033 連続で三回、踊っただけ
コートニーが姿を消した。
彼女に与えた部屋に残されていたのは、ハンカチに包まれた大金と、最低限の私物だけだった。
ステアは執務机の前に座り、その報告を受けて眉を寄せた。
(……実に謎だな。一体どこへ行った?)
「殿下が早く本当のことを言わないからですよ」
目の前に立つマイロが、隠しきれない非難を込めた顔でステアを射抜く。
「普通、両親との話し合いの結果を待たずにいなくなるとは思わないだろう?」
ステアは内心の動揺を隠すように、淡々と返した。
フォーサイス公爵邸での舞踏会があったのは、一昨日のこと。そして昨日の公休を挟み、本日――出勤したステアの机の上に置かれていたのは、一通の辞表だった。
そこには『一身上の都合により、大変身勝手ながら退職させていただきます』という、血も涙もない定型文のみが綴られていた。
(あいつ……僕への怒りをこれでもかと詰め込みやがって……)
「殿下が数日間で追い出すなどと脅かすからですよ」
「それはわりと本気で言ったのだが」
期限を定め、効率的に要点のみを話し合う。それが最短で解決へ向かう最適解だとステアは信じていたが、マイロの顔には呆れが滲んでいる。
「コートニー嬢はネイサンと結婚させられると怯えてました。今頃、海を越えて……」
「フィデリア国に向かう船は欠航中だ。すでに実家に戻ったのだろう」
ステアが少し苛立って言い返すと、今度は執務室の隅から低い声が飛んできた。
「よくそんなことが言えますね」
発言の主は、ブレイク侯爵家の次男レナルド。ステアの幼馴染であり、滅多に口を開かないはずの彼が、書類から目を離さず、しかし明確な軽蔑を込めてステアを責めた。
「レナルド。君はいつの間に彼女に絆されていたんだ?」
皮肉を投げると、レナルドは静かに眼鏡をクイと押し上げた。
ステアの背筋に嫌な予感が走る。彼がこの動作をする時、飛び出すのは常に「ぐうの音も出ない正論」だからだ。
「本棚ですよ。彼女は王城図書館から刷毛を借り、一冊一冊丁寧に掃除し、ジャンル別にアルファベット順に並べ替えてくれました。たったそれだけのことが、この数年間、殿下にはできていなかったわけですが」
「……ぐっ」
痛いところを突かれ、ステアは口を噤んだ。あの時、張り切る彼女にわざと羽箒を渡し、がっかりした顔を見て「悪いことをしたな」と微かに思った記憶が蘇る。
「あんな風に懐かれて、殿下は心が動かされたりしないんですか?」
マイロのぼそりとした問いに、ステアは素っ頓狂な声を上げた。
「は? 懐かれる? 誰が?」
「殿下がですよ」
「僕がなのか?」
再度確認すると、目力を込めたマイロは大きく頷いた。
(懐くどころか、隙あらば逃げようとしていたように思えるのだが……)
ステアの脳裏には、いつもどこか油断なく周囲を観察し、隙あらば「自由」という名の出口を探していた彼女の姿が浮かぶ。自分はただ、その野良猫のような娘の首根っこを掴んで、有益な仕事を与えていただけだ。
「それに殿下は、フォーサイス公爵邸で、楽しそうに彼女とダンスを踊っていらっしゃったじゃないですか。連続で三回も」
マイロがその回数を強調した瞬間、室内のあちこちで書類が落ち、椅子が鳴る音が響いた。
「「「連続で三回……!?」」」
どよめき出す部下たち。彼らの「明日は雪か」「ありえない」という失礼極まりない雑談を聞き流しながら、ステアは椅子の背もたれに深く体重を預けた。
(……確かに三回踊った。だが、それは合理的判断に過ぎない)
「他意など、あるはずがないだろう」
小さく呟き必死に自分へ言い聞かせるが、辞表を見た瞬間に胸の奥を通り過ぎた、言いようのない焦燥感の正体を、ステアはまだ計算しきれずにいた。
「たかだか、ダンスを踊っただけだ。そこまで驚くことでもないだろう?」
ステアは部下たちの動揺を沈めるように言ったが、マイロはそれを完全に無視した。
「連続で三回もコートニー嬢とダンスを踊った殿下は、彼女が嫌いではないはずです」
またもやマイロは、「連続で三回」を強調した。
ステアは内心、「こいつはわりとしつこい男だ」と毒づく。
この国のマナーでは、配偶者や婚約者でもない相手と四回続けて踊ることは、明確なマナー違反とされている。
逆を言えば、三回までは「ギリギリセーフ」の範疇だ。
(だが、確かに僕は、一つの舞踏会で同じ令嬢と三回も踊ったことがなかったような……)
普段のステアは、変な噂を立てられたり、特定の誰かに肩入れしていると見られることを避けるため同じ相手と再度踊ることすらしない。
平等を重んじる自らの信念を振り返り、ステアは「なるほど」と納得せざるを得なかった。
普段の自分なら絶対にしない行動を、あの日、無意識のうちに取っていたのだ。
「確かに連続で三回はやりすぎたようだ」
「まさかの無意識ですか」
ソファーで『円卓の貴婦人たち』から提供された資料を読んでいた部下が、顔も上げずに鋭く指摘する。
ステアは気まずさを誤魔化すように、あの時の自分を振り返った。
(……確かあの時は、彼女をからかっていたんだ。顔を白黒させたり赤らめたりするコートニー嬢の反応が、やけに愉快だったから)
普通の令嬢なら、第二王子という肩書きに萎縮し、粗相のないようガチガチに固まってしまうだろう。だが、彼女は違った。口を開けば「帰りません」と一蹴し、ステアの皮肉にも臆せずやり返してくる。
裏を探るような陰湿さのない、その真っ直ぐな言葉の応酬は、ステアにとって意外にも心地よいものだった。
(部下としてなら悪くないが……いや、駄目だ。彼女は本来、男が守るべき側の女性だ)
ステアは家庭教師だった男の教えを思い出す。
『男性の知性は発明に向き、女性の知性は心地よい秩序や整頓に向いている』
ステアもその保守的な考えに概ね賛成だった。ましてや、今は残忍な「切り裂き魔、ミッドナイト・テイラー」の事件を追っている最中だ。
ステアは、自分に言い聞かせるように口にする。
「やはり、懐かれても困るな。私はあの事件に全力を注ぎたい。捜査資料にはショッキングな写真も含まれる。うっかり彼女の目に触れたらどうするんだ」
正当な主張のつもりだったが、マイロからは「全く、優しいのか冷たいのか」と呆れ顔で囁かれた。
ステアが「優しいに決まっている」と反論をしようと口を開きかけた時、慌てた様子の部下が執務机の前に立った。
「殿下、王妃殿下より先触れです」
不意に差し出された白い封書。ステアは嫌な予感と共にそれを受け取った。
封蝋の下にペーパーナイフを差し込み、中から現れたのは、鮮やかな「ピンク」のカード。
「……ピンクか。最悪だ」
母エロイーズが先触れに使うカードはピンク、オフホワイト、ただのホワイトの三色と決まっており、それらは彼女の気持と連動している。
ちなみに、今回届けられたピンクは「怒り」を意味するものだ。
「マイロ、見なかったことにしていいかな……?」
「無視する勇気がおありならどうぞ」
すげなく返されたステアは手にした二つ折のカードを恐る恐る開く。
急いでいたのか、乱れた筆致が、エロイーズの激しい憤りを物語っていた。
ステアは大きくため息をつく。
「どうやら返事は書かなくてよさそうだ」
「それは、まさか……」
マイロが少々青ざめた顔でステアの顔色をうかがう。
「ああ。母上は今日の夕方、コートニー嬢の件で自らここに乗り込んでくるそうだ」
ガタガタと一斉に物が倒れる音がする。
「早く仕事を切り上げなければ」
「そう言えば、今日は娘が熱を出す予定だったような」
「ミッドナイト・テイラーの件で私は治安局に向かわねば」
「お腹の調子が……」
「おっと、今日は鉄道マニアの会合がクラブであるんだった」
部下たちが一斉に動揺し、あからさまな言い訳を口にして逃げ出そうとし始める。
「君達はいいよ、逃げ道があるのだからな」
「自業自得ですよ、殿下」
マイロの冷めた言葉に、ステアは言い訳がましく応じた。
「……ふむ。ひとまず母上の非難を避けるためにも、彼女の行きそうな場所を探るくらいはしておくべきか。マイロ、フレデリックを呼び出してくれ」
ステアは、コートニーの兄であり、自身の悪友でもある男の名をあげる。
「彼女が見つかっても、ちゃんと誠意と思いやりを持って接してくださいね。叱ったりしてはなりませんよ」
「わかってるって。 約束する。だからさっさとフレデリックを呼んでくれ」
ステアは手を払い、マイロを追い出す。
「ピンクか……」
エロイーズが送りつけたカードを机に置き、ステアは自分の迂闊な行動――あの奇妙で有能な「侍女」を拾い上げたことを、激しく後悔した。
(彼女を探す理由が、合理なのか、それとも……)
ステアは、まだ自分でも答えを出せずにいた。
すみません。予約投稿をミスっていました……。




