032 知らないのは、彼女だけだった
必要最低限ながら機能性に優れた家具で整えられた、王城にあるステアの自室。
そこは王族の私室というよりは、若き指揮官の幕舎のような、静謐で実用的な空間だった。
壁を埋め尽くす書棚には、金箔の装飾が施された華美な詩集など一冊もなく、使い込まれた背表紙の法典や地理学、歴史書が整然と並んでいる。
部屋の主役である巨大なマホガニーのデスクには、羽ペンと数種類のインク瓶、そして緊急性の高い書類が整然とした規律を持って置かれ、ろうそくの燃え殻ひとつ落ちていない。
唯一の贅沢といえば、床に敷かれた深い紺色のペルシャ絨毯だろう。それはステアの足音を完全に吸い込み、室内をいっそう深い静寂へと沈めている。
窓から差し込む冬の月光が、磨き上げられた黒檀のチェストを冷たく照らし、室内の空気までもがステアの気質を映したように張り詰めていた。
(……この部屋に、もう少し長く滞在できればいいのだが)
ステアは睡魔へといざなう座り心地の良いソファーに深く身を沈め、欠伸を噛み殺す。
日々降りかかる厄介事を放置するわけにもいかない以上、この無機質だが快適な聖域に戻るのは、どんなに早くても日付が変わってからになるのが常だ。
加えて今日は、いつも以上に疲れている。
それなのに、未だベッドに倒れ込むことすら許されていない。
主に目の前の、生意気な従者のせいで。
「何もあんな言い方をしなくても良かったのではないでしょうか?」
ソファでぐったりするステアに向かい合うマイロが、ステアに険しい顔を向けた。
「なんだろうね、つい」
「ついで恨まれている場合ではありません」
「確かに?」
「本当の事をお知らせしなくていいのですか?」
「いいんじゃないか?」
「しかし、完全に誤解している様子でしたよ?」
「だろうね」
ステアがすげなく返すと、マイロは深くため息をついた。
彼の言う「誤解」とは、コートニー・ヒスコックとテニソン子爵ネイサンの婚約話のことだ。
誤解しているのは、コートニー本人を含めた、ヒスコック伯爵家の面々。
当主ウィリアムは都合のいい解釈によって。
その妻ソフィアは自分に都合よく。
フレデリックとリリアは、今回の件に関しては蚊帳の外だろう。
フレデリックはネイサンの話を聞いたとき、本気で驚いていた様子だったから。
そして、コートニー本人は――。
「コートニー嬢の顔をご覧になりましたか?」
「見ていない」
ステアは、自分があえて悪意のある言葉を投げた自覚はあった。だからといって、それによって傷ついた令嬢の顔を観察するような悪趣味な性質は持ち合わせていない。
(……あんな絶望に染まった瞳を、まともに見られるわけがないだろう。だから、見なかった)
心の中で悪態をつく。
彼女をあそこまで追い詰めることが、今回の「舞台劇」を完遂させるために必要だったとはいえ、冷え切った彼女の表情が脳裏に焼き付いて離れない。
「……で、これからどうするつもりですか」
「どうもしないよ。そもそもヒスコック伯爵家の問題だし」
「けれど殿下には、あの子を拾い上げた責任があります」
最近のマイロは二言目にはそれだ。
「拾わなきゃ良かった」
「殿下」
本音を漏らすと、マイロは眉を寄せ、いさめるような目を向けてきた。
「わかってる。そんな顔するな。それに、母上や君が責任を取れとうるさいから、僕は策を打ったじゃないか」
「……それはそうですが」
「ヒスコック伯爵家が持ち込むコートニーの婚姻願いを一切認めるなと、僕は父上に頼み込んだ。一体それ以上、僕に何を望むんだよ」
ようやくマイロが口を噤む。
ソフィアたちは、ネイサンとの婚約許可が下りると信じているようだが、それはあり得ない。なぜなら、ステアが父である国王に直接願い出て、「コートニーの婚姻願いは保留」という密約を取りつけたからだ。
国王、クレイグは最初、『貴族の家庭問題には介入したくない』と渋った。
しかし、王妃エロイーズが『まあ、冷徹なあなたに似ず、息子がせっかく一人の娘のために情を動かしたのですもの。少しは協力して差し上げたら?』と、茶目っ気たっぷりに、しかし抗いがたい微笑みで背中を押したのが決め手となった。
(……母上も余計なことを。情などではない。あれはただの、有用な人材の流出阻止だ)
心の中で自分に言い訳をするが、ステアの脳裏には、先程「帰りたくない」と顔にありありと描き、唇を噛み締めていたコートニーの、頑なで、どこか消え入りそうな姿がこびりついている。
ステアは、一人思い出して心がざわつく。ただし、彼の王族としての天秤は、揺れている。
『そうそう長くは認められんぞ。我々が特定の家に肩入れすれば、国内に不穏の種を撒くことになりかねないからな』
父の言葉は今も耳に残っている。確かに王族は公平でなければならない。本来なら、一介の伯爵令嬢にここまで肩入れするような行動は慎むべきなのだ。
だが、彼女が実家を嫌う理由はすでに裏を取っている。ましてや評判の悪いネイサンと無理やり結婚させようとするのは、到底まともな親がすることではない。
「まったく……親の因果を背負わされるだなんて、厄介だよな」
ステアは溜息混じりに呟いた。
疲れ切った頭で、彼はこの密約を取り付けた際、微笑を浮かべていた母との密会を思い出す。
◇✧◇✧◇✧◇
あの日、ウォータール駅で補導されたコートニーを引き取り、ステアは彼女を城へ連れ帰った。
今思えば、疲労と焦りが生んだ、あまりに拙速な判断だったと認めざるを得ない。
(後悔も、反省もしている)
しかも彼女は、王妃エロイーズが親友と呼んでいた女性――エリノアの娘だった。
その事実を知った瞬間、事態が単純な「保護」では済まないことは、容易に想像がついた。
案の定、翌日には逃げ場もなく母に呼び出された。
ヒスコック伯爵家は、かつて鉄道事業への投資に失敗し、廃爵寸前まで追い込まれていた家だ。
その窮地を救ったのが、フィデリア国の鉄道王スタイナー家の娘、エリノアだった。
当時、ヒスコック伯爵家の嫡男ウィリアムは、ソフィアと恋愛感情に基づく婚約をしていた。
だが家を救うため、その婚約を破棄し、エリノアと結婚した。
それは政略ではなく、エリノアの一途な恋心から始まった縁だったという。
(……厄介な話だ)
病弱で、子を成せない可能性を理解していたエリノアは、自らの死後を見据え、ソフィアを「後継を産む存在」として受け入れる覚悟まで示していた。
正妻と愛人。
その歪な均衡は、しかし長くは保たなかった。
エリノアが娘――コートニーを産んだことで、すべてが崩れた。
ウィリアムは正妻の子であるコートニーを溺愛し、社交界もまた、エリノアとその娘を歓迎した。
結果として、フレデリックはヒスコニック伯爵家を継ぐ正式な後継者として認められていたものの、ソフィアとその娘リリアは忘れ去られることになる。
(……憎しみが向かう先としては、あまりにわかりやすい)
母は、ソフィアが抱いた屈辱と怒りは、やがてエリノアの忘れ形見であるコートニーへ向けられたのだろう、と言っていた。
そしてステア自身も、その推測を否定できなかった。
結論として、コートニーに罪はない。
それは明白だ。
だが、そう理解したところで――。
(だからといって、僕に出来ることは限られている)
出来るなら、彼女は家族と和解し、自らが生まれ育った場所へ戻るべきだ。
その方が、波風は立たない。
余計な火種も増えない。
合理的で、最も安全な選択だ。
――少なくとも、この時のステアは、本気でそう考えていた。




