002 血濡れたデビュタント
か弱き乙女がピンチになると、必ず素敵な男性が助けに来てくれる。
そんな夢みたいなことは信じない。
(だって、人生は、解き明かすべき謎と、切り拓くべき新たな真実の連続ですもの)
コートニーは、理知的であろうとツンと背筋を伸ばし、思考の迷宮に潜り込む。けれど、ふとした瞬間、鏡の前でドレスの裾をふわりと揺らし、可憐なステップを踏んでしまう。
彼女は、論理と知識で世界をぶった斬るような生き方に憧れていながら、心のどこかでは、恋物語にあるような「運命の出会い」を期待して、そわそわと胸を躍らせてしまう。
そんなチグハグな気持ちが同居しているのは、彼女がまだ、今夜初めての舞踏会に胸を膨らませる、デビュタントを迎えたばかりの、十六歳だからだった。
◇✧◇✧◇✧◇
コートニー・ヒスコックは、この日のために用意した完璧な白いドレスが、まるで血に濡れたように、じわじわと赤く染まっていくのを眺めていた。
(この広がり方、粘度、そして、わずかに鼻を突く鉄分を含んだ香り……は、ないけれど。今後、「代用血液」として、家族から逃げる手段の一つに利用できるかもしれないわ)
コートニーは、他人事のように冷静な思考を巡らせる。
(……コーンシロップに、赤ビーツの煮汁。それから、わずかなカカオパウダーを混ぜれば、案外それらしく見えるかもしれないわね)
さっそく「逃走用・擬似出血レシピ」として、新たなデータを書き加えておかねば。
唇を結び、ドレスのポケットからメモ帳を取り出そうと、彼女が手を動かした、その瞬間。
「お姉様が、あまりに急に振り向くから」
鈴を転がすようでありながら、どこか粘りつく声が響いた。
コートニーは、ゆっくりと顔を上げる。すると、空になったグラスを手に、困ったように眉を下げた人物と目が合った。
ゆるく巻いた金髪を一つにまとめ、人形のように愛らしい雰囲気を醸し出しているのは、義理の妹リリアだ。
コートニーにワインをかけた彼女は、ここぞとばかりに「悲劇の舞台」を盛り上げようと、声を張り上げる。
「ごめんなさい。せっかく、お姉様が楽しみにしていたデビュタントなのに……台無しにしてしまって……」
しおらしくハンカチを口元に当てているが、その瞳の奥には、隠しきれない優越感が揺らめいている。
周囲の令嬢たちが、「あらあら」「お気の毒に」「ヒスコック家の期待の星が」と囁き、好奇の視線でコートニーを刺す。
(……やっぱり、身内からの刺客が一番厄介ね)
内心で肩を落としつつ、コートニーは、脳内の「家族対応シミュレーター」を渋々起動する。
(本当は、舞踏会の天井に使われている漆喰の材質や、あの巨大なシャンデリアを支える滑車の構造。それに、貴族たちの間で交わされる情報密度の偏差まで、じっくりと検分したかったけれど……)
溢れる好奇心を、知識の箱に無理やり詰め込み、コートニーは小さく息を吐く。
(ここでリリアを責めるのは三流のやり方よね)
この場合、周囲の好奇の視線を「憐れみ」に変え、ついでに、染み付いた「赤い汚れ」を利用して現場から脱出する――それしかない。
コートニーは、震える手でドレスのスカートを摘まみ、今にも泣き出しそうで、それでいて妹を庇おうとする健気な姉の表情を作り上げた。
「……いいのよ、リリア。あなたが無事なら。それに、不注意だったのは、私のほうですもの。少し、めまいがして……ぶつかってしまったみたいだから」
コートニーは、自分の体調不良のせいで事故が起きた、という体裁を取る。
「めまい……?お姉様、何を仰って……」
困惑するリリアの隙を突き、コートニーは彼女の耳元にだけ聞こえる速さで、楽しげに囁いた。
「素敵な演技ね、リリア。でも残念。『慎ましやかな姉』がショックで倒れたら、あなたは、ただの『病弱な姉を突き飛ばした残酷な妹』になっちゃうわね?」
「えっ」
リリアが目を見開いた瞬間、コートニーは、糸の切れた人形のように、ゆっくりと膝から崩れ落ちた。
もちろん、汚れたドレスが一番劇的に見える角度を、計算したうえで。
「誰か、お医者様を!」
「駄目よ、家族以外が触れてはいけませんわ!」
「早く、気付け薬を!」
会場が、一気に騒然となる。
コートニーは床に横たわりながら、密かに「完璧な気絶」を演じた。
あとは、自分を運び出す役者を待つだけだ。
「皆様、落ち着いて!娘は昔から身体が弱く、刺激に敏感なのですわ。……まぁ、コートニーったら、可哀想に」
目を閉じた耳に響く、甲高い声。
義理の母、ソフィアだ。
(……可愛いリリアを救うために、秒速で駆けつけてきたってわけね)
目を閉じたまま、心の中で冷ややかに笑う。
一見、娘を案じているように聞こえるその言葉の裏で、この場を「リリアの不手際」ではなく、「コートニーの虚弱体質」のせいに塗り替えようとする意図が、透けて見えた。
「まぁ、リリア。泣かないで頂戴。あなたは悪くないわ。お姉様の体調を気遣えなかった、私たちが悪いのよ。さあ、フレデリック。この子を早く別室へ……」
リリアを庇い、同時にコートニーを厄介払いしようと、義理の兄フレデリックを促す。
(なるほど。私を『病弱な姉』として処理し、社交界から永遠にフェードアウトさせるつもりね……ならば!)
次の一手――
「適当なタイミングで目を覚まし、さらに混乱を招く一言を放つ」
その準備を整えようとした、その時だった。
「ヒスコック夫人。その役目、私が引き受けよう」
低く、有無を言わせぬ威厳を湛えた声が、頭上から降ってきた。
騒がしかった周囲が、一瞬で水を打ったように静まり返る。
ハリのある、しっかりとした布の感触が、コートニーの身体を包み込む。
ベルガモットの爽やかさの中に、わずかに知的な薬品の匂いが混じった香りが鼻をくすぐり、次の瞬間、身体がふわりと宙に浮いた。
(えっ……?)
危うく目を開けそうになるのを、必死に堪える。
「で、殿下!?お召し物に汚れがついてしまいますわ!」
狼狽するソフィアの声。
(……嘘でしょ)
状況から察するに、自分を抱き上げたのは、「殿下」と呼ばれる人物らしい。
(問題は、どの殿下か、ってことだけど)
目を閉じたまま、肌に伝わる情報だけで、冷静に分析を始める。
(この抱き上げ方。力ませず、それでいて、重心を一点に預けさせない安定感……軍事訓練を受けた者のそれだわ。そして、この独特の香り。ベルガモットの清涼感の奥で、微かに主張するフェノール系の薬品臭。さらに、古びた羊皮紙の乾いた匂いもする)
間違いない。
(……今夜、私が最も警戒すべき標的。『法の猟犬』こと、ステア・ベネディクト・ハルシュタット殿下だわ)
意識を失ったふりを続けながら、内心で舌を巻く。
フェノール系の薬品臭が、これほど強く残っているということは、舞踏会の直前まで、石炭酸で消毒された「現場」か、「遺体安置所」にいたのかもしれない。
あるいは、証拠写真の現像作業に没頭していたのか……。
脳裏に浮かぶのは、新聞の見出しを連日騒がせている、切り裂き魔――ミッドナイト・テイラー。
犠牲者がすでに五人出ているにもかかわらず、ステア率いる警察は、決定的な手がかりを掴めず、捜査が停滞している。
警察だけでは解決できないと判断した地元住民有志が、自警団を結成し、夜間のパトロールや、私立探偵を雇う事態にまで発展している、あの事件。
(なるほど……見えたわ)
腕の硬さ、心拍の落ち着き、そして、周囲を圧倒する威圧感。
すべてが、コートニーの計算を上回る速度で、舞台を塗り替えていく。
(となると、次の一手は、「ただの病弱な令嬢」を演じ続けることではないわね)
腕の中で伝わってくる、ステアの鼓動は、驚くほど静かで、規則正しい。
(この殿下なら、私の『偽装気絶』に気づくのも時間の問題だわ。何しろ、死体を見慣れているんですもの。呼吸の深さ、眼球の動き、それに筋肉の弛緩具合……)
彼がまじまじとコートニーを観察した場合、彼女が「生きた獲物」として緊張を孕んでいることを、見抜かれるリスクは高い。
コートニーの脳内シミュレーターが、急速に答えを弾き出す。
このまま別室へ運ばれ、二人きりになった瞬間に、「お目覚めかな?」と皮肉を言われるのは御免だ。
(ならば、適切なタイミングで目を開け、自力でこの場を収めるしかないわ)
コートニーが、瞼の裏で「覚醒」のカウントダウンを開始した、まさにその時。
「殿下、いけません!そんな、返り血……じゃなかった、ブドウ酒で汚れた妹に触れるなんて!」
場にそぐわないほど明るく、妙に必死な声が割って入る。
(この声は……)
義理の兄、フレデリックだ。
「私が引き取ります」
「フレデリック、別に私は構わないが」
「いいえ、殿下!遠慮なさらないでください。妹の不始末は、兄の責任ですので」
言い切るや否や、フレデリックは、ステアの腕を割って入るように押し退け、コートニーの脇の下に、強引に手を差し込んできた。
(……ちょっと待ちなさいよ、この天然バカ男!!)
閉じた瞳の裏で、猛烈に罵倒するコートニー。
(せっかく、あの王子様の懐に潜り込んで、事件の情報を探るチャンスだったのに! なんで、よりによって、この一番空気の読めない男が、しゃしゃり出てくるのよ!)
フレデリックの抱き方は、ステアの洗練されたエスコートとは程遠い。
まるで、獲ったばかりの獲物か、重たいシーツを運ぶような無骨さだ。
脇は痛いし、ドレスの裾は、変な方向にめくれている。
(ああ、もう!ここで私を運んだら、ただの『病弱でドジな令嬢』として、実家に強制送還されるだけじゃない!空気を読みなさいよ!)
「さあ、殿下。道を開けてください。僕が、最短距離で妹を馬車まで運びますので」
善意の塊のような笑顔で、鼻息荒く抱え直され、その拍子に、肘が脇腹へ食い込む。
(ぐふっ……!し、死ぬ……。今すぐ、三代先まで呪ってやるわ!!)
怒りで跳ね上がる心拍を、必死に抑えながら、コートニーは、薄く目を開ける。
「……分かった。フレデリック、彼女を頼む」
ベルガモットの香りが遠ざかり、代わりに、張り切ってつけていたであろう、シダーのむせ返る匂いが鼻を突く。
「さあ、道を開けて!急病人を運びます!」
使命感に満ちた声とともに、野次馬たちが左右に割れる。
コートニーは、「意識のない哀れな令嬢」として、義兄の腕の中で、ぐわんぐわんと揺さぶられながら、広間を横断する。
(……人生は、自分で切り開くものだけど、まさか、こんな『物理的な力技』で、舞台から強制退場させられるなんて)
重厚な扉が閉まる直前、まつ毛の隙間から、一瞬だけ振り返る。
そこには、汚れた上着を腕にかけ、怜悧な輝きを宿しながら、どこか愉快そうに、こちらを見送るステアの瞳があった。
(……ステア殿下。あなたいま、絶対に笑ったわね?貸し一つなんだから、後でたっぷり利息をつけて、返してもらうわよ)
「コートニー、大丈夫だよ。すぐに馬車へ運んであげるから」
(もう、最悪)
義兄の無邪気な励ましに、心の底で毒づきながら、コートニーは、今夜の第二ラウンド――すなわち、実家での厳しい追及を、どう切り抜けるかのシミュレーションを、静かに開始した。




