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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第五章:逃げた伯爵令嬢は、五十リンクの価値を知る
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039 恋人という噂と、薄氷の幸福1

 シスター・セシルから忠告を受けたコートニーは、頬とおでこに痛々しいほど大きな白い湿布を貼っていた。


 淑女の教本『美しさの鍵』では、三章分も費やして顔色の重要性が説かれている。

 それによると「顔色の重要性は強調してもし過ぎることはない」らしく、「血色が良い」ことは最重要で、なおかつ「顔色を美しく保つために、ありとあらゆる手段を講じることは女性の義務である」とまで言い切っていた。


(つまり、冷たい風に吹かれて湿布が冷え、その冷たさで真っ青な顔をしている今の私は、美しさという観点では「最悪」を更新中ってわけね)


 コートニーは、廊下の窓ガラスに映る自分の姿を横目で盗み見た。ヴェールから覗くのは、青白く血色の悪い、どこか幽霊じみた顔だ。


(でも、悪いことばかりじゃないわ)


「虐待を受けた可哀想な娘」という設定を守り通した結果、新聞に似顔絵付きで指名手配されてから二日が経過した。逃亡生活も五日目を迎えたが、今のところ警察に補導される気配はない。


(あのステア殿下が、五十リンクもの懸賞金をかけて私を追っているというのに……この湿布とやつれた顔が、最高の変装になってくれているみたいね)


 コートニーは、前向きに明るく微笑んだ。




 ◇✧◇✧◇✧◇




 石壁で天井がアーチになった薄暗い修道院の食堂。


 窓から差し込む冬の淡い光は、高い天井で複雑に屈折し、床の石畳に冷ややかな影を落としている。空気はひんやりと湿り、わずかな煮炊きの匂いと古い石材の香りが混じり合っていた。


 整然と並べられた厚みのある木製テーブルは、長年使い込まれたせいで表面が滑らかに摩耗し、鈍い光を放っている。


 華やかなシャンデリアも温かな絨毯もない。ただ生きるための糧を享受するためだけの空間で、一時避難者として扱われているコートニーは、シスターたちとは離れた場所で一人、静かに栄養を補給していた。


 本日のメニューは温かい野菜スープに石のように硬いパン。


 コートニーは逃げ込んだ初日、このパンをそのまま齧ろうとして「血を見るわよ」と見知らぬ女性に苦笑いで指摘された。石のように硬いパンは、通常のパンとして扱うなんてもってのほか。スープに浸して、十分にふやかしてから食べる物なのだ。


 セットで配給されるスープも味は薄く、具も申し訳程度にぷかぷかと浮いているだけ。かつて王城で、温かな火の側で提供されていたフルコースを思えば、あまりの落差に眩暈がしそうになる。


 けれど、今のコートニーにとって、これは「食事」というよりは「栄養補給」に近かった。


(味がしなくても、喉を通らなくても、食べなければ戦えない……。あのステア殿下や、私を売り飛ばそうとした家族と戦うための、これは燃料なんだわ)


 泥臭く、しかし懸命に生き延びようとする己の生命力を、コートニーは口に含んだふやけたパンの重みと共に噛み締める。


「ねぇ、あんたのそれ、男にやられたって本当?」


 隣に座る見知らぬ女性が、コートニーに話しかけてきた。四十代前半といった風貌の彼女は、襟ぐりの開いたマスタード色の明るい綿ワンピースに白いエプロンを重ねている。どうやら彼女もコートニーと同じく、一時避難者としてここに身を寄せている女性のようだった。


「ええ、まぁ、やられました」


 コートニーは曖昧に答え、スープを口に運ぼうと木のボウルを両手で持ち上げた。


「どうせ、失業してあんたに当たり散らしたんだろう?」


 矢継ぎ早に飛んでくる質問に、コートニーはボウルをトレイの上に戻した。


「そうですね。そんなところです」


 変に興味を持たれ、顔をジロジロと観察されるのはまずい。コートニーは警戒し、あっさりとした返信に留める。


「情が湧くかもしれないけどさ、別れなきゃ駄目だよ。そういう男は同じことを何度も繰り返すんだから」


「ですよね」


「あなた、子供は?」


「いません」


「そう。それは何よりね」


「ええ」


 会話が途切れた隙に「今だ」と、コートニーは木のボウルを素早く口元へ運ぶ。


 ここは、守られる場所ではなく、息をつなぐ場所なのだと、改めて思い知らされる。


「あらジェーン、売れっ子のあんたがここにいるなんて珍しいじゃない!」


 隣の女性が不意に声を張り上げた。どうやら非常に社交的、あるいは世話好きな性格らしい。


(座る席を間違えたかもしれないわ……)


 密かに後悔しながら「構わないでくれ」というオーラを全身から醸し出し、コートニーは気配を消して俯いた。


(あ、いい感じにふやけた)


 汁気をたっぷり吸ってべちょべちょになったパンを、スプーンでほぐして口へ運ぶ。


(うん、味はともかく、温かいというだけで幸せ)


 じわりと喉を通る熱が、冷え切った体と心に染み渡っていく。

 その安らぎを噛み締めていた時だった。


「ここで待ち合わせなの」


「何言ってんのよ、ここは女子修道院。客になる男なんていやしないわよ」


「そんなのわかってるわよ」


 コートニーの向かい側で椅子を引く音が響き、誰かが座る気配がした。


「うわ、あんた、すごい顔」


 明らかに自分に向けられた言葉だと察し、コートニーは渋々顔を上げた。


 そして、彼女は息を呑んだ。


 向かい側に座った赤いスカートの女性が、あまりに若く、あまりに美しく――この場所には不釣り合いだったからだ。


 輝くブロンドの髪、吸い込まれるような大きな青い瞳、スッと通った鼻筋に形の良い唇。彼女は典型的な町娘の格好をしていた。紐で締め上げられた襟ぐりの深いボディスに、ラウンドネックの白いブラウス。そして、足首までを覆う赤いスカートの上には、可憐な花柄のエプロンが巻かれている。


 目の前に腰を落ち着けた女性は、非の打ち所がない規格外の美しさだった。女性であれ男性であれ、誰もがすれ違いざまに二度見することは間違いないだろう。


(……私の持てる限りの語彙力では、到底表現しきれないわ。なんて圧倒的な美しさを放つ人なのかしら)


 思わずその美貌に目を奪われ、呆然と見つめてしまったコートニーに対し、女性は屈託のない笑顔を向けきた。


「大丈夫よ、すぐに治るって」


 湿布だらけの顔を痛々しく思ったのか、彼女は励ましの言葉を添える。


「私はジェーン。よろしくね」


 ジェーンは、迷いのない手つきでパンをスープに浸しながら、気取らずに自己紹介をしてくれた。


(ジェーン……。名前まで、この輝くような美しさにぴったりだわ)


 美しくて、その上感じも良い。

 コートニーの目には、彼女がまるで地上に降りた女神のように見えた。


「私は……コートニーです」


 あえて愛称だけを伝えた。 家名がすべてと言っても過言ではない貴族社会と違い、この場所では名前にそれほど重い意味はない。わざわざ家名を名乗らずとも、大抵の相手が納得してくれることを、彼女はすでに学習していた。


(彼女のような輝く女性が、「ここで待ち合わせ」しているのは、一体どんな人なのかしら?)


 温かなスープを一口すすりながら、コートニーは目の前の美しい女性の正体と、彼女がこの殺風景な修道院に持ち込んだ「不釣り合いな華やかさ」に、かすかな好奇心と予感を抱かずにはいられなかった。


「ふふ。可愛い。まだ若そうね」


「そ、それほどでも」


「いいわ、深くは追求しないでおく」


 ジェーンはそう言うと、スープに口をつけた。


「ジェーン、それで何であんたがここに?」


 コートニーの隣に座るお喋り好きな女性が身を乗り出す勢いで、ジェーンに問いかける。


「ダナが妊娠したかもって。でも産む気はないから、ハウエル卿を紹介しようと思って。だから私もここへ。ねぇ、ダナは今ここにいるんだよね?」


 ジェーンが口をモグモグとさせながら、サラリと答える。


 行儀は悪いけれど、美人がやると何だかそれさえも許される気がした。


「昨日は見かけたけど、今日はまだ見てないね。それよりダナがしくったってこと?」


「やだ、まさか救貧院に移動させられたんじゃないよね?」


 ジェーンが木の器をゴトンとトレイに置き、顰め面になる。


「そんな気配を感じたら、ダナだってさっさと逃げてるだろうよ。それに妊婦は救貧院を免れるから大丈夫」


「あーそっか」


 ジェーンはホッとした表情を見せる。


「それよりダナに紹介するって、あんたハウエル卿とまだ繋がってんのかい?」


「そうよ?何かと便利だし。ナナには譲らないわよ」


「譲るって、あたしじゃ、断られるわよ。そもそもあんたみたいな美人を囲い込もうとするんだから、ハウエル卿は面食いって事だろう?」


「まぁね」


 ジェーンは当たり前といった感じで返答する。


 流石にここまで美人だと、「ですよね」と納得する気持ちになり、嫌味とすら感じない。


「上手くやってんのかい?」


「ええ、もちろん」


 ジェーンはこれで話は終わりと言わんばかり、ニコリと微笑む。


 どうやら話の内容からするに、ダナという人物が望まぬ妊娠をし、それをジェーンのパトロンが何とかしてくれる……といった感じのようだ。


 まるで明日の天気について会話を交わしているような気軽さを感じるが、実際の所内容は至極重い。


 なぜなら我が国では、堕胎は法的に禁止されており、社会的にも非常にタブー視されているからだ。それなのに、こんな神聖なる修道院の食堂で、しかもあっけらかんとした表情で、食事を取りながら話題に上がる事に、コートニーは愕然とする。


 そもそも、望まぬ妊娠をしてしまうような過酷な状況を「日常」として受け入れている二人の態度にこそ、コートニーは驚きを隠せなかった。

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