030 売られた令嬢は、拒絶する
「んぐ、んんーー!!」
口を塞がれたまま、コートニーは必死に身悶えた。
(男の部屋に自ら入った? 舞踏会の最中に? ……ああ、なるほどね。よくある「不貞の現行犯」のシナリオってわけ!)
パニックになりそうな脳を、コートニーは脳内の図鑑に保管した知識を引っ張り出すことで無理やり冷却した。
(落ち着け、コートニー。こういう時、東方の物語なら暗器を出すところだけど……私は侍女。侍女の武器は、いつだって「日常」の中にあるはずよ!)
素早く思考を巡らせるコートニーに、男が衝撃の事実を耳元でねっとりと囁いた。
「悪いね。カードの負けが立て込んでさ。でも無理矢理じゃないよ?君を好きにしていいって。君の母上の許可は取ってあるから」
カードの負け。
母上の許可。
コートニーの脳裏に、一人の人物が浮かぶ。
「もしかして、テニソン子爵家のネイサン様ですか?」
「正解。お利口だね、コートニー。君の義母上、ソフィア夫人には感謝しなきゃ。君を俺に払い下げてくれる上に、借金まで肩代わりしてくれるって言うんだから。君が俺の『妻』になれば、すべて丸く収まる」
(母上の許可……払い下げ……。あぁ、なるほど。私を傷物にするだけじゃなく、借金取りに売り飛ばして、二度と戻ってこれないようにするつもりなのね)
あまりに救いようのない、そしてあまりにずさんな計画。 コートニーの心から、恐怖がスッと引いていった。代わりに込み上げてきたのは、圧倒的な呆れだ。
「だからこれは合意の上だ」
「本人の許可がないのだから、合意とはいいませんわ」
「貴族女性の結婚なんて、娘の意見は関係ないんだよ。知らなかった?」
「声を、あげますよ?」
「あげたらいいさ。目撃者が増えれば、君が『俺の女』だという既成事実が強固になるだけだ」
ネイサンが、勝ち誇ったように笑いながら手を緩めた。
その瞬間、コートニーの脳裏に浮かんだのは、護身術の本に載っていた「テコの原理を利用した、その名も、親指さんごめんなさい」の図解だった。
(物理的な力の差なんて、支点・力点・作用点さえ理解していれば関係ないのよ!)
「失礼します!」
コートニーは、自分を羽交い締めにしているネイサンの親指を掴むと、解剖学的にありえない方向へと一気にねじり上げた。
「がぁぁぁっ!?」
ネイサンが悲鳴を上げてのけ反る。
その隙を逃さず、コートニーは身を翻してドレスの裾を大胆に蹴り上げた。侍女として毎日磨き上げてきた脚力が、重たいヒールを通じてネイサンの急所を正確に捉える。
「ぐふぅ……っ!」
のたうち回る男を冷めた目で見下ろし、コートニーは乱れたドレスの肩を整えた。
「カードの負けを女性で埋め合わせようなんて、確率論以前に人間としての演算が間違っていますよ、ネイサン様」
顔を覗かせた借金まみれだと噂の、顔だけは整った放蕩息子を睨みつける。
「ぐっ……この、小娘がぁっ!!」
股間を抑え、悶絶していたはずのネイサンが、獣のような執念でコートニーの足首を掴んだ。
「ひゃっ!?」
予想外のしぶとさに、コートニーの身体が宙に浮く。ドサリ、という重苦しい音と共に、彼女は部屋の隅にある豪奢なソファーへと押し倒された。
背中に感じるベルベットの柔らかな感触とは対照的に、上から覆いかぶさってくるネイサンの体温と、怒りに血走った瞳が現実の恐怖を突きつける。
「痛ぇんだよ……ッ! 淑女のふりして、なんて真似しやがる!」
ネイサンは両手でコートニーの手首を掴み、逃げ場を塞ぐようにソファーの座面へ力任せに押しつけた。のしかかる体の重み、そして酒と煙草、安物のムスクが混ざり合った吐き気のするような悪臭がコートニーを襲う。
「さあ、始めようぜ。あんたがどれだけ高貴な知識をお持ちか知らないが、体の方は、俺のような男でもわかるようにできているんだろう?」
脳裏にリリアの楽しげな噂話が響く。
『ネイサン卿は女遊びが激しい』
その情報は正しかった。目の前の男は、女性を人間ではなく所有物や駒としてしか見ていない。
「いい加減にして!」
コートニーは自由な足を動かし、必死に暴れて抵抗する。しかし、男の筋力は、コートニーが知識として頭に仕舞い込んでいた「標準的な成人男性の握力や筋肉量」の数値では計り知れないほど強く、彼女の抵抗を力ずくでねじ伏せていく。
「大人しくしろ!」
パシン、と乾いた音がして、コートニーの頬に鋭い痛みが走った。
「いい加減諦めろ。君は家族に売られたんだ」
激昂した直後、ネイサンは一転して、ゾッとするほど優しくコートニーの頬を撫ではじめた。
「それに、君は俺を選んだって聞いてるけど。違うのか?」
猫なで声。急激な態度の変化に、コートニーの身体が恐怖で硬直する。
「君は羽化して空に羽ばたいた途端、蜘蛛の巣に引っかかったんだ。悪いけど諦めな。家出したって無駄だっただろう? コートニー・ヒスコック。運命が俺と結婚するしかないと言っているのさ」
いつの間にか涙が溢れていたのか、コートニーの目元を男の指が拭う。
悔しさと、自らの無力さが胸をぎゅうぎゅう締めつける。
確かに家出は失敗続きだ。メルク海峡の海賊騒ぎに足止めされ、ようやく掴んだ侍女の仕事さえも、こうして過去の因縁に引きずり戻される。
(……でも、私はまだ諦めていない)
円卓の貴婦人たちを思い出す。彼女たちは過酷な環境を嘆くのではなく、そこで最善を尽くし、戦う淑女たちだった。 切り裂き魔に襲われた被害者たちだって、きっと死の間際まで生きようと足掻いたはずだ。
(喜んで命を投げ出したりなんてしない。クモの巣に囚われた蝶だって、もがくもの!)
自分の中の絶望が、真っ赤な怒りに変わる。
コートニーは目を閉じ、心の中でカウントダウンをした。
――三、二、一。
コートニーは両手で相手の肘を強く掴むと、ソファーの沈み込みを利用して一気に身体を反転させた。
「お断りですわ!」
至近距離、ネイサンが驚愕に目を見開いたその瞬間。コートニーは渾身の力を込め、己の額をネイサンの鼻先へと叩き込んだ。
ゴッ!!
鈍い衝撃音と共に、コートニーの視界に火花が散る。
(痛っ!!)
数秒遅れて、鋭い痛みがコートニーを襲う。
けれど、それ以上に手応えは十分だった。頭突きをモロに喰らったネイサンが悲鳴を上げ、たまらずコートニーの上から転げ落ちる。
「くっそ……! この、生意気な……ッ!」
顔を真っ赤に染めたネイサンが、激痛に顔を歪ませながら再び手を振り上げた。
コートニーは咄嗟に腕を交差させ、顔を覆って衝撃に備える。
(また叩かれる……!)
そう身を固くした瞬間だった。
「何をしている!!」
鼓膜を震わせるほどの怒号。それと同時に、部屋のドアが蝶番ごと吹き飛ぶような凄まじい音を立てて開け放たれた。
室内にドタドタと複数の足音が響き渡り、コートニーの身体を押し込めていた重みが完全に消え去る。
ドサリ、と床に重いものが転がる音が聞こえた。
「大丈夫か」
その声を聞いた瞬間、コートニーの目元に熱いものが込み上げた。




