041 逃亡七日目、悪魔の王子が踏み込んできた
美しさを放棄し、湿布を貼り続けて七日目。
コートニーの頬は、肉体的な限界の悲鳴を上げていた。
「本当にこれ、大丈夫なのかしら……。なんかまずくない?」
部屋に備え付けられた、歪んで曇った鏡の前に立ち、コートニーは自分の顔を確認して呆然とした。
鏡の中にいたのは、かつての「伯爵令嬢」の面影など微塵もない、無惨な姿だ。青かった痣は不気味な黄色に変色し、湿布に負けた肌が激しい痒みを訴えている。おまけに、まるでおたふく風邪にでもなったかのように、頬がパンパンに腫れ上がっていた。
(……このまま二度と元に戻らなかったら、どうしよう)
指先でおそるおそる頬を撫でながら、コートニーは底知れぬ不安に襲われる。美しくありたいという淑女の矜持を一時的に捨てたつもりだったが、一生この痣や腫れが残ることなど、望んでない。
「でも、懸賞金が……」
現在、コートニーは絶賛指名手配中だ。もしもこの湿布を剥がし、正体が露見してしまえば最後。確実に実家へ引き戻され、あのテニソン卿との絶望的な結婚という名の監獄にぶち込まれることになる。
「……それだけは、絶対に嫌」
自分の揺るぎない決意を再確認し、コートニーは泣く泣く、痒みを帯びた肌の上から新しい湿布を貼り付けた。
「ミネット、あんたとあたしで今日は洗濯の手伝いをしろってさ」
大部屋の隅で、隠れるように顔を確認していたコートニーの背後から、不意に声がかかった。 鏡越しに視線が合い、コートニーは慌てて湿布を顔に押しつける。
「あれ? 今日はナナさんと仕事のペアを組むようにと言われてますけど……」
訝しみながら振り返ると、そこに立っていたのはナナではなく、別の女性だった。
「それが、朝起きたらナナの姿がなくてね。きっと娘の所に転がり込んでるのかもよ。なんせ、あそこの娘はそろそろ出産の時期らしいからねぇ」
「出産ですか」
「娘が、だよ?」
ナナと同年代、女盛り真っ只中といった風貌の女性が、豪快に笑いながら念を押すように告げた。
「ナナさんの娘さんが出産されるんですよね?」
「流石に分かっています」と、コートニーも笑い混じりに返す。
「そう。なんせ初孫らしいからね。ナナも旦那に若くして死なれて苦労してたけどさ。大事な一人娘だし、居ても立ってもいられなくなったんじゃないかねぇ」
(……ナナさん、あんなにお喋りなのに、家族のことは一度も話してくれなかったな)
娘、初孫、亡くなった夫。 厳しい現実を笑い飛ばしながら生きていたナナの背景を初めて知り、コートニーの胸に温かな風が吹き抜ける。
(誰もが自分の人生を必死に守りながら、誰かを愛して生きている。……私も、今は自分のこの「醜い姿」を守り抜いて、自由を手に入れなくちゃ)
すっかり前向きになったコートニーは、腫れた頬の痛みさえも「戦いの証」のように感じた。
「じゃ、今日はよろしくね。あたしは先に行ってるから」
「あ、用意したらすぐに向かいます」
「頼んだよ」
ペア変更を告げてきた女性は片手を上げ、部屋を去っていく。
「さ、早く髪の毛を結ばなきゃ」
コートニーは背中に流れる髪をまとめようと、グレーのワンピースのポケットを探る。しかし、あるはずのリボンが見当たらない。
「あれ?」
コートニーはベッドの脇にしゃがみ込み、その下に押し込んであった革のトランクを引っ張り出した。首から下げた鍵を鍵穴に差し込むが、どういうわけか奥まで入らない。
「錆びちゃった?」
不思議に思い、ワンピースの裾で鍵の先端を丁寧に拭ってみる。そして再度、慎重に鍵穴へ向けた時、彼女の手が止まった。
「えっ……これ、私のトランクじゃないわ」
コートニーのトランクは、王城でステア殿下から支給されたものだ。外見こそありふれた茶色の革製だが、鍵穴を留める金属部分には、ステアを示す「フクロウ」の紋様が小さく刻まれている。
本当は返すべき品だったが、ステアに辞表を提出して王城を飛び出した時、コートニーは意地でもこれを持ち出すことに決めた。
(もちろん、あの傲慢なステア殿下に一泡吹かせてやりたかった、ってのもあるけど……)
彼が用意したトランクは、今の自分を証明する唯一の品のように感じて、手放すのが惜しかった気持ちもあった。
ちなみに、相応の現金を部屋に残してきたため、法的には「買い取った」扱いになる。だから決して泥棒ではない……はずだ。
コートニーは、身に覚えのないトランクに顔を顰める。
「……フクロウの紋様がないわ」
改めて鍵穴付近を確認し、がっかりと肩を落とす。トランクを持ち上げてみると、その軽さは決定的だった。中身が入っている手応えがほとんどない。
「すり替えられたのね……」
コートニーはその場にぐったりしゃがみ込む。
意外にも、金銭的なショックはさほど大きくなかった。こういう事態も想定して、軍資金となるお金は常に服の内側に隠し持ち、身につけていたからだ。それに、ここへ来た初日にシスター・セシルから「盗難は自己責任です」と耳にタコができるほど言い聞かされてもいた。
「あ、でも……!」
不意に思い出し、顔から血の気が引いた。
トランクの奥には、母の形見である指輪を一つだけ隠していたはずだ。オーバルカットのサファイアをダイヤモンドで縁取った、一目で高価だとわかる特徴的な金の指輪。
「本当に、悪いことをする人っているんだわ……」
たとえこちらが何も落ち度なく過ごしていても、奪われる時は奪われる。その理不尽な事実は、腫れた頬の痛み以上に、コートニーの心に暗い影を落とした。
(待って。今朝から姿が見えないナナさん。そして、私のトランクがすり替えられている……。これって、まさか……)
目下の問題は、トランクを盗んだ者がコートニーの正体に気づいているかどうかだ。もし気づいた上での犯行なら、目も当てられない。
単なる中身目当ての盗難なら、指輪を売られて終わりだろう。けれど、もしあの「フクロウの紋様」の意味を知る者が、持ち主の正体を確認するために盗んだのだとしたら……。
(何をもって私のトランクに目をつけたの? どこでボロが出たのかしら……)
何より、正体がバレてしまった場合、もうここにはいられない。
途方に暮れるコートニーの耳に、ドカドカという乱暴な靴音が飛び込んできた。
修道院の静寂を切り裂くその音は、明らかにシスターたちの忍び足ではない。逃亡生活で研ぎ澄まされた彼女の直感が、全身の毛穴を逆立たせる。
「えっ、何!?」
コートニーは慌てて立ち上がり、部屋の入口に体を向ける。
「やっと、見つけた」
「げっ」
そこには助けて欲しい時に全く現れず、会いたくないと思う時に限って現れる人物がいた。
「私を手間取らせた罪は重いぞ。さぁ、観念しろ……ってその顔。だ、大丈夫なのか?」
手に持ったステッキの先をコートニーに向け、なぜかどもりだし、目を丸くするのは、悪魔のゴロツキ王子ことステアだった。
ステアは黒いスーツとフロックコート。それに頭にシルクハットを乗せた完全紳士仕様で、コートニーの顔を見て固まっている。
そんな彼を視界に入れたコートニーは冷静に思う。
「まぁ、久々に貴族っぽい人を見たような気がするわ」
コートニーは怒りを忘れ、天辺からつま先まで。皺にチリ一つない清潔感たっぷりな服装に身を包むステアに、至極関心したのであった。




