031 王子様は、助けてくれませんでした
幼い頃、夢中で読んでと母にせがんだお伽噺の中だと、絶体絶命の窮地に現れるのは決まって白馬の王子様だった。そして運がいいことに、今日の彼女は本物の王子ステアと共にこの舞踏会に参加している。
(だから、もしかしたら……殿下が助けにきてくれるかもって、ほんの少しだけ願っていたけれど)
現実問題としてコートニーはお姫様ではないし、ステアは暗黒界の王子。そんな奇跡を期待する方がどうかしているのだ。
「ミネット、すまない」
そう言って彼女の体を起こし、強く抱きしめてきたのは、王子様とは程遠い人物だった。
久しぶりに見る、父ウィリアムだった。
あまり意識したことはなかったが、至近距離で見れば、その艶やかなはちみつ色の髪には白いものが混じっている。鼻をくすぐるフランキンセンスのエキゾチックな香りは、先ほどリリアのドレスから漂っていたものと同じ、懐かしい父の香りだった。
「お父様、どうしたの?」
困惑したコートニーは、ウィリアムから距離を取ろうと身を引く。しかし彼は、コートニーの肩に手を置いたまま離そうとしない。
「それは……」
絶句したウィリアムの悲痛な視線が、コートニーの額のあたりで止まった。
(……ああ、さっきの必殺、オデコ突きね)
自覚すると、急にその部分がジンジンと熱を持ち始めた。
ウィリアムが醸し出す、重苦しいほどの心配した雰囲気が、今のコートニーにはひどく居心地が悪かった。
「ステア殿下が、ミネットが消えたと教えてくれたんだ」
絶妙に気まずい沈黙を破ったのは、父の背後でネイサンを睨みつけていた義兄のフレデリックだった。
「教えてくれた……?」
「そうだ。だから父と一緒に、屋敷のどこかにいるであろう君を探していたんだ。それより、なんで逃げるんだよ」
フレデリックがいかめしい顔で低い声を出す。
本気で怒っているその様子に、コートニーは乾ききった喉を潤すように唾を飲み込む。
「帰りたくないからよ」
一貫して揺るがない本音を口にした途端、憑き物が落ちたようにスッキリした。けれど、直後に肩を掴むウィリアムの手に力が込められ、物理的な負担がのしかかる。
「それに、私がいなくなったことで『本当の家族』だけになって、ようやく調和の取れた家になれたんじゃないの?」
皮肉を込めた言葉を投げても、ウィリアムからは無言の圧力が返ってくるだけだった。
見ずともわかる。彼が、かつてないほど恐ろしい怒りを孕んだ視線を向けていることを。
「お父様、私は大丈夫だから……離して」
耐えきれずか細い声で訴えると、ウィリアムは神妙な顔で、コートニーに言い聞かせるように告げた。
「お前は、私の家族だ」
(……いまさら、何を言っているの?)
コートニーの手が震えた。
忘れかけていたどす黒い感情が澱のように沈んでいく。
「家族ね……そう、だったかしら」
無意識に、ネイサンに叩かれた頬を擦る。
ウィリアムがようやく自分を認めたような口振りをしているのが、滑稽でさえあった。
(期待して、裏切られて、ようやく一人で立つ術を見つけようとしている今になって、なぜ、そんなことを言うの?)
肩を抱くウィリアムを冷たく押し退ける。
「てっきり、ステア殿下が助けに来てくれると思っていたのに」
独り言のように呟きながら、ソファーから立ち上がった。
「相変わらず君は、自信過剰だな」
部屋の入り口付近から届いた不機嫌極まりない声。
コートニーは弾かれたように顔を向けた。
そこには、腕を組み、冷徹な美貌をさらに険しくさせたステアが立っていた。
夜会の礼装に身を包んだステアは、不機嫌そうに腕を組み、長い足を交差させてコートニーに冷たい視線を投げていた。その完璧な立ち姿は、まるでこの惨状さえも彼の掌の上の出来事であるかのような錯覚を抱かせた。
扉の脇の壁に背を預け、冷徹な彫刻のようにこちらを静かに見据えるステアと目が合う。
「今日の舞踏会のパートナーはステア殿下です。それに私は殿下の部下でもあるし」
コートニーはそっぽを向き、乱れたドレスを指先で整えながら、小さな声で不満をこぼした。
助けてくれるどころか、突き放すような彼の態度が癪に障ったのだ。
「確かに部下ではあるけれど、君は私の家族ではないし、パートナーは業務の一環だ。それに私の意見は変わらない。君には自らの意志でヒスコック伯爵家に戻ってもらいたい。それが、今の君にとって最善だ」
死刑宣告にも等しい無慈悲な言葉が投げかけられた。
コートニーは弾かれたように殿下に視線を戻したが、彼は顔色一つ変えず、胸の前で手を組んだまま、これ見よがしに大きなため息をついた。
「君はそろそろ意地を張るのをやめた方がいい」
「意地なんて」
「ヒスコック卿やフレデリックは君を必死に探していた。それは君を家族だと認めているからだろう?」
いかにも常識人といった風情で問いかけてくるステアに、コートニーは奥歯を噛み締める。
(殿下は、私が決死の覚悟で「家」を捨てたかを知っているはずなのに)
理解されない孤独感と、信頼していた主人にさえ突き放された絶望感。コートニーの胸のうちは、冷たい雨に打たれたような虚しさに支配されていた。
「いい機会だ。君は家族の元に戻り、存分に話し合うべきだと思う」
「嫌です。殿下と帰ります」
コートニーは即答した。
ステアの元へ向かおうと一歩踏み出した瞬間、ウィリアムに腕を強く取られた。
「もう十分だろう、ミネット?」
「何が?」
ステアに拒絶された怒りが、そのまま父への切っ先に変わる。
「殿下の仰る通りだ。私達はお前を家族だと認めている。それに、私に至らない点があるのも認める。だから――」
ウィリアムは一旦言葉を切ると、コートニーの腕を離し、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「お前のことは、エリノアの残した大事な忘れ形見だと思っている。私にとってはフレデリックやリリアと変わりなく、私の愛する子の一人だ」
ウィリアムの手がコートニーの頬へと伸びてくる。
(今さらすぎるわ!)
激しい憤りと、心の隅に芽生えたほんの少しの喜び。
正反対の感情が胸の中で渦巻き、コートニーはどう振る舞えばいいのか分からず、その場に立ちすくむ。
「だから帰ってきなさい。これ以上ステア殿下にご迷惑をかけてはいけない。それにソフィアだってお前を心配しているんだ」
「ソフィアが……?」
宿敵と定めた女性の名を耳にした瞬間、コートニーは我に返った。
一度収まりかけた怒りが、火に油を注がれたように再燃する。
「お父様は私がどうしてこうなったか、全く理解出来ないの?」
「理解しているつもりだ」
「だったら、何で彼女が私を心配しているなんて言えるのよ! ソフィアがネイサン様をけしかけたのよ!」
怒りの矛先を、縄をかけられ、床で胡坐をかいているネイサンへと向けた。
不貞腐れた顔で座り込んでいたネイサンに、コートニーは大声で問い詰める。
「そうですよね、ネイサン様!」
「……別に、けしかけられてはいないよ」
「なんですって?」
嘘をつくな、と煮えくり返る思いで彼を睨みつけるが、ネイサンは淡々と言い放つ。
「俺は正式な手順を踏んで、ヒスコック卿とソフィア夫人に、君への求婚を願い出た。夫人からは君も了承していると聞いていたし、婚約だってすでに陛下の了承待ちだ」
「こ、婚約!?」
寝耳に水すぎる事実に、コートニーの視界がぐらりと揺れたが、何とか堪える。
「婚約って、本当なの?」
憤慨するまま、ウィリアムに詰め寄る。
「お前も了承していると聞いていたのだが……」
ウィリアムの言葉に、コートニーは戦慄した。
彼が誰からそれを聞いたのかは明白だ。
「両家の許可を得た俺とコートニー嬢は、すでに婚約したも同然だ。婚約者同士が仲を深めようと二人きりになるのは自然なことだろう?」
ネイサンは得意げにステアに顔を向けた。
「よって、これは不当な拘束だ。議会に訴えてもいいくらい、これは卑劣な行為ですよ、ステア殿下」
「なるほど。君の主張はわかった」
ステア殿下が神妙な顔でその主張を受け入れた瞬間、コートニーは自分の運命が奈落に向かって一気に加速していくのを感じ、背筋に冷たい汗が伝った。
「ヒスコック伯ウィリアム。テニソン子爵ネイサンの言うことは事実か?」
ステアが腕組みと足組みを解き、静かだが抗いようのない威厳を湛えた声で父に問いかけた。
「……事実です」
父の口から漏れたその肯定を、コートニーは断じて認めたくなかった。
思わず耳を塞ぎたい衝動に駆られ、視界が歪む。
「そうか。手荒な真似をしてすまなかった。マイロ、離してやれ」
「ハッ」
淡々とした口調で命じられたマイロが、さっきまでコートニーを襲おうとしていた男の縄をためらいなく解く。
自由になったネイサンが不敵な笑みを浮かべる光景を、コートニーはあまりの理不尽さに信じられない思いで見つめるしかなかった。
「婚約しているとはいえ、もう少し節度を持つべきだと私は思う。とはいえ、これは君たちの問題だ。私が口を出すべきではないな」
ステアは肩を落とす。けれどすぐに、厳しい顔をウィリアムに向けた。
「どうする? 娘を連れて帰るのか?」
コートニーを置き去りにして、話は残酷なほど円滑に進んでいく。
もはや目の前の出来事は他人事どころか、まるで滑稽な舞台劇のようだ。
(これはオペラの一幕に違いないわ……。継母に虐げられる勤勉で素直な娘が、周囲の都合で理不尽に翻弄されるお話。良くあるパターンのアレね)
コートニーは馬鹿馬鹿しくなり、ふぅと息を吐き脱力した。
「殿下、この度は大変ご迷惑をおかけしました」
ウィリアムとフレデリックがステアに深く頭を下げる。
「そうだな。君たちの謝罪に、異論はない」
「申し訳ございません」
再度深く頭を下げるヒスコック家の男たち。謝罪が飛び交う中、コートニーの存在は「解決すべき案件」へと成り下がっていた。
「どうする。妻と話し合うというのであれば、その間、彼女の面倒をみないこともないが」
ステアは頑なにコートニーへ視線をよこさず、あくまでウィリアムに対する提案として言葉を投げた。
「不躾かとは存じておりますが、許されるのであれば、このまま数日間ほど娘を預かっていただければと思います」
「わかった」
ステアが短く答えた。どうやら、最悪な未来を受け入れるまでの猶予として、数日間という期限が一方的に定められたらしい。
(だけど、それになんの意味があるというの? 統計学的に見ても、数日程度でソフィアが翻意する確率なんて、彗星が王城に激突する確率より低いはずなのに)
混乱は極まり、コートニーの知性はもはや正常な演算を拒否していた。
ステアの冷たい横顔も、父の苦渋に満ちた表情も、すべてが遠い世界の出来事のようにぼやけていく。
ただ一つ確かなのは、彼女が信じた「自由」が、一瞬にして音を立てて崩れ去ったという事実だけだった。
絶望が冷たく足元から這い上がってくる。
けれど、コートニーの瞳の奥にある、諦めの悪い火種までは消えてはいなかった。
(……このまま、ただ計算通りの悲劇に収まって終わるなんて、誰が決めたのかしら)
すべてを諦めたように俯いた彼女の唇が、誰にも気づかれないほど微かに、けれど確かに、鋭く結ばれた。




