043 休養という名の保留処分
王城へと連れ戻されたコートニーを待ち構えていたのは、この国の慈母エロイーズだった。
「まあ。早急に侍医を呼びなさい!」
コートニーの顔にべったりと貼られた湿布を見るなり、王妃は顔を青ざめさせ、絵に描いたような大騒ぎを始めた。
「一体、どうしてそんなことになってしまったの……?」
今にも泣き出しそうな、慈愛に満ちた瞳。
これにはコートニーも、ほんの少しだけ良心が痛んだ。
「実は、ネイサン様にやられまして……」
控えめに、しかし正直に告げた瞬間、王妃の顔色が一変する。
「淑女の顔に手をあげるだなんて、言語道断ですわ! すぐに制裁を考えなくては!」
烈火のごとく怒り狂った王妃は、嵐のようにその場を去っていった。
一人残されたコートニーは、呆気にとられながらも自分の頬に触れる。
(この湿布、効果絶大すぎじゃない?)
彼女はその日の出来事を日記帳に記しながら、
「大げさな湿布は、物理的打撃も精神的動揺も一瞬で冷却する」
と、力強く書き加えた。
その後、コートニーはステアから数日間の「休養」を命じられた。
「とりあえず、休め」
そう告げるステアの言葉は短く、その響きにはどこか拒絶に近い冷たさが混じっているように聞こえた。
コートニーが顔を上げると、ステアの視線は彼女の顔を正面から捉えることなく、手元の書類の端へと不自然に逸らされていた。
(私は、この先も殿下の元で働けるのですか?)
喉まで出かかったその問いを、かろうじて飲み込む。
(……これ、相当呆れられてるよね)
コートニーは肩を落とした。顔半分を覆い隠すほどの大げさな湿布に、王妃を巻き込んでの大騒ぎ。さらにはネイサンとの揉め事まで重なれば、合理主義の塊であるステアからすれば「面倒なトラブルメーカー」というレッテルを貼られても文句は言えない。
(顔も見たくない、ってことかしら。それとも、この湿布が滑稽すぎて直視できないとか? 確かに、今の私はお洒落リーダーの王妃様が泣き出すレベルのビジュアルだもんね……)
そんな彼女の推測をよそに、ステアの端正な横顔は彫刻のように固まったままだ。プラチナブロンドの隙間からのぞく耳たぶが、心なしか赤みを帯びているようにも見えたが、コートニーはそれを「怒りの予兆」だと解釈した。
「……わかりました。お言葉に甘えて、徹底的に休ませていただきます」
しおらしく一礼し、コートニーは足早にその場を辞した。
ステアから「家族の元に返す」とも、「これからも私の部下で」とも言われず、主従としての関係は、宙ぶらりんのまま。
休養中「保留」という言葉が、彼女の細い首に冷たく絡みついていた。
そんな中、懸念材料の一つだった顔の痣については、侍医が首を捻りながらこう告げた。
「湿布でかぶれているようですな。しばらくは軟膏を塗り、湿布はもう貼らないように」
「ありがとうございます」
黄ばんできた痣も、じきに元に戻ると聞いて、泣きそうなくらい安堵する。
コートニーは自分が規格外な令嬢であると自覚している。
それでも、年相応に結婚に憧れる気持ちは捨てていなかった。
(そのためにも、できるだけ美しくありたいし……それが無理なら、せめて現状維持で)
下町で見たジェーンのように、美しさは時に生きるための武器になる。
彼女は、それを学んでしまったのだ。
――だが、決意を新たにした彼女には、一つだけ計算違いがあった。
それは休養期間中、王妃エロイーズのプライベートサロンで、彼女とべったり過ごす羽目になったことである。
◇✧◇✧◇✧◇
王妃のプライベートサロンは、窓から差し込む柔らかな陽光と、咲き誇る大輪の薔薇の香りに満たされていた。
パステルブルーを基調とした室内には、繊細な金細工が施された白家具が設えられ、壁には春の庭園を思わせる柔らかな風景画が並ぶ。窓辺に飾られた大輪の薔薇から、甘く高貴な香りが漂っていた。
そこは、王城の喧騒から切り離された、温かさと気品が溶け合う優雅な箱庭だった。
エロイーズは、扇子を閉じるかすかな音と共に、目の前に立つコートニーを慈しむような、それでいて厳しい審美眼を湛えた瞳で見つめていた。
「若さという瑞々しさは、それ自体が最高の宝石。けれど、その輝きを安っぽいガラス細工の中に閉じ込めてはいけないわ」
彼女はゆったりとした所作で立ち上がると、シルクのドレスが擦れる衣擦れの音を響かせ、並べられたドレスの生地の前へと歩み寄る。
エロイーズが細く白い指先で選んだのは、意外にも装飾を削ぎ落とした、淡いヴィクトリアン・ピーチのシルクサテンの生地だった。
「フリルやリボンで飾り立てるのは、隠したい欠点がある者のすることよ」
王妃の迷いのない言葉に、コートニーは小さく息を呑んだ。
(……なんて綺麗な色)
目の前に広げられた生地は、熟した果実の産毛を思わせるような、肌馴染みの良い絶妙なピンクベージュだった。光の角度によって水面のように揺らめく最高級の重目シルクを眺めながら、コートニーは内心、激しい緊張と高揚を戦わせていた。
彼女にとって、エロイーズ王妃は雲の上の存在だ。社交界の頂点に君臨し、彼女が扇を一扇ぎするだけで流行が塗り替えられると言われる憧れの女性。そんな人物が、自分のために直々にドレスを見立ててくれている。
(私に、この気品ある色を着こなせるかしら。エロイーズ殿下の期待を裏切ってしまわないかしら……)
不安がよぎり、コートニーは無意識に指先を絡めた。しかし、エロイーズがドレスの仕立てを指示するためにこちらを振り返った瞬間、その鮮やかな瞳と目が合い、コートニーの背筋は自然と伸びた。
エロイーズは楽しげに目を細めると、手元の生地見本の中から、ひときわしなやかな光沢を放つ「アイリス・シルバー」のシフォンを重ねた。
「紫の瞳を持つあの子の隣に立つなら、この色も外せないわ。プラチナブロンドの髪と、あなたの肌の色……双方が一番美しく引き立て合う組み合わせですもの」
コートニーは、エロイーズが選んだ生地の組み合わせを見て、頬が熱くなるのを感じた。
(……えっと、ステア殿下と並んで歩くことが前提なのはなぜですか?)
コートニーは内心激しく動揺した。しかし、ウキウキとドレスを選ぶ、目の前の相手は社交界の女帝。あまりに恐れ多く、「……深読みしすぎでしょうか」という言葉を、辛うじて飲み込んだ。
「早急に仕立てて、あの子の元へ届けさせますわね」
エロイーズが満足げに頷いたその時、コートニーは意を決して、ドレスの裾を握りしめるようにして声を上げた。
「あの……王妃様! このドレスですが、代金は……代金だけは何としてでも、私自身の蓄えからお支払いさせてくださいませ」
唐突な申し出に、王妃は少し意外そうに眉を上げた。
「あら、そんなこと気にしなくていいのよ。ステアの経費につけておくよう手配するから」
「え」
「使い道のなかったあの子に割り当てられた交際費は、こういう時のためなのよ?」
(……ステア殿下の経費!?)
スッと、血の気が引いた。
(国民から預かっている大切なお金を、私一人の見栄のために使うなんて!)
コートニーの脳裏には、かつて貪欲に読み漁った様々な国の歴史書が、凄まじい速度で駆け巡る。
「いいえ! 私は殿下の部下でも、ましてや私兵でもございません。殿下のお金で設えていただくわけには参りませんわ。公私の別を曖昧にするのは、古今東西、亡国の前兆と決まっています! 奢れる者は久しからず、かつての東方諸国が贅沢三昧で国庫を空にして滅んだ二の舞を、殿下に踏ませるわけにはいきません!!」
勢いよくまくしたてたコートニーに、エロイーズは動きを止め、扇子をそっと唇に当てた。その瞳は驚きに丸められた後、すぐに悪戯っぽく、そして底知れない優しさを孕んだ三日月形へと変わる。
「そう……あなたは、彼の部下ではないわ。だってあなたは……」
ふふふ、とエロイーズは意味深に微笑んだ。
(だって、私は……何だというのですか? 「将来の納税者代表」? それとも……まさか、「身内」扱いとか言わないですよね!?)
コートニーは背筋に冷や汗が流れるのを感じた。持ち前の好奇心が「その続きを詳しく!」と騒ぎ立てるが、これ以上踏み込むと、取り返しのつかない深淵に足を踏み入れてしまう気がして、反射的に思考のシャッターを下ろした。
エロイーズはゆっくりとコートニーに歩み寄り、その白く細い指先でコートニーの顎をそっと持ち上げた。至近距離で見つめる王妃の瞳は、まるで春の湖のように穏やかで、同時にすべてを見透かすような鋭さを秘めている。
「いいわ。あなたのその、頑固なまでの『矜持』と、少し変わった知識……嫌いじゃないわよ。いいえ、むしろ大好きだわ。支払いはあなたから受け取りましょう。……ただし、あの子に貸しを作らせる機会を奪ったのですから、その分、あなたには頑張ってもらわなくてはね」
エロイーズはコートニーの耳元に顔を寄せると、甘く、それでいて有無を言わせぬ女王の響きで囁いた。
「ステアの隣で誰よりも誇らしく、美しく笑ってみせること。それから――あの子の鉄面皮を、一度でもいいから剥がして赤面させてご覧なさい。それが私のデザイン料よ」
「……えっ、あ、赤面!? あの『法の猟犬』と噂される殿下を、私がですか!?」
コートニーは思わず素っ頓狂な声を上げた。金銭を支払うよりも遥かに難易度が高く、それでいて「知識の塊」である自分の腕が鳴るような挑戦状。
王妃の遊び心に満ちた瞳を見て、コートニーの心の中の「お調子者」が、不敵にニヤリと笑った。
「ドレスが仕上がるまで、私のお下がりで良ければ貸すわよ?」
「とんでもございません。お気持ちだけで十分です」
そんなやり取りを数回繰り返した末、コートニーはようやく、王城の侍女たちが着用している落ち着いた紺色のワンピースドレスを数着ほど、拝借することに成功した。
「新たな気持ちで頑張りなさいね」
優しく励まされ、コートニーは自分が本当に恵まれていることを実感する。一体誰が自分の所在を密告したのか。そして、あの大切なトランクを誰が盗んだのか。心当たりがないわけではないが、できれば思い浮かぶ人物が犯人だとは信じたくない。
そんな複雑な感情を抱えるコートニーにとって、エロイーズとの騒がしくも楽しい時間は、傷口を塞ぐかさぶたのように、ささくれだった心を修復してくれた。
◇✧◇✧◇✧◇
明日でステアに言い渡された休養期間が終了という日の夜。
(さて、まずは「赤面計画」の立案ね。心理学的アプローチか、それとも歴史上の名花たちが使った古典的な誘惑術か……。あんな無機質な鉄面皮をゆでダコにできたら、それはもう、歴史に残る快挙よね)
新たな目標を見つけたコートニーは、自室として与えられている王城勤務者の独身寮で、机に向かい、一人日記帳に鉛筆を走らせていた。
窓の外には、王都の夜景が宝石をぶちまけたように広がっている。
「よし……まずは視線の角度。十五度の傾きは『信頼』、三十度は『依存』。そして、首をかしげての上目遣いは――」
使い古された日記帳には、古今東西の歴史書から抜粋した「人心掌握術」の数々が、怪しげな図解と共にびっしりと書き込まれていく。
だが、その時。
コン、コン、と控えめながらも鋭いノックの音が静まり返った室内を叩いた。
「泥棒!? それとも家族!?」
コートニーは飛び上がって扉を見つめる。
「女子寮の伝言係、リディです。失礼いたします」
扉の向こうから聞こえてきたのは、規律正しくも穏やかな女性の声だった。コートニーは「女子寮の掟は守られてるわ」と一安心し、慌てて手にした日記帳をベッドの奥へと押し込んでから扉を開けた。
「こんな夜更けに、お疲れ様です。リディ様。どうされました?」
「ステア殿下よりご伝言です。至急、執務室まで来るようにと」
「……えっ、今から!? もうパジャマ……一歩手前の、かなりリラックスした格好なんですけど」
コートニーはエロイーズから借りたばかりの、肌触りの良い寝間着用のチュニックを指差した。だが、リディは無表情のまま、プロの眼差しでコートニーを一瞥した。
「五分でお着替えを。殿下は『一分一秒を争う事態だ』と仰せです。……それと、コートニー様」
「は、はい!」
「……日記帳は、もう少し奥に隠された方がよろしいかと。表紙が掛け布団からはみ出しております」
「え!?」
「職業柄、視界に入る情報はすべて処理いたしますので。お急ぎを」
リディが再び扉を閉めると、コートニーは顔から火が出る思いで日記帳をクローゼットの奥底へと隠し直した。
(というか、休養期間は明日までじゃなかったの!? まさか、エロイーズ様との『密談』がすでに筒抜けで、深夜の強制尋問とか?)
コートニーは冷や汗を流しながら、慌てて紺色のワンピースに袖を通した。
心理学も歴史的誘惑術も、まだ頭の中で体系化できていない。丸腰の状態でラスボスの間へ放り込まれるような心地で、彼女はリディに導かれるまま夜の回廊を駆け抜けた。




