの『他人』。……だというのに、なぜ私はこうして王城に連れ戻され、夜更けに呼び出されているんだろう)
考えれば考えるほど、現状が不思議でならなかった。
逃亡に失敗し、王妃に可愛がられ、今度は夜のサロンで王子と対峙している。
この支離滅裂な状況は、歴史書に記されたどの数奇な運命よりも、もっと質の悪い喜劇のように思えた。
「――それで、私を呼び出した『それどころじゃない事態』とやらを、そろそろ伺ってもよろしいでしょうか?」
コートニーはソファーからわずかに身を乗り出し、好奇心と警戒心が入り混じった瞳でステアを見据えた。




