034 逃げた先は、聖域でした
きっかけは、フォーサイス公爵家の舞踏会で知った衝撃の事実だった。
コートニーがテニソン子爵家ネイサンと婚約したことになっていたという、信じがたい話。
(正しくは、陛下の審議待ちの状態らしいけど)
両家合意の婚約願いが提出された以上、ほぼ確定といっていいだろう。
「つまり私は、このまま流されていれば、ちっとも魅力を感じないどころか、嫌悪感しか抱けない男性と人生を共にする羽目になるってこと」
未来に待つ運命に納得がいかないなら、自分でどうにかするしかない。
だからコートニーは逃げた。
王城からも、強制された未来からも。
◇✧◇✧◇✧◇
青空……なんて呑気なものは、コートニーの頭上にはなかった。
広がっているのは、どんよりと重く垂れ込めた灰色の空だ。湿り気を帯びた空気は肌にまとわりつき、彼女の晴れやかな自由への門出とは程遠い。
逃亡生活、三日目の朝。 コートニーは貸し出された無地の灰色の服の袖を逞しく捲り上げ、石造りの冷淡な洗濯場に立っていた。
視界に入るのは、自分と同じ灰色のチュニックに白いコイフ、そして灰色のヴェールをまとった女性たちの集団。彼女たちの首元には、宝石の代わりに磨かれた木の珠を通したロザリオが揺れている。
ここは、クラスコー王国、国教会派が運営する第三女子修道院。
「円卓の貴婦人」たちとの捜査会議で、虐げられた女性たちの避難先としてその名が挙がっていたのを思い出し、コートニーは潜伏先にこの場所を選んだ。
(ここは男子禁制の聖域。あの執念深い家族だって、まさか私がこんな場所に潜り込んでいるとは思わないはずだわ)
正直、ここまでの道のりは失敗の連続だった。けれど、石にかじりついてでも生き延びる過程で、コートニーは確実に新たな知識と図太さを蓄えていた。
「私は、やればできる子だもの」
呪文のように自分を鼓舞し、洗濯籠から湿った麻布を取り出す。その瞬間。
「痛っ……まったく、最低だわ」
つい、口から毒が漏れた。 冷たい布に触れた指先に、ひび割れた痛みが走り、思わず顔を顰める。
貴族として温室育ちだった彼女の指は、わずか三日の水仕事で悲鳴を上げていた。ささくれ立ち、脈打つように痛む指先は、まるで「お嬢様には無理だ」と彼女自身の体が警告を発しているかのようだった。
(……あの人は、怒っているかしら)
布を広げながら、ふと、あの不遜な王子の顔が浮かぶ。
机の脚にしがみついてまで手に入れた職を、辞表一枚で放り出した。
恩を仇で返した自覚はある。
申し訳ないという気持ちが、微塵もないわけではない。
けれど、どうしても納得がいかないのだから仕方ない。
あの冷たく、鋭いステアの言葉が蘇る。
『君は私の家族ではない。自らの意志でヒスコック伯爵家に戻ってもらいたい』
思い出して、コートニーはぐっと奥歯を噛み締めた。
「正論かもしれないけれど、あんな風に突き放す必要なんてなかったはずよ。……あの人は、もう少し『思いやり』という語彙を学ぶべきね」
濡れた布をロープに掛けながら、吐き捨てるように呟く。頬を打たれた直後の自分に追い打ちをかけたあのデリカシーのなさは、一生忘れてやらない。
「まあ、私に愛想を尽かされたくらいで、あの人は平然としているでしょうけど。うう、冷たい!」
跳ねた水が顔に当たり、震えが走る。
修道院の生活は、想像以上に過酷だった。女性しかいないため、あらゆる重労働も自分たちでこなさなければならない。
初夏の陽気が差し始める六月だというのに、湿り気を帯びた石造りの建物内は、肌寒さが骨身に沁みるようだった。厚い壁に遮られ、外の柔らかな暖かさが嘘のように遠い。コートニーは今さらながら、常に快適な温度に保たれていたステアの執務室の有り難さを、身に染みて理解していた。
(あの時は当たり前だと思っていたけれど、あれは極上の贅沢だったのね……)
快適さを恋しく思う気持ちを振り払うように、濡れた布を力一杯絞りながら、コートニーは自分を律した。
「でも、今回は上手くいっているもの。三度目の正直よ!」
一度目の家出は、お金を引き下ろそうとした時、銀行で父フレデリックに連絡が行って失敗した。
二回目は、あえなくステアに補導された。
だが、今回のコートニーは違う。
メルク海域の海賊騒ぎが収まるまでここに潜伏し、機を見て国外へ脱出する。すでにフィデリア国にいる祖父――亡き母エリノアの父であるスタイナー卿には、現状を訴える手紙を送付済みだ。
客船が止まっていても、商業船は動いている。きっと祖父なら、愛する娘の忘れ形見である自分のピンチに、何らかの手を打ってくれるはずだと、コートニーは信じている。
(この生きづらいクラスコー王国を脱出できるなら、商業船でも海賊船でも構わないわ。私を救ってくれる王子様なんてこの国にはいない。いるのは悪魔のような家族と、性格のねじ曲がった王子様だけ!)
今のコートニーにとって、隣国にいる祖父こそが、自分を窮地から救い出してくれる「本当の白馬の王子様」だった。
「こうして自力で潜伏場所を見つけられたんだし、私だってやればできるわ」
自分の開拓した成果に満足し、コートニーは晴れやかな表情で周囲を見渡した。
煤けた砂岩の外壁、色褪せたステンドグラス、そして規則的に音を立てる苔むした噴水。冷たい風に乗って聞こえてくるのは、修道女たちの低い詠唱の声だけだ。
石壁に絡みつく古びた蔦を見つめながら、コートニーは誇らしく胸を張った。この静寂こそが、彼女が自らの知性で勝ち取った、束の間の安息地だった。
「ふぅ。ようやく終了っと」
風にはためく洗濯物を眺めながら、凝り固まった体を伸ばそうとした時。
「コートニーさん、悪いけどこっちの籠も追加で干しておいてもらえるかしら」
声をかけてきたのは、修道会のシスターだ。
彼女はコトンと石畳の上に、山積みになった洗濯物の入った籠を置いた。
内心「折角一山片付けたところなのに」とがっかりする。けれどそんな不満は心に押し込み、人当たりの良い笑顔を即座に顔に貼り付けた。
現在コートニーは居候中の身。たとえ手がかじかんで、見たこともないくらい指先がぱっくり割れて痛くて泣きそうだったとしても、文句を言う資格はない。
「任せてください」
灰色のチュニックに身を包むシスターから、気持ちよく仕事を引き受けるフリをする。
「助かるわ。よろしくね」
洗濯の追加を頼んだシスターは慈悲深い、穏やかで優しい笑みを浮かべた。
「それとコートニーさん、終わったらシスターセシルのところへ。あなたをお呼びなの」
シスターセシルとは、現在彼女が世話になっている、第三女子修道院を統括する女性だ。
(まさか追手が迫ってる?)
コートニーは、一瞬身構えた。
(でも……)
この国で自分を探す可能性があるのは、フレデリック、次点で父ウィリアムだろう。
その二人は、信心深いとは言い難いコートニーが、まさか修道院に逃げ込み神に祈りを捧げているなどとは夢にも思わないはずだ。
コートニーの脳裏に、冷たくも美しい銀の光沢を放っているプラチナブロンドの髪に、すべてを見透かす理知的な静謐さを溶かしたようなアメジスト色の瞳を持つ青年――ステアの顔が浮かぶ。
(ない、ない。あり得ないから)
コートニーは小さく首を振り、頭の中に残るステアの残像を慌てて消し去る。
今頃彼は「私には関係のないことだ」と一蹴して、あの広くて豪華で、何より空調管理がバッチリな執務室で、切り裂き魔の捜査資料を眺めながら眉間に皺を寄せているはずだ。
(となると、シスター・セシルが私を呼ぶ理由は、単に「生活には慣れたか」といった、ありきたりな世間話かな?)
コートニーは自らの推理に満足し、一人胸を撫で下ろす。
「じゃあ、セシルさんの件、よろしくね」
うっかり考え込んでいたコートニーに、シスターが念を押すように声をかける。
「はい、シスター。この仕事が片付いたらすぐに参りますわ」
慌てて返事を返すと、コートニーは無意識に灰色のチュニックの両脇を指先でつまみ、膝を折って深々と頭を下げた。
完璧な淑女の礼である。
「ふふふ。あなたがその挨拶をするたびに、ここがお城の中かと勘違いしてしまうわね」
「あっ!?」
しまった、と即座に姿勢を正すが、時すでに遅し。
習慣とは恐ろしいものだと、コートニーは内心で舌を出した。
どれほど気を付けていても、幼い頃から叩き込まれた所作が不意に表へ出てしまう。
(身分を隠している以上、もっと気を引き締めなければ)
コートニーは、自分を戒めるようにそっと拳を握りしめた。
「私達から見れば、恵まれた環境を捨てるなんて勿体ないと思ってしまうけれど……。あなたはきっと、整った環境から逃げ出したくなるほど、辛い目に遭ったのでしょうね」
慈悲深い表情をしたシスターの視線が、湿布がべたりと貼られたコートニーの額と頬に注がれた。
それは、ネイサンと対峙した際に負った名誉の負傷、もとい、無鉄砲な抵抗の証だ。
日を追うごとに、メルク海峡の暗い潮流のような紫色の模様を広げている痣を見て、修道院の人々は彼女を「虐待の末に逃げ出した哀れな娘」と認定していた。
(ハッカの匂いが寒さを倍増させるけれど……おかげで詮索されないのは助かるわ)
顔を覆う湿布は、図らずも彼女の素顔を隠す完璧な仮面となっていた。
「無理に思い出さなくていいのよ」というシスターたちの過剰な気遣いに甘え、コートニーは逃げ出した理由を、顔の痣のおかげで詳しく語らずに済んでいる。
「シスター、今日の施しについて調理場がゴタゴタしています!」
別のシスターに呼ばれ、話し相手が腰を浮かせた。
「あらあら。それではコートニーさん、よろしく頼みますね……あなたが試練を乗り越えられますように」
シスターが慈愛を込めてコートニーに祈りの手をかざす。
「ありがとうございます」
今度こそ、ドレスの裾を持ち上げたくなる衝動を必死に抑え、コートニーは胸の前で両手を合わせた。そして、修道院の作法に則り、粛々とした態度で膝を折って頭を下げた。
その姿は一見、慎ましやかな修道女の卵に見えただろう。しかしその内側では、「私は、やればできる子なんだから!」と、コートニーの反骨心が、寒空の下で静かに燃え続けていた。
彼女自身はまだ知らない。
この静かな聖域が、やがて嵐の目になることを。




