004 家族という名の牢獄2
アップルビー伯爵は、社交界で穏健と称されているが、実態は刺激を嫌う気難しい人物だ。
もっとも、領地では大規模な農場を経営し、羊毛や小麦を売りさばいて莫大な利益を上げている。
彼が結婚相手を探し求めている理由は明白だった。
未だ、跡継ぎとなる子に恵まれていないから。
これまで幾人もの令嬢が縁談を持ちかけられたが、その多くが辞退している。
理由は決まっていた。
「世継ぎを産むための道具」という役割。
そして、偏屈で閉鎖的な生活。
そのどちらにも耐えきれず、縁談は破談になってきたと、社交界ではまことしやかに囁かれている。
「アップルビー卿は昨夜の騒動を聞いてもなお、あなたを迎え入れたいと仰ってくださったのよ」
ソフィアは慈悲深い母を演じる声音で言った。だが、その奥底にある「厄介払いができた」という歓喜は、隠しきれていない。
「むしろ、あんな風に注目を浴びてしまったあなたを引き取るのは、自分くらいのものだと。同情までしてくださっているわ」
(……なるほど)
コートニーは、すべてを理解した。
(地代で潤う肥沃な土地と、膨大な羊毛の利権。コンラッド伯爵家の経営が苦しい今、ソフィアは私を高値で売り、その結納金でリリアの社交界生活を盤石なものにするつもりなのね)
遅かれ早かれ、家のために売られる覚悟はしていた。
(でも、さすがに相手が悪すぎるわ)
コートニーは、下ろした手をぎゅっと握りしめた。
「やだ、お母様」
リリアが、くすくすと笑う。
「アップルビー卿って、お父様と同じくらいの年齢じゃない。条件が良い男性とは言えないわ」
わざとらしく肩をすくめて、続ける。
「ステア殿下を狙っていたコートニーには……残酷すぎない?」
リリアの楽しげに紡がれる言葉に、ソフィアは微笑んだ。
「あら。今シーズンで一番最初に結婚相手が決まるなんて、相手が誰であろうと名誉なことよ」
(断じて違うと思うけど)
喉元まで出かかった言葉を、必死に飲み込む。
「……母上、正気ですか?」
厳しい顔になったフレデリックが、口を挟む。
「もちろん正気よ」
ソフィアは即答する。
「しかも、候補は一人じゃないのよ?」
楽しげに、さらに言葉を重ねた。
「テニソン卿からも、コートニーに会わせてほしいと手紙が来ているの」
「テニソン卿……」
フレデリックが、ついに言葉を失う。
その反応だけで、相手の人となりは察しがつく。
「テニソン卿って、確か……まだお若いけれど、女遊びが激しいって噂の?」
リリアが無邪気を装って尋ねる。
「噂じゃない」
フレデリックが肩をすくめる。
「すでにホワイトクラブを出禁になりかけてる男だ。賭博で借金を背負って、返済しない限り会員資格を剥奪されるらしい」
(……なるほど)
コートニーは、完全に理解した。
ソフィアは、結婚市場で余っている男を、わざわざ選んで差し出している。
「ねぇ、お母様」
リリアが甘えた声を出す。
「私がステア殿下と結婚したら、コートニーの結婚相手も縁続きになる人なのよ? もう少しマシな人はいないの?」
確定事項のように語るその口ぶりに、コートニーは呆れた視線を送る。
(……気が早すぎるんだけど)
「色々と吟味はしたのよ」
ソフィアは、いけしゃあしゃあと言った。
「でもね、病弱な女性を嫁にしてもいいなんて、そんな寛大な殿方、本当にいないのよ」
「え、でも今日の社交新聞には、コートニーの件は載らなかったじゃない」
リリアが、不思議そうに首を傾げた。
「せっかくお姉様があんなに目立つ倒れ方をしたのに、『悲劇の病弱令嬢』っていう見出し、どこにもないの。それどころか――」
リリアは、忌々しそうな顔になる。
「昨夜の事件の記事が大きすぎて、デビュタントの記事も隅に追いやられているわ」
「……ふん、運が良かったのよ」
ソフィアが鼻を鳴らし、再びコートニーに軽蔑の眼差しを向けた。
「それでも、目撃者全員の口を塞げるわけじゃないわ」
扇子で口元を隠しながら、哀れむような目でコートニーを見つめる。
「影では、あなたの悪評が……水が布に染み込むように、広がっているのよ」
「……何で、私ばっかり悪者なの?」
ついに、声が漏れた。
「ワインをかけたのは、リリアよ?」
一瞬、空気が張り詰める。
「リリアは、躓いただけよ」
ソフィアは、平然と言い切った。
「不慮の事故なら、仕方がないでしょう?」
「嘘よ」
コートニーは、リリアをまっすぐ見据えた。
「ステア殿下が、あなたより先に私に声をかけた。それが許せなかったんでしょう?」
それは、核心を突く言葉だった。けれど、リリアは怯むどころか、クスクスと喉を鳴らして笑い始めた。
「あら、お姉様。やっぱり何も分かっていないのね」
リリアは勝ち誇った顔で、一歩コートニーへと詰め寄る。
「監禁されているもの。何も知りようがないじゃない」
「監禁じゃないわよ」
リリアが訂正する。
「反省を促すお仕置きでしょ? ね、お母様」
「そうね」
ソフィアが即座に同意する。
「ですって、コートニー」
リリアは勝ち誇った顔で告げた。
「それに、あの時現場にいたステア殿下が、『不慮の事故だった』って、みんなの前で私のことを庇ってくれたのよ?」
「庇って、くれた……?」
コートニーの思考が、一瞬だけ停止した。
真実を見抜くことに関しては容赦のない「法の猟犬」と呼ばれる、ステアが、リリアの拙い演技に騙された。
(嘘でしょ?)
動揺を見せまいと努めるが、リリアの言葉は止まらない。
「殿下は仰ったわ。『令嬢の不注意を責めるのは、紳士のすることではない』って。お姉様を抱き上げたのも、場を収めるための単なる慈悲よ。勘違いしないでね?」
リリアは悦に入った表情で、くるりと足元でステップを踏んだ。
「だからお姉様、あなたは黙ってアップルビー卿かテニソン卿のところへお嫁に行けばいいのよ。それが、コンラッド家の、そして『私たちの』ためなんですもの」
「……そう、ステア殿下がそう仰ったのね」
落胆する心と共に吐き出した呟きは、空気に飲まれてすぐに消えた。
(結局真実なんて、声の大きな者と立場ある者の都合で書き換えられるわけね)
コートニーの瞳から、わずかに残っていたこの国への未練が、氷が溶けるようにして消え去る。
「コートニー。殿下自らリリアを免罪されたのよ。これで、昨夜の醜態の責任はすべてあなたの『不注意』だと、そういう結論になったのよ」
ソフィアが満足げに扇子を畳む。
「恨まないでね、お姉様」
リリアは、まるでおとぎ話の結末が決まったかのような、純真無垢な顔でコートニーを見下ろしていた。
「確かに、あなたは憎らしいほど美しいわ」
ソフィアは続ける。
「でも、美しさなんて三日で飽きるものよ。愛想の良さなら、リリアの方がずっと――」
「あー、まぁ」
フレデリックが話に割って入った。
その瞬間、ソフィアがきりりと彼を睨む。
「……確かに、コートニーは勝ち気さが顔に出てるような?」
気弱なフレデリックは、ソフィアの機嫌を取る方向にシフトする。
(フレデリック、黙ってて)
コートニーは無言で彼を睨みつけた。
「とにかく」
ソフィアは、分厚い貴族年鑑と手紙の束を机に置く。
「最終的に判断するのはお父様よ。でも、一応、あなたの希望も聞いてあげる」
良い母だと言わんばかりに微笑むその顔に、もはや怒りすら湧かない。
(……さすがに、笑えないんだけど)
「あなたの将来がかかっているのよ。自分で選びなさい」
「ステア殿下のご迷惑にならない人にしてよね」
リリアが、念を押す。
「……どれも微妙すぎる。母上、コートニーの気持ちも――」
フレデリックがふたたび異議を唱えかけるが、ソフィアは一瞥で黙らせた。
「フレデリック。これはコンラッド家のための決定よ」
そして、冷たく言い放つ。
「コートニーも、自分の血を呪うより、こうして家の役に立てることを喜ぶべきでしょう?」
ソフィアはリリアの肩を抱き、勝ち誇った足取りで部屋を出ていく。
フレデリックは何度も振り返り、何か言いかけたが、結局は重い溜息を吐いて二人の後を追った。
カチリ。
再び、無機質な施錠の音が響く。
静まり返った室内で、コートニーはゆっくりと椅子に座り直す。
「今日も……最悪を更新中ってわけね」
引き出しの奥から、フィデリアの絵葉書を取り出す。
コバルトブルーの海が、暗い室内で皮肉なほど鮮やかに輝いていた。
(ソフィア、お見事だわ。私を『政略結婚』という名の墓場へ送るつもりなのね)
だが、彼女の瞳から、淑女の温度が消えた。代わりに宿ったのは、極限の状況下でこそ冴え渡る、冷静な観察者の光。
(アップルビー卿。テニソン卿……)
そのどちらかと結婚するくらいなら。
「……家を出るに決まってるじゃない」
静かに、しかし確固として決める。
「どんな手を使ってでも、必ずやり遂げるわ」
コートニーは、絵葉書の中を舞う自由なカモメを探すように、鋭い視線を空へと投げた。




