038 守られなかった人生3
王城から逃げ出したコートニーは、第三女子修道院に身を寄せている。
灰色の石壁に黒い柵で覆われた修道院は、一見すると安全な場所に思えた。
けれどここは貧民街と呼ばれるイースト地区に近いという事実を、シスター・セシルの告白により、嫌でも実感していた。
「修道院にいると、亡くなった人を目にする事は多いのよ。だから言い方は悪いけれど、私は死者を目にするのは慣れていると思っていたの。けれどメアリーの亡骸は直視出来なかった」
シスター・セシルの表情から、彼女が自分を恥じていることがコートニーにも伝わり、胸が締め付けられるような思いがした。
実のところ、コートニーは、イースト地区を覆う重苦しい空気の理由を、すでに知っていた。
この国の貴族社会では昔から、「労働者が貧しいのは怠惰ゆえの自己責任」という考えが当たり前のように語られている。
病や事故で働けない者は例外だが、それ以外は――働けないのではなく、働こうとしないのだと。
戦争を生き延び、勝者として議会に残った老年の貴族たちは、特にその考えを強く信じている。
自分たちは戦場を駆け抜け、生き残った。努力した者が報われるのは当然だ、と。
その思想から生まれたのが「救貧法」であり、「救貧院」だった。
表向きは、職を失った労働者に仕事と寝床、食事を与える慈善施設。けれど実際には、「楽をさせてはならない」という前提のもと、意図的に劣悪な環境が用意された。
狭く、不潔で、不衛生な環境で、最低賃金以下の重労働を課され、常に監視される生活。
——ここに入るくらいなら、死んだ方がマシ。
それが、労働者たちの共通認識だった。
たとえ修道院に逃げ込んでも、元気で働ける人。つまり有能貧民と認定された人は、いずれ救貧院に移動を余儀なくされる。
だから人々は修道院を、救貧院を避け、路上に留まる。
病に倒れ、餓え、凍えながら。
イースト地区は、そんな死が珍しくない場所だった。
(……救うための制度が、人を追い詰めている)
そう理解してしまった時、コートニーは胸の奥がひどく冷えた。
「私は警察に出向いて、メアリーの身元確認をするよう頼まれたわ。けれど……死体安置所に私は足を運べなかった。だから、代わりのシスターに行ってもらったのよ」
「そうだったんですか」
シスターの話を聞きながら、コートニーは心の底から「心情お察しいたします」と同情せずにはいられなかった。自分だって、無惨に切り裂かれた遺体を確認するなど、到底無理だと思ったからだ。
(……待って。メアリーさんがしばらくの間、被害者として公表されていなかったのは、身元不明だったせいなのかしら)
ふとした疑問が、コートニーの脳裏をよぎる。
その間も、シスター・セシルは自責の念を吐露し続けた。
「メアリーは切り裂き魔の犠牲になった。それだけでも可哀想なのに、しばらく警察の安置所で一人寂しく過ごさねばならなかったわ。私がもっと、彼女のことを気にかけてあげていれば……」
シスター・セシルは、まるで自分の不徳が彼女を死なせたと言わんばかりだった。
「すべての人に気を配るのは無理です」と、正直に口にしたところで、もはや何の慰めにもならないほど、部屋の空気は重く沈んでいる。
それでも、何か言葉をかけるべきかどうか――。
コートニーが躊躇していると、シスター・セシルが顔を上げた。
「だけど、あなたは失踪して三日目には、こうして懸賞金までかけて探し出そうとしてくれる人がいるわ」
コートニーは、自分が責められているのだろうかと不安になり、伺うようにシスターの顔を見つめた。
「それは、あなたを気にかけてくれる人がいるということに他ならないわ。そこだけを見れば、あなたはとても恵まれている。メアリーの件の後だと、余計にそう思うのよ」
「……そう、ですね」
コートニーは相槌を打ち、膝に置いた手をスカートごと握る。
確かに、シスター・セシルが指摘する通り、メアリー・ラムに比べれば自分の人生は過保護なほど恵まれている。
だが、現状を受け入れ、実家に戻ってネイサンと結婚できるかと問われれば、コートニーは変わらず全力で首を振るだろう。
(シスターの言いたいことは頭では理解できるわ。結局、恵まれているんだから戻るべきだと言いたいのでしょう。けれど……)
――でもこれは、一度きりしかない、私の人生です。
喉元まで出かかった反論を必死に飲み込む。
正論を振りかざされてすべてに納得できるなら、最初から王城を抜け出すような真似はしていない。
自分でも、どこか「欠陥品」なのではないかと自嘲したくなる瞬間はある。
(けれど、誰かと比べて「あなたは幸せなはずだ」と説得されても、自分自身が納得できない以上、私は突き進むしかないんです)
コートニーは自分の足元に広がる、見えないけれど強固な「自我」という鎖を改めて認識した。
「残念だけれど、今の世の中は女性が一人で生きていくことがとても困難な社会よ」
シスター・セシルは、慈しむように、けれど厳しい現実を突きつけるように語りかける。
「そうですね。それは私も理解しています」
コートニーは力強く答えた。 だからこそ、多くの貴族女性は条件の良い相手との結婚を望むのだ。それは単に夢見がちなわけではなく、この社会で生き抜くための切実な生存戦略に他ならない。
(生きていくためにはお金が必要。けれど現状、女性に許された仕事は限定的で、自分一人を養うことすら難しい……)
ましてや自分は、ぬくぬくと温室で育った世間知らずというハンデ付きだ。
イースト地区に身を落とす覚悟も、娼婦になる勇気もない。
(でも、私には運良く母様が残してくれた遺産があるわ。卑しい言い方だけれど、お金があるからこそ、私は『逃げる』という選択肢を手にできている。その意味では、私は誰よりも恵まれているわね……)
シスター・セシルの指摘は、ぐうの音も出ないほど正論だった。
「この先、さらなる困難が待っている。それを理解した上で、あなたはご実家に戻らない決意をされているのですね?」
「はい」
心に浮かんだ「遺産があるから」という事実は、あえて口には出さなかった。
ここを発つ時には、お世話になった分をしっかり寄付するつもりだが、今はささやかな労働で恩を返している身だ。それにシスターの話を聞いた今、今後の蓄えを思えば、一リンクたりとも無駄遣いはできないと身が引き締まる思いだった。
「色々と感情をぶつけてしまってごめんなさい。あなたが自分の状況を理解し、覚悟した上で行動しているのだと私も理解しました」
シスター・セシルは自分に言い聞かせるように呟くと、ふわりと優しく微笑んだ。
「どうも長く生きるとダメね」
「そんなこと、ありません」
「いいえ、本当にダメ。若い頃なら迷わず『逃げなさい』とあなたの背中を押せたはずよ。けれど今は、そうやって励ました人が、より深く傷つく姿をあまりに多く見てきてしまった。だから、昔のようにポンと背中を押せなくなってしまったの」
眉根を下げ、恥じるような表情を見せるシスターに対し、コートニーは首を振った。
(お小言だなんて思わないわ。シスターは私より遥かに多くの経験を積んでいる人生の先輩。私に恨まれるかもしれないことを覚悟で、真剣に忠告してくれたんだもの)
それは感謝すべきことであって、決して恨んだりするようなことではない。
「色々と、ありがとうございます」
コートニーはシスター・セシルに対し、心からの感謝する気持ちで頭を下げた。
「さて、問題はこの新聞の件だけれど。私はこの新聞を『見なかったこと』にします。つまり、私はあなたに気づかないふりをするわ。ただ……」
シスター・セシルがふと困ったような表情を見せる。
「五十リンクの懸賞金は、私達からすれば莫大な金額です。そのお金に目が眩み、あなたを警察に突き出そうとする者がここにいないとは限りません」
真面目に告げられたその言葉に、コートニーは静かに頷いた。
(そうね……修道院長室なのに暖炉に火を入れることもせず、これほど質素に暮らしているんだもの。潤沢な資金で運営されているとは、到底思えないわ)
自らは贅沢を断ち、貧困に喘ぐ人々に手を差し伸べる。
コートニーからすれば立派でしかないシスターたちだが、だからこそ、彼女たちは常にお金に対してシビアにならざるを得ない。
富める者に対し、少なからず不満を抱く者がいたとしても不思議ではなかった。
それに、ここにはシスター以外にも、自分のような一時避難者が多く暮らしている。
(「女の花園」だなんて浮かれていたけれど、ここは決して世俗から切り離された無菌室じゃない。もっと気を引き締めなくちゃ)
「気をつけます」
コートニーの言葉に頷き、シスター・セシルはいつもの穏やかな表情に戻った。
「私が言うのもなんですが、その湿布は少しやりすぎだわ。でも、そのお陰であなたの顔はまるで仮面を被ったように半分ほど隠れている。しばらくはそのままでいた方がいいわね」
「なるほど……確かにそうかもしれません」
コートニーは顔に貼られた冷たい湿布に指先で触れた。図らずも、この大袈裟な怪我が最高の変装道具になっているのだ。
「あなたに降りかかる苦難は、誰のせいでもありません。神は苦難を乗り越えた先に訪れる、新しい喜びの人生をあなたに知らせようとしているのです」
シスター・セシルが静かに祈りを捧げてくれる。
コートニーはうつむき、その優しさに深く感謝した。
(新しい喜びの人生、か……。シスターの祈りは嬉しいけれど、できれば神様には、もう少しだけ『イージーモード』な人生をお願いしたいものだわ)
内心でそんな不埒な願いを抱きつつ、コートニーは自分を取り巻く状況が、音を立てて変わり始めていることを実感していた。
もう、ただ守られるだけの令嬢には戻れない。
そんな予感だけが、確かに胸に残っていた。




