040 恋人という噂と、薄氷の幸福2
ふやけたパンを噛みながら、コートニーは先程ジェーンの口から出た人名について、一人で思考を巡らせていた。
(でも、ハウエル卿って……)
コートニーの脳裏に、社交界で「おしどり夫婦」として知られる、ハウエル伯爵夫妻の姿が浮かんだ。
(……あの、淑女の鑑と名高いサラ・ハウエル伯爵夫人の旦那様よね?)
サラは、エロイーズ王妃を囲む「円卓の貴婦人」の一員だ。夫との仲睦まじい様子を穏やかに語る彼女の姿を、コートニーは何度も目にしている。その裏で、夫であるハウエル卿がジェーンのような輝くばかりの美女を囲い、あまつさえ「望まぬ妊娠」の処理まで手伝うような裏の顔を持っているなんて。
(淑女の教本が説く「家庭の幸福」なんて、なんて薄氷の上に成り立つ虚像なのかしら)
コートニーは、胃の奥が冷たくなるような感覚を覚えた。自分が実家で強いられていた「政略結婚」も、結局はこうした欺瞞の上に積み上げられるはずのものだったのだ。
「どうかしたの? ミネット。そんなに難しい顔して」
ジェーンが首を傾げ、覗き込むようにコートニーの顔を見た。吸い込まれそうな青い瞳が、湿布の隙間から見えるコートニーの瞳を真っ直ぐに捉える。
「あ、いえ。その……ハウエル卿という方は、とても力のある方なのですね」
咄嗟に言葉を濁したが、ジェーンは得意げに鼻を鳴らした。
「ええ。顔は普通だけど、お金と顔は広いの。ダナも、彼に頼めば救貧院に行かずに済むし、お腹の子も……まぁ、穏便に片付くわ」
ジェーンは、善悪を量るような素振りを一切見せなかった。
ただ「そういうものだ」と言わんばかりに、淡々としていた。
何でもないことのように言った彼女は、再びふやけたパンを口に運ぶ。
コートニーは、自分のすぐ隣で話されている内容が、王城の執務室でステア殿下と交わしていた「人道」や「法」の議論とはあまりにかけ離れていることに眩暈を覚えた。
(ここでは、法よりもパトロンの慈悲が、何よりも優先される。……そして、そのパトロンの資金源は、私がいた世界の「欺瞞」でできているのね)
コートニーは、手に持ったスプーンが重く感じられた。
「そうだジェーン、あんた新聞見た?」
「見た、見た。伯爵令嬢が行方不明だって。イラスト付きのやつ」
コートニーは驚きのあまり、口に含んでいたスープを吹き出しそうになった。
「なんでもあの令嬢はステア殿下の恋人らしいよ。だから五十リンクも懸賞金がかかっているんだって」
女性の口から思わぬ言葉が飛び出し、コートニーはスープを吐き出す代わりに器官に入れてしまう。その結果、ゴホゴホと激しく咳き込む事になり死にかけた。
「あんたまさか……」
背中をさすりながら、隣に座るお喋りな女性――ナナがいわくありげな顔でコートニーを見つめる。
(まずい、まさか私が私であることが!?)
コートニーが息を詰めた瞬間。
「殿下のファンだったのかい?」
(それだ!!)
「そ、そうなんですよ。大ファンなんです。うわーん、ショック」
コートニーはその場を切り抜けようと、顔を覆って大袈裟な泣き真似をしてみせた。
内心では「あんな悪魔じみたゴロツキ王子のファンだなんて、天地がひっくり返ってもあり得ない!」と、嘘でもファンなどという言葉を口走ってしまった自分への憤りでいっぱいだった。
(でも背に腹は変えられないわ)
今はこの場を誤魔化し通すことが先決だ。
海賊の縄張り争いが終わるまで、自分が世間で行方不明扱いになっている伯爵令嬢だなんて、周囲にバレるわけにはいかないのだから。
「夢見るのは自由だけど、流石にステア殿下、あれは堅物すぎるから無理だと思うよ」
すでに食事を終えたらしいジェーン。
大きく伸びをしながら、さもステア殿下と知り合いかのような言い方をした。
「あんた、まさか畏れ多くも殿下にアタックしたのかい?」
ナナが驚きの声を発する。
コートニーも彼女の隣で「そうなの?」と、目を丸くする。
「お貴族様が集まる紳士クラブのホワイトホースに呼ばれた事が一回あるんだけどさ、全然駄目だったよ」
「紳士クラブ……」
コートニーは小さく呟き、ついうっかり義理の兄、フレデリックを思い出す。彼が足繁く通っているのは、今話題にあがったばかりの「ホワイトホース」だ。
でも紳士クラブは女性禁制のはずなのに、どうして女性が?
しかも夜の仕事の人がクラブに招待される意味って?
コートニーは激しく混乱した。
「あんたくらい評判が立つと、ステア殿下が参加する紳士クラブにもお呼ばれするってことかい?」
「その時は参加者に空きが出来て呼ばれただけ。でもまぁ私なんて末端の商売女なんだなって、かなり落ち込んだだけだったけど」
「そりゃまたどうしてさ、あんたはイースト地区で一番の別嬪さんじゃないか」
ナナがまるで自分の事のように、誇らしげに告げる。
「だってそのパーティには有名なオペラ歌手とか、バレエダンサーとかいたし。それに貴族専門の高級娼婦の女とかもうじゃうじゃいた。何より着ているドレスも私が一番質素だったし、何だか住む世界が違うって気後れしたのよ」
ジェーンが胸の下で腕を組み、不貞腐れた顔になる。
「あー、それは無理だ。勝てないね」
「それに事前に性病検査をさせられたし、私が急に呼ばれたのだって、娼婦の一人が性病検査で引っ掛かったからだしね。苦労の割に実るものがなかったわ」
「そりゃ、ご苦労さんなこった」
「ほんとに」
コートニーを置き去りにし、どんどん進む会話。
「妻を家に閉じ込め、男性は好き勝手外で女と遊んでいるのよ」と憤慨する貴婦人達を見たことがあるけれど、あれはあながち嘘ではないようだ。
結婚する女性には「慎ましやかでわきまえる」事を求めておきながら、自分達は外でその規格から外れ、世間から後ろ指を刺される女性と夜をともにしているという現実。
何だかそれはひどく矛盾しているし、コートニーが今まで「そうあるべき」と従っていた事が本当に女性にとって正しい事なのか、ふと疑問に思った。
それにしても。
(ステア殿下の恋人だなんて、どうしたらそんな事になるのだろう)
「最低だわ」
コートニーは脳裏に浮かぶステアのすました顔に、一人文句を口にしたのであった。




