022 冷えた資料室と、温かいスープ
資料室は、思っていた以上に冷え込んでいた。
王城の奥、厚い石壁に囲まれたこの場所は、春先でもまだ肌寒い。夕刻が近づくにつれて、その冷気は容赦なく指先から体温を奪っていった。
(……しまった。夢中になりすぎたわ)
コートニーは、鼻先まで積み上がった資料の山から顔を上げ、そっと肩をすくめた。
王妃殿下から預かったという膨大な報告書。
円卓で話題に上がった「慈善活動」の記録、その写し。
数字。
地名。
日付。
そして、余白に走り書きされた、女性たちの冷静で容赦のない分析。
(これ……本当にお茶会の資料なのかしら)
指先で紙をめくるたび、胸の奥がじわりと熱くなる。
あの円卓は、慈愛の仮面を被った本気の集まりだった。
「びっくりしたけど、羽箒で本の背を撫でるより、ずっと楽しいわ」
コートニーは、小さくかじかんだ手に「ふうっ」と息を吹きかけた。
羽箒で埃を払っていただけの毎日から、一変して国の裏側に触れている。その事実は、彼女の中に眠っていた旺盛な好奇心を、見たこともないほど激しく燃え上がらせていた。
(お母様も、この冷たい紙の束の中に、民の吐息や苦しさを読み取っていたのかしら)
「……でも、これだけじゃ足りないわ。結局、書類は起きたことしか書いていないもの」
コートニーが、あるひとつの仮説を裏付けるための数字を探そうと、再び資料の山に手を伸ばしたその時だった。
「――君は独り言でも、おしゃべりなんだな」
背後から響いた、低く、聞き慣れた冷徹な声。 驚いて顔を声のした方に向ける。
「え」
そこには腕を組み、不機嫌そうに眉を寄せたステアが立っていた。
「殿下……!なぜこちらに?」
「私の本を勝手に読み、あまつさえ母上の前でその内容を振り回した度し難い侍女がいると聞いた。内容に誤解がないか、監督しに来ただけだ」
ステアは一歩、また一歩と、影を落とすように近づいてくる。
その手には、謎にブランケットといい香りをさせたスープとパンが乗ったトレイが握られていた。
(あ、背中!!)
慌てて椅子から立ち上がると、コートニーは資料の山にぶつからないよう気をつけながら、その場でくるりと向き直った。
その瞬間――。
きゅうと、控えめながら、はっきりとした音が鳴った。
「…………」
コートニーは、ぴたりと動きを止める。
(い、今の……私の?)
コートニーはあまりの恥ずかしさに、顔が火を噴くかと思うほど赤くなった。
ステアの動きが止まる。彼はトレイを持ったまま、まじまじとコートニーの腹部のあたりを見つめた。
(言われる。これは絶対に、何か嫌味を言われるやつ!)
コートニーは咄嗟に、険しい表情を作り、ステアのお腹を指差す。
「お、お聞きになりましたか、殿下?」
「何のことだよ」
「とぼけないでください。 殿下のお腹の音です。 あんなに大きな音を立てるなんて、ちゃんと食事休憩を取っていますか?」
勢いのまま、続ける。
「殿下の健康は、我が国の損失に繋がります。 全く、私の監視よりもご自分の体調管理を優先していただかないと、全国民が困ります!」
我ながら無茶苦茶な言い分だと分かっていたが、コートニーは必死だった。
「だいたい、そのトレイ! 殿下が相当お腹が空いている何よりの証拠ですわ。さあ、どうぞ。冷めないうちに召し上がってください。私は気にせず資料を読みますから」
くるりと背を向きたい気持ちを堪え、資料で顔を隠すコートニー。心臓は喉から飛び出しそうなほど跳ねており、耳たぶまで真っ赤なのが自分でも分かった。
重苦しいまでの沈黙が流れる。
(怒らせたかしら。不敬罪で首が飛ぶ?)
やがてカチャリと机にトレイが置かれる音がした。
「だったら、僕の不始末を無駄にするな」
ステアの声は、いつも通り冷ややかだったが、どこか調子を狂わされたような微かな揺らぎがあった。
「僕が鳴らした『恥ずべき音』の証拠を、ここで冷えて腐らせるわけにはいかないからな。君が責任を持って処分しろ。これは命令だ」
「……処分、ですか?」
「そうだ。君が食べなければ、僕が不健康だという証拠が残る。だからこの軽食を君の腹の中に隠滅すればいいと言っている」
コートニーは、恐る恐る書類から顔をあげる。
そこには相変わらず眉間に皺を寄せたステアが立っていた。
「資料室は日が落ちると急激に冷える。それくらい、覚えておけ」
ステアは、持ってきたブランケットをコートニーの肩にバサリとなすりつけるように掛けた。
ぶっきらぼうな声。けれど、その距離は近く、布越しに体温が伝わってくる。
「少し休め。君が空腹で倒れれば、またマイロが鬼畜だなんだと煩いからな」
ステアは言い捨てると、反対側の机に無造作に腰掛け、一冊の古い地籍図を広げた。まるで、コートニーがスープを「処分」し終えるのを、その場で見届けるつもりのようだ。
「……いただきます」
椅子に腰を下ろしたコートニーはおずおずと、温かなスープを一口啜った。
野菜の甘みが溶け出したスープが、冷え切った身体を内側からじんわりと解かしていく。
「……美味しい」
「当然だ。僕が鳴らした音の原因なのだからな」
その徹底した「設定」の守り方に、コートニーは思わず吹き出しそうになった。
彼は全てを分かった上で、彼女のあまりにも稚拙な嘘に、あえて乗っかってくれたのだ。
資料室を包む冷たい空気の中に、スープの湯気と、ほんの少しの温かな沈黙が流れる。
コートニーは、肩に掛かったブランケットの重みを心地よく感じながら、ステアの横顔を盗み見た。いつもは氷のように冷徹な主人が、今は地籍図を睨みつけながらも、どこか穏やかな空気を纏っている。
「殿下」
「なんだ」
「私を拾ってくれて、ありがとうございます」
ステアの不器用な優しさに触れたコートニーの口から、突然の、そしてあまりに真っ直ぐな言葉が飛び出す。
地籍図をめくろうとしていたステアの手が、ぴたりと止まる。資料室の薄暗い灯りの下、彼の横顔に落ちる影が微かに揺れた。
「……感謝の気持ちがあるなら、この国に返してくれ」
「了解です」
コートニーはスープの温もりを手のひらに感じながら、小さく笑った。
「でも、お母様が亡くなってから、私に『考えなさい』と言ってくださる方は誰もいませんでした。ただの身代わりではなく、一人の人間としてこの円卓の端に座らせてくださったこと、心から感謝しています」
ステアはしばらく無言だった。地籍図を睨みつけたまま、動かない。
「母は、厄介な人ではあるが、見る目だけは確かだ」
ステアは視線を地籍図に落としたまま、静かに言葉を継いだ。
「君をあの円卓に座らせたのは僕だが、その席を維持したのは君自身の言葉だ」
「はい」
ステアは机に置かれた資料に視線を落とした。
「読んでいたのは、その束か」
「はい。慈善活動の家庭訪問記録です。……数字だけ見ると物凄い予算が使われているんだなって」
「国としても、見放すつもりはないからな」
「でも、余白の書き込みは、とても……」
言葉を探して、少しだけ間を置く。
「……現実を見たものでした」
ステアは、ほんの一瞬だけ目を細めた。
「報告を受けた。円卓を囲む淑女たちの前で君は、施しの否定。尊厳の回復」
机の上に散らばった資料の一枚を指先で弾きながら続ける。
「……そして、イースト地区の『不審な動き』を、自立への爪痕だと断じたそうだな」
ステアはコートニーの脇を抜けて、机の上に散らばった資料の一枚を指先で弾いた。
「君は、全てから見放されたような場所に、宝石の原石でも眠っていると本気で思っているのか?」
その問いは、試すような響きを含んでいた。
コートニーは一瞬、言葉に詰まったが、すぐに自分の胸の奥にある熱い好奇心と、資料から感じ取った違和感を信じて言い返す。
「……原石かどうかは分かりません。でも、殿下が『不審』だと仰るあの場所で、誰かが必死に生きるための工夫を始めているのなら、それは一方的に与えられるパンよりも、ずっと価値があるものに思えたのです」
ステアは沈黙した。 薄暗い資料室の中で、二人の視線がぶつかり合う。
やがて、ステアはコートニーから視線を逸らし、地籍図を閉じると席を立った。
「読み散らかした本の解説は、また後で。今は休憩だ。無理をするなよ」
そう言い残し、扉へ向かう。
「あ、あの、殿下」
呼び止めると、彼は振り返った。
「ありがとうございます。差し入れも、ブランケットも」
一瞬の沈黙。そして、視線を逸らしながら。
「……仕事だから、気にするな」
それだけ言って、ステアは資料室を後にした。
扉が閉まり、再び静寂が訪れる。
一人残された資料室で、コートニーは残りのパンを一口かじり、ふふっと笑った。
「不器用な王子様。精一杯、お供させていただきますわ」
コートニーは小さく息を吐き、再び資料へと向き直った。
今度は、ほんの少しだけ、背筋を伸ばして。




