036 守られなかった人生1
暖炉はあるものの、長く火を灯した形跡はなく、室内の温度は外気とさほど変わらない。
王城の住人に例えるなら、少なくともステア級の威厳ある地位にふさわしいはずのシスター・セシル。だが、その修道院長室には、華美な調度品も無駄な物も一切見当たらない。
コートニーが腰掛けているソファは、何度も繕われた跡があり、詰め物が薄くなっているのか座り心地はゴツゴツとして硬い。くつろぐには程遠く、むしろ痛みを感じるほどだった。
部屋を囲む灰色の石壁が、視覚からも寒さを助長させる。ここが修道院の一室であることを示しているのは、隅に置かれた祈祷台だけだ。膝を置く部分の赤いベルベットが白く擦り切れている様子から、彼女がいかに熱心に祈りを捧げてきたかが伺える。
質素、そして清潔。
この修道院長室を一言で表すなら、まさにその言葉が相応しかった。
「――そんな事情もあり、私はフィデリア国の祖父母の元へいずれ向かいたいと考えております。ですから法は犯しておりません。それは神に誓って、真実です」
コートニーは静かに、けれど揺るぎない決意を込めて告げた。
自分に起きた件を整理しながら説明している間に、心のどこかで、「でもそれは、恵まれた貴族の我儘でしょう?」と言われ、警察に突き出される事を覚悟していた。
(結局のところ、伯爵家の娘として生まれて甘んじて享受してきた権利を、都合よく捨てようとしているだけだもの……)
過酷な修道院の生活を送り、情けなくひび割れた自分の指先を見つめるたび、嫌でも気付かされていた。
自分が如何に恵まれた環境で暮らしていたか。そして、貴族の娘として本来果たすべき責任や義務から、ただがむしゃらに逃げ回っているだけだという事実に。
家族から売られかけたことは、間違いなく不幸だ。けれど、自立を叫びながらも、今の自分は「神の慈悲」という名の他人の善意に縋り、逃げ場を求めているに過ぎない。
「ここに助けを求めにくるのは圧倒的に、貧民街に身を置く女性です。けれど時折、本当に稀ではありますけれど、あなたのような貴族の女性が助けを求めに訪れることもあります」
シスター・セシルは優しく微笑む。
「私はそういった方と接し、どちらの女性も抱える苦しみは変わらない。そう感じています」
シスター・セシルの慈悲深い言葉に、コートニーは目元が熱くなるのを堪えきれなかった。
「立場がどうあれ、一人の人間としての尊厳を奪われる苦しみに、貴賤などありません。だから、あなたがここへ逃げ込んできたことを、私は我儘だなんて思いませんよ」
シスターはそう言って、コートニーの荒れた指先に、自身の温かな手をそっと重ねた。
「けれど、一つだけ覚えておきなさい。あなたが捨てようとしている『貴族の娘』という殻は、あなたを守る鎧でもあり、戦うための武器でもあるのです。それを捨てて裸のまま嵐の中に飛び出すことが、本当の自立とは限りません」
コートニーは、シスターの深い皺に刻まれた知恵と言慈しみに、ただ静かに頷くことしかできなかった。
自分はただ、今の苦しみから遠ざかることばかりを考えていた。けれど、本当の意味で自由を勝ち取るためには、足元にある重い鎖すら、武器に変える強さが必要なのだ。
「……ありがとうございます、シスター」
震える声で告げる。
「ただ、あなたのその苦しみを理解しつつも、やっぱりあなたは、恵まれていると思ってしまうの。なぜなら、この記事――」
シスターセシルは新聞を裏返す。するとそこには、連日世間を震とうさせる、切り裂き魔の事件が大きく掲載されていた。
『独占スクープ!!連続切り裂き魔、ミッドナイト・テイラーを名乗る人物からの手紙。全文掲載』
センセーショナルな見出しの下には、この新聞を発刊しているセントラル新聞に、切り裂き魔から「犯行声明」らしき手紙が届いたと書いてあった。
どうやらコートニーが自分の身に起きた事に振り回されている間に、切り裂き魔の事件は新たな展開を迎えていたようだ。
「世間を騒がせている事件の記事ですね?」
最近では「切り裂き魔」という、その言葉を聞いただけで怯える女性も多いと聞く。
コートニーはシスターセシルが「切り裂き魔」について、どう感じているのか。それは怒りなのか、恐怖なのかがわからず、遠回しに確認する。
「そう。切り裂き魔……ミッドナイト・テイラーの事件です」
シスターセシルは怯むことなく、堂々とその名を口にした。
「この修道院はイースト地区にほど近い場所にあります。ですから切り裂き魔の犠牲となった女性と同じような環境で暮らす事を余儀なくされる多くの女性が私達に助けを求め、この場所を訪れることは日常茶飯事です。けれど……」
シスターセシルは新聞に視線を落とした。
「そのうちの誰かが切り裂き魔の犠牲となったとしても、人々の関心は犯人の方にしか向かない。犠牲となった女性が、切り裂き魔が騒がれるこんなご時世に、どうして夜中に街角に立っているか。その理由や原因なんて、誰も気にしないのが現実よ」
シスター・セシルは私に顔を向けると「とても悲しいわね」と弱々しく付け加える。
(おんなじだ)
コートニーの脳裏に、エロイーズを始めとする円卓の貴婦人たちの顔が浮かぶ。
世の中の関心は、被害者ではなく犯人に向けられる。
誰が殺されたのかではなく、どんな怪物が現れたのか。
その視線の先で、女性たちの人生は静かに消えていく。
(でもそれは、仕方のないことよね……)
恐ろしい殺人鬼が未だ人の顔をして社会に溶け込んで、普通に生活している。
それこそが、生きている側の人間からしたら身近に感じる事で、恐怖を覚えることだ。
(己の身を守る意味でも、犯人に興味が注がれてしまうのは、生きる者の性でもあるし)
シスター・セシルの痛ましげな表情を前に、コートニーは自身の無意識な冷たさを恥じた。
シスターが憂いているのは、亡くなった女性たちの「人生」そのものが、事件の背景に塗りつぶされて消えていくことなのだ。
「思い返してみましたが、確かにシスターの仰る通りでした。私達は殺害方法には詳しいけれど、被害女性の歩んできた人生や、置かれた状況などに注視していないのが現状です」
神妙に告げると、シスター・セシルは大きく頷いた。
「むしろ世論はこのような殺人鬼が騒がれる中、街角に立つ娼婦が悪い。自業自得だとさえ、思っているのです」
「そう……かも知れません」
出来ればそうじゃないと反論したい。けれど実際はシスター・セシルが口にした通り。
犯人を捕まえたい、早く逮捕されればいいと願う気持ちを、多くの人が少なからず持ち合わせている一方で、「自分は娼婦じゃないから襲われない」と他人事気味にこの事件を追っている。
コートニーもまた、正直に言えば、その一人である自覚がある。
だからこそ、胸が痛んだ。
自分は安全な場所にいながら、誰かの不幸を「遠い出来事」として眺めていたのだと。




