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捕まるまでが、逃亡です  作者: 月食ぱんな
第三章:円卓の端に座る資格
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021 不器用な王子は、先に食事を用意する

 執務室の空気は、いつも通り冷静だった。午後の光が高い窓から差し込み、書類棚の背表紙を淡く照らしていた。


 ステアは机に向かったまま、最後の署名を終え、羽根ペンを置く。


「……で?」


 短く問いかけると、向かいに立つマイロが一瞬だけ言葉を選ぶように口を閉じた。


「貴婦人の円卓は、無事に終わりました。正確には――始まった、と言うべきかもしれません」


 ステアは顔を上げない。


「母上やお前が『始まった』と言う時は、大抵ろくなことが起きていないけどな」


「今回は、殿下の読み通りでした」


 その一言で、ステアのペン先が止まった。


「……続けて」


 マイロは一歩前に出て、簡潔に報告を始める。


 王妃の采配。

 慈善報告書。

 婦人たちの断罪。


 そして――


「コートニー嬢が、意見を求められました」


 ステアは、そこで初めて顔を上げた。


「……それで?」


「場の空気は、正直に申し上げますと、かなり厳しかったかと。試すつもりだったのでしょう。涙を流した直後の彼女に、あの問いを投げるとは……」


 マイロは一瞬、困ったように眉を下げたが、すぐに顔を引き締めた。


「母上らしいな」


 どこか呆れたように言いながらも、否定の色はなかった。


「で、彼女は?」


 マイロは、わずかに口角を上げた。


「逃げませんでした」


 その瞬間、ステアの瞳に、ほんの一瞬だけ熱が灯る。


「……具体的には?」


「施しの否定です。依存の危険性。尊厳の喪失。そして――」


 マイロは一拍置き、言葉を選んだ。


「殿下が管理外の不審な動きと見た現象を、檻を壊そうとする爪痕だと」


 ステアは、完全に動きを止めた。


 数秒の沈黙。


 それから視線を本棚に移し、低く息を吐く。


「……あの本か」


「はい。執務室にあった専門書からの引用だそうです」


「中身を確認しろとまでは指示しなかったはずだが」


「ええ。ですが、掃除のついでに偶然、目に入ったと」


 ステアは小さく鼻で笑った。


「言い訳まで律儀だな」


 マイロは、一瞬だけ視線を逸らす。


「王妃殿下は、『合格』と仰いました」


 その言葉に、ステアは何も答えなかった。だが、机の端に置かれた書類の角を、無意識に指でなぞっている。


「慰められて、受け入れられて、最後に突き落とされる。母上は昔から、その順番を間違えない」


「それでも、彼女は折れませんでした」


「だろうな」


 マイロが驚いたように瞬きをする。


「……殿下?」


「折れる人間ならば、最初からあの場に送り込まない」


 ステアは椅子に深く腰掛け、天井を見上げた。


(……やはり、な)


 彼女は、文句のつけようのない三重丸だった。血だけではない。考え方も、選択も、母エロイーズの期待を、そしてステア自身の予想を鮮やかに上回ってきた。


「殿下は、最初から彼女が円卓に選ばれると?」


「選ばれるかどうかじゃないな」


 ステアは、淡々と言う。


「選ばれなければ、ここまでだ。選ばれたなら――」


 言葉を切り、ゆっくりと息を吸う。


「ようやく、我々と同じ場所に立てるということだ」


 マイロは、思わず苦笑した。


「……侍女にしては、ずいぶんと厳しい採用基準ですね」


「そもそも、彼女を甘やかす気はないからな」


「ですが、殿下」


 マイロは一歩踏み込んだ。


「円卓に関わらせるということは、彼女を守る対象から外すという意味でもあります」


「承知している」


 即答だった。


「そもそも、おしゃべりで好奇心旺盛な彼女は、守られる側を望まないさ」


「それはつまり?」


「そうだな……」


 ステアは窓の外に広がる中庭の先に視線を向けた。その表情は、先ほどまでの冷徹な仕事人間のものとは違い、どこか挑戦的な色を帯びていた。


「守られるだけの部屋飼いの仔犬ではなく、共に獲物を追い、牙を剥く『猟犬』になってもらう。そうでなければ、僕の隣でこの国の泥を啜る覚悟は持てない」


 沈黙。


 やがて、マイロが静かに問う。


「……それは、仕事としてですか?」


 ステアは、少しだけ考えた。そして、いつもよりわずかに低い声で答える。


「少なくとも、彼女を使い捨てるつもりはない」


 ステアは再び羽根ペンを手に取り、今度は迷いのない動きで新しい羊皮紙に走り書きを始めた。


「円卓からの正式な依頼は、後日文書で届くはずです」


「通せ」


「はい」


「合格を出されたのなら、もう『置物』としては扱えないな。マイロ、あいつは今どこにいる」


「王妃殿下から預かったと思われる、膨大な資料に埋もれております。資料室の隅で、驚くほど集中しておりましたが……先ほど、少しだけ手が止まったようです」


「なぜだ」


「……お腹が鳴ったから、だと思われます」


 ステアは一瞬絶句し、それから片手で顔を覆った。


「……大泣きして、挙句に国家規模の説教をぶちかましたんだ。燃料切れにもなるだろうよ」


 ステアは立ち上がり、上着の襟を整えた。


「マイロ、厨房に連絡しろ。経費……ではなく、僕の私費で、あいつが好きそうなものを適当に用意させろ。それと、資料室の冷え込みが厳しくなる時間だ。ブランケットも持っていけ」


「殿下自ら行かれるのですか?」


「……あいつが勝手に読み散らかした本の、解説が必要だろう。間違いだらけの知識で動かれては二度手間だからな」


 ぶっきらぼうに言い捨てて、ステアは執務室を出た。廊下を歩く彼の足取りは、いつになく速い。背後で見送るマイロは、主人の耳の先が微かに赤いことを見逃さなかった。


「……『不器用』の解説書も、どなたか執筆してくださると助かるのですがね」


 マイロの小さな独り言は、主人の背中に届く前に静かな廊下へ消えていった。


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