021 不器用な王子は、先に食事を用意する
執務室の空気は、いつも通り冷静だった。午後の光が高い窓から差し込み、書類棚の背表紙を淡く照らしていた。
ステアは机に向かったまま、最後の署名を終え、羽根ペンを置く。
「……で?」
短く問いかけると、向かいに立つマイロが一瞬だけ言葉を選ぶように口を閉じた。
「貴婦人の円卓は、無事に終わりました。正確には――始まった、と言うべきかもしれません」
ステアは顔を上げない。
「母上やお前が『始まった』と言う時は、大抵ろくなことが起きていないけどな」
「今回は、殿下の読み通りでした」
その一言で、ステアのペン先が止まった。
「……続けて」
マイロは一歩前に出て、簡潔に報告を始める。
王妃の采配。
慈善報告書。
婦人たちの断罪。
そして――
「コートニー嬢が、意見を求められました」
ステアは、そこで初めて顔を上げた。
「……それで?」
「場の空気は、正直に申し上げますと、かなり厳しかったかと。試すつもりだったのでしょう。涙を流した直後の彼女に、あの問いを投げるとは……」
マイロは一瞬、困ったように眉を下げたが、すぐに顔を引き締めた。
「母上らしいな」
どこか呆れたように言いながらも、否定の色はなかった。
「で、彼女は?」
マイロは、わずかに口角を上げた。
「逃げませんでした」
その瞬間、ステアの瞳に、ほんの一瞬だけ熱が灯る。
「……具体的には?」
「施しの否定です。依存の危険性。尊厳の喪失。そして――」
マイロは一拍置き、言葉を選んだ。
「殿下が管理外の不審な動きと見た現象を、檻を壊そうとする爪痕だと」
ステアは、完全に動きを止めた。
数秒の沈黙。
それから視線を本棚に移し、低く息を吐く。
「……あの本か」
「はい。執務室にあった専門書からの引用だそうです」
「中身を確認しろとまでは指示しなかったはずだが」
「ええ。ですが、掃除のついでに偶然、目に入ったと」
ステアは小さく鼻で笑った。
「言い訳まで律儀だな」
マイロは、一瞬だけ視線を逸らす。
「王妃殿下は、『合格』と仰いました」
その言葉に、ステアは何も答えなかった。だが、机の端に置かれた書類の角を、無意識に指でなぞっている。
「慰められて、受け入れられて、最後に突き落とされる。母上は昔から、その順番を間違えない」
「それでも、彼女は折れませんでした」
「だろうな」
マイロが驚いたように瞬きをする。
「……殿下?」
「折れる人間ならば、最初からあの場に送り込まない」
ステアは椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。
(……やはり、な)
彼女は、文句のつけようのない三重丸だった。血だけではない。考え方も、選択も、母エロイーズの期待を、そしてステア自身の予想を鮮やかに上回ってきた。
「殿下は、最初から彼女が円卓に選ばれると?」
「選ばれるかどうかじゃないな」
ステアは、淡々と言う。
「選ばれなければ、ここまでだ。選ばれたなら――」
言葉を切り、ゆっくりと息を吸う。
「ようやく、我々と同じ場所に立てるということだ」
マイロは、思わず苦笑した。
「……侍女にしては、ずいぶんと厳しい採用基準ですね」
「そもそも、彼女を甘やかす気はないからな」
「ですが、殿下」
マイロは一歩踏み込んだ。
「円卓に関わらせるということは、彼女を守る対象から外すという意味でもあります」
「承知している」
即答だった。
「そもそも、おしゃべりで好奇心旺盛な彼女は、守られる側を望まないさ」
「それはつまり?」
「そうだな……」
ステアは窓の外に広がる中庭の先に視線を向けた。その表情は、先ほどまでの冷徹な仕事人間のものとは違い、どこか挑戦的な色を帯びていた。
「守られるだけの部屋飼いの仔犬ではなく、共に獲物を追い、牙を剥く『猟犬』になってもらう。そうでなければ、僕の隣でこの国の泥を啜る覚悟は持てない」
沈黙。
やがて、マイロが静かに問う。
「……それは、仕事としてですか?」
ステアは、少しだけ考えた。そして、いつもよりわずかに低い声で答える。
「少なくとも、彼女を使い捨てるつもりはない」
ステアは再び羽根ペンを手に取り、今度は迷いのない動きで新しい羊皮紙に走り書きを始めた。
「円卓からの正式な依頼は、後日文書で届くはずです」
「通せ」
「はい」
「合格を出されたのなら、もう『置物』としては扱えないな。マイロ、あいつは今どこにいる」
「王妃殿下から預かったと思われる、膨大な資料に埋もれております。資料室の隅で、驚くほど集中しておりましたが……先ほど、少しだけ手が止まったようです」
「なぜだ」
「……お腹が鳴ったから、だと思われます」
ステアは一瞬絶句し、それから片手で顔を覆った。
「……大泣きして、挙句に国家規模の説教をぶちかましたんだ。燃料切れにもなるだろうよ」
ステアは立ち上がり、上着の襟を整えた。
「マイロ、厨房に連絡しろ。経費……ではなく、僕の私費で、あいつが好きそうなものを適当に用意させろ。それと、資料室の冷え込みが厳しくなる時間だ。ブランケットも持っていけ」
「殿下自ら行かれるのですか?」
「……あいつが勝手に読み散らかした本の、解説が必要だろう。間違いだらけの知識で動かれては二度手間だからな」
ぶっきらぼうに言い捨てて、ステアは執務室を出た。廊下を歩く彼の足取りは、いつになく速い。背後で見送るマイロは、主人の耳の先が微かに赤いことを見逃さなかった。
「……『不器用』の解説書も、どなたか執筆してくださると助かるのですがね」
マイロの小さな独り言は、主人の背中に届く前に静かな廊下へ消えていった。




