037 守られなかった人生2
「あなたは被害者のメアリー・ラムという女性を覚えているかしら?」
「はい」
コートニーの記憶は円卓会議に遡る。
五人目の被害者、メアリー・ラム。しばらく被害者として公表されていなかった人物だ。
彼女は十九で結婚し、五人の子を産み育てた。
十七年後、夫は彼女を残して去った。
「私は彼女を知っていました」
「そうなんですか」
それ以上かける言葉が見つからないため、新聞に目を落とす。
「彼女の夫ウィルは疎遠になった妻を扶助する法に従い、一週間おきに手当をメアリーに与えていたの。でも、メアリーが売春をしている事を知り、手当を止めた」
「それは……妻が違法な手段でお金を稼いでいる場合、夫は妻を扶助する必要がないと定められているから、ですよね?」
「ええ。夫の判断は、この国の法に従えば何ら非の打ち所がない正当なものよ。ただ、手当を打ち切られた後、メアリーは文字通り路頭に迷うことになった。住む場所を失い、生活を繋ぐ術も失い、最後には教会の炊き出しの列に並ぶしかなくなったの……」
シスター・セシルの声は、冷え切った室内でより一層重く、悲しく響いた。
「彼女は、家族を守ろうとしただけだったのかもしれない。夫が去った後、残された子供たちを育てるために、なりふり構わず働こうとした結果が、あの『不道徳』な行為だったのかもしれないわ。けれど法も世間も、彼女がなぜその選択をせざるを得なかったのかという背景を見ようとはしなかった」
(不道徳、という記号で塗りつぶされた結果、彼女は保護の対象から外された……)
コートニーは、シスターの深い皺に刻まれた悲しみを見つめながら、自分の足元にある「鎖」を思い出した。
コートニーは、伯爵家という鎖に縛られてきた。けれど、その鎖があるからこそ、「見つけたら五十リンク」とステアによって懸賞金をかけられ、全国に捜査網を敷いてもらえる贅沢な立場にある。
「生きる事にとても苦労していたわ。だけど彼女は決して自らの命を絶とうとはしていなかったはずよ」
シスター・セシルは、悲しげに目を伏せた。
「実のところ彼女とは毎日顔を合わせていたわけではなかったの。彼女は日銭を稼げず泊まる場所に困ったり、修道会の炊き出しがある時なんかに、ふらりと気まぐれに現れるだけだったから」
そこで言葉を切ったシスター・セシルは、次の言葉を口にするかどうか、躊躇している様子で膝の上に乗せた両手の指先をもぞもぞと動かした。
「毎日会う訳じゃないから……これは見苦しい言い訳ね」
シスター・セシルは小声で自分の言葉に注釈を入れた後、話を続ける。
「私はメアリーは気まぐれな女性だと知っていたし、しばらく顔を見ていなくても気にかけていなかった。だからまさか切り裂き魔の犠牲になっているだなんて、思いもよらなかったのよ」
彼女は明らかに自分を責めているような口調だった。
「でもそれは……」
コートニーは「仕方がないですよ」と言いかけ、それはシスター・セシルにとって何の意味も持たない言葉だと気づき、口に出すのをやめた。
そもそも人の生死にかかわることで、「仕方ない」なんて事はない。
(私だって母が亡くなった時、日々弱っていく母の傍にいる事しか出来なかった)
冷静に考えればエリノアの命の灯火はどんな事をしても消えかかっていて、コートニーが何かした所で亡くなってしまう運命は変わらなかった。
(けれど、その事について「仕方がない」と誰かが私を励まそうとしたら、心がモヤモヤする)
コートニーは、かつて亡くした母エリノアへの想いを重ね、静かに唇を引き結んだ。
(あの時、もし私がもっと賢ければ。もしソフィアがもっと優しければ。……そんな「もしも」を繰り返しては、届かない後悔に身を焼かれる苦しさを、私は知っている)
だからこそ、シスター・セシルの沈黙が、どれほど重い自責の念に満ちたものか、今のコートニーには痛いほど理解できた。
「メアリーはしばらく身元が判明しなかったようなの。警察がここに来て、『心当たりはあるか』と私に写真を見せたくらい、本当に彼女を知る人は少なかったようだわ」
「写真ですか?」
「ええ。遺体安置所で横たわる姿よ。勿論切り裂かれた部分を縫合した後の写真だったけれど、医療の心得がある私でも、あれは衝撃的すぎて」
シスター・セシルが悲痛な表情を浮かべる。彼女が膝の上で組んだ手は震え、それを目の当たりにしたコートニーは立ち上がる。
「大丈夫ですか?」
コートニーはシスター・セシルに寄り添うべきだと足を進める。しかしシスターは手を翳し、弱々しい笑みを見せた。
「大丈夫よ。お座りなさい」
「はい」
コートニーは言われた通り、ゴツゴツとしたソファーに再度腰を下ろした。
いつの間にか、話題はコートニーが指名手配された件から、世間を震撼させている切り裂き魔の事件へとすり替わっていた。
シスター・セシルがこの話を通して、自分に何を伝えようとしているのか。コートニーは未だその真意を計りかねている。
(けれど……「円卓の貴婦人」たちと豪華な部屋で捜査資料を広げていた時よりも、今のほうがずっと、切り裂き魔という存在が近くに感じられるわ)
石造りの冷え切った室内で、コートニーは肌を刺すような現実感を噛み締めていた。 切り裂き魔は、決して遠い世界の物語ではない。今日にもこの修道院へ施しを求めてやってくる、名もなき女性を標的に定めるかもしれない悪魔だ。何より、目の前のシスターが、かつてその犠牲者と心を通わせていたという事実が、事件の生々しさを際立たせている。
(……もし、明日私が挨拶を交わした女性が、次の夜には冷たい骸になっていたら?)
それはもう、物語ではなく――現実だった。
さらに、自身の身の振り方次第では、自分自身がターゲットになる可能性すらある。貴族の庇護を捨て、孤独な逃亡者として夜の街を彷徨えば、確率は跳ね上がるだろう。
そのことに思い至った瞬間、コートニーの背筋に、冷たい氷の刃でなぞられたような言いようのない恐怖が走り抜けた。




