028 私はもう、あなたたちの言葉では傷つかない
「いたい……」
鼻を突くような、鈍い痛み。
コートニーが両手で顔を押さえた瞬間、部屋の中から伸びてきた手に腕を強く掴まれた。抵抗する間もなく、気づけば見知らぬ小部屋に引き込まれていた。
「あ、失礼しました」
咄嗟に謝罪し、部屋の奥にドレス姿の女性の影を見て慌てて背を向ける。
「今すぐ退散しますので」
コートニーが足を踏み出した時。
「ねぇ、なんであなたがステア殿下にエスコートされているのよ」
投げかけられた声は、コートニーの足を縫い止めるには十分すぎるほど尖っていた。
「!?」
弾かれるように振り向く。
腕組みをしてコートニーを睨みつけているのは、琥珀色の瞳に自分と同じ金色の髪。
どこからどう見ても、腹違いの妹であると主張してやまないリリアだった。
彼女は鮮やかな紫色のドレスを身に纏っている。
(なんか、懐かしい……そう思ってしまうこと自体、まだ毒が抜けきっていない証拠よね)
自然と浮かんだ気持ちに、コートニーは自嘲的に笑う。
「リリア、元気そうね」
コートニーは名を呼びかけたが、リリアは一歩、また一歩と近づいてくる。
「答えなさいよ、コートニー」
リリアの声は怒りで震えていた。コートニーを睨む瞳には、かつて向けられていた「優越感」ではなく、焦燥と激しい嫉妬が渦巻いていた。
「なんであなたみたいな人が、ステア殿下にエスコートされているの?」
「部下だからよ」
「部下?」
「そう。私は今ステア殿下の元で侍女をしているの。殿下の執務と身の回りを預かる、責任ある役目よ」
コートニーはしっかりと胸を張る。しかし、リリアは信じられないものを見るかのように目を剥き、次の瞬間、その唇を歪めて嘲笑を漏らした。
「侍女? ……あははっ! 何かと思えば、結局はただの下働きじゃないの!」
リリアは腹を抱えて笑い出し、その拍子に紫色のドレスの裾が激しく揺れる。
「殿下も物好きよね、汚れた雑巾のような女をわざわざ拾ってあげるなんて」
「殿下を侮辱するのはやめて。私は自分の仕事に誇りを持っているわ」
コートニーは毅然と、そう言い放つ。
伯爵家にいた頃、彼女は誰からも必要とされていなかった。しかし今は、ステアに徐々に認められ、部下として傍にいていいと許しを得た。
それは間違いなく、今の彼女を支える揺るぎない芯となっている。
「殿下は、私の仕事をきちんと見てくださるわ。家柄や血筋ではなく、私という人間を見て必要としてくださっているの。だから、今の私はとても幸せよ」
「幸せ……? 笑わせないで! あなたみたいな家の恥さらしが、殿下の温情に縋って生き延びているのは、全部お父様のお陰なんだから」
リリアは苛立ちを隠そうともせず、手に持っていた扇子をコートニーの鼻先に突きつけた。
「いい? 勘違いしないで。あなたが今着ているそのドレスも、その立場も、全部借り物なのよ。お父様が裏で手を回したから、殿下の侍女ができているのよ!」
(それは違う。けど、そう思って勝手に傷つくなら、好きにすればいいわ)
コートニーは敢えて口を噤む。
「少しは遠慮しなさいよ。殿下は私のものなのよ?」
「……あなたのもの?」
コートニーは思わず眉をひそめた。
「殿下は誰かの所有物ではないわ。それに、今日ここにいるのは、仕事の一環で――」
「黙りなさいよ!」
リリアの甲高い声が部屋に響く。
「あなたなんかが殿下と踊るなんて、おかしいのよ! 私こそが殿下の隣にいるべきなのに!」
「リリア、落ち着いて」
コートニーは耳を塞ぎたくなるような金切り声に、眉を寄せながらも冷静に言葉を返す。
「そんなに叫んだら、せっかくの綺麗なメイクが崩れてしまうわよ。それに、殿下を自分の所有物のように扱うのは、不敬罪に問われかねないわ」
「なっ……! 姉のくせに、私に説教する気!? お母様、コートニーったら、家を出てからすっかり生意気になってしまったのね!」
リリアが縋るように部屋の奥へ視線を向ける。すると、そこからゆっくりと、影を引きずるようにして一人の女性が現れた。
「そうね。家出をしておいて呑気にステア殿下と夜会を楽しんでいるなんて、どこまで厚顔無恥なのかしら」
低く、氷のように冷たい声。深紅のドレスを毒々しく着こなした義母、ソフィアだった。彼女は扇子を口元に当て、値踏みするような視線でコートニーを射抜く。
「ソフィア……」
「いい加減、お母様と呼びなさい」
「悪いけど、私のお母様はエリノア・ヒスコック。ただ一人なの」
「憎たらしい子ね」
ソフィアが忌々しげに鼻を鳴らした瞬間、コートニーは自分の中にあったわずかばかり、リリアに感じた「郷愁」が、呆れに近い感情に塗り替えられていくのを感じた。
(彼女たちは昔の私を縛り続けている。でも私はもう、誰かに値踏みされる場所には立っていないもの)
コートニーは心の中で、自分に言い聞かせるように呟いた。
(いつまでも過去に囚われた哀れな女とは違う)
ギュッと手を握り、しっかりと二人を見据える。
「ソフィア、リリア。私はもう、あなたたちの言葉に傷つくことはないわ」
コートニーははっきりと告げた。
「私は円卓の貴婦人たちと多くの議論を重ね、学んできました。貴族とは何か、ノブレス・オブリージュとは何か。真の貴族とは、その地位や財産ではなく、弱き者を守り、導く責任を果たす者のことだと理解しました」
「あら、随分と立派な口を利くようになったのね」
ソフィアが冷ややかに笑った。
「円卓の貴婦人たち、ですって? あなたのような娘が、あの方々と対等に話せるはずがないでしょう。どうせ、使用人として給仕でもしながら聞き耳を立てていたのでしょう?」
「違います」
コートニーの声には、揺るぎない確信が宿っていた。
「私は彼女たちと議論を交わしました。そして気づいたのです。あなたのように、他者を侮蔑し、嫉妬を煽り立てるような行為こそが、貴族としての品格を貶めているのだと」
「……なんですって?」
ソフィアの顔が紅潮した。
「よくもそんな——」
「事実を述べただけです」
コートニーは一歩も引かなかった。
「リリア、あなたは殿下を『自分のもの』だと言ったわね。でもそれは違う。殿下はあなたの所有物ではないし、誰かに選ばれることを当然の権利のように考えるのは傲慢よ」
「あなたに言われたくないわ!」
リリアの目に涙が浮かんだ。それは屈辱と怒りに塗れた、醜い涙だった。
「私は、私は……ずっと殿下のことを想っていたのに。なのにあなたが、あなたみたいな人が殿下と踊って——」
「それはリリア、あなた自身の問題よ」
コートニーは静かに、しかし明確に告げた。
「殿下があなたを選ばないのは、私のせいではない。それは——」
「もういいわ」
ソフィアが手を上げて、コートニーの言葉を遮った。




