018 目に優しく、心に辛い職場で
ステアの元で正式に働き始めて、四日目。コートニーは、真剣に辞表を出すかどうか悩みながら、ステアの執務室に出勤していた。
「おはようございます」
コートニーは素早く、上司である彼に頭を下げる。
「早いね。ちょっといいかな?」
ステアに呼び止められ、胸が高鳴った。
本日に限り、なぜか彼はコートニーを机の前へと呼んだのだ。
(ついに……ついに新しい仕事の予感!)
期待を隠せず明るい表情で、重厚なマホガニー材で設えられた立派な机を挟んで、主と向き合う。
「どう? 慣れた?」
「本に関しては、掃除のプロになれそうですわ」
「それは何よりだ」
ステアの言葉に、曖昧な笑みを返す。
(別に掃除のプロを目指しているわけじゃないんだけど……でも、この流れは!)
「新たな任務を君に与えようと思う」
コートニーは「待ってました!」と心の中で叫ぶ。
彼は自分を忘れていたわけではなかったのだ。
(あの三日間の掃除は、きっと私を試すための研修期間だったに違いないわ)
ようやく認められたのだという喜びに満たされ、彼女は満面の笑みをステアに向けた。
「実は、母上が開催するご婦人方のお茶会が明日あるんだけど、私の代わりに出てくれないかな?」
「え、母上って……」
「エロイーズ王妃殿下のことだけど」
その名を聞いた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
全国民の頂点が国王陛下ならば、貴族女性の絶対的頂点はエロイーズ王妃殿下だ。
(そんな方と……しかも『ご婦人方』とのお茶会なんて、卒なくこなせる気が一ミリもしないんですけど……)
「ち、ちょっとそれはどうでしょう? いきなりハードルを上げすぎというか、難易度が高すぎると言いますか……そもそも私は、あの『ワイン事件』以降、行方不明になっているはずですし」
背中に嫌な汗を感じながら、全力で「穏便にお断りしたい」という空気を醸し出す。
「なるほど。君は参加したくないと」
「正しくは、恐れ多くて参加できないのです」
不敬に問われぬよう、しっかりと訂正を入れる。
しかし、ステアは動じなかった。
「コートニー。君の主は誰?」
「恐れ多くも、クラスコー王国第二王子殿下――麗しのステア様ですわ」
「ふむ。だったら、よろしく頼むよ」
「無理です」
即答し、コートニーは主人の装いに視線を移す。
今日のステアは、黒いスラックスに白いシャツという、王城内の執務スタイルだ。王子だからといって、常に首元にヒラヒラとしたクラヴァットを巻いているわけではないらしい。
マイロの情報によれば、あれは夜会専用品だという。
(興味がなかったから気にしてなかったけど、そういえばフレデリックも、毎日ヒラヒラさせてはいなかったわね……)
そんな現実逃避も虚しく、ステアは追い討ちをかけてきた。
「じゃあ、実家に帰れば?」
「それも嫌です」
「ふむ」
ステアが執務机に肘をつき、組んだ手の上に顎を乗せて彼女を見上げた。
白いシャツの襟元をくつろげているせいで、チラリと覗く鎖骨から、抗いがたい色気が漏れ出している。
(……控えめに言って、この瞬間だけは職場環境、最高だわ。でも、この色気を発している人間の性格は、最悪に近いのよね。目に優しく、心に辛い職場だわ……本当に)
コートニーは、美貌の主の視線に晒されながら、自らの運命の過酷さに遠い目になる。
「君を雇う資金は、私のポケットマネーから出ているんだよね」
その視線が、値踏みするように一瞬だけ彼女をなぞった。
コートニーは素直に頭を下げる。
「……ありがとうございます」
そこに関しては、純然たる事実であり、感謝すべきことだと理解していたからだ。
「そして、私のポリシーは少数精鋭。つまり、使えない者はいらないということだ」
「うっ……」
ステアから射貫くような冷たい視線を送られ、思わず机の上の書類に目線を逃がした。
そこには『重要機密事項』という文字に続き、『エリザ・ライト検死報告書』という、血の気の引くような恐ろしい題名が記されている。
「正直、私は君を持て余している。なぜだかわかるかい?」
「……私が、女だからです」
それはここ数日、痛いほど肌で感じていたことだった。
ステアに悪意はないのだろう。けれど彼は、コートニーを良くも悪くも「女性」として認識し、一般的に女性の仕事とされる範疇の業務しか与えるつもりがないのだ。
(でも、殿下が今一番力を入れているのは、あの切り裂き魔の事件……。そこに携われない私は、結局お荷物だって言いたいんだわ)
状況を整理して、悲しい気持ちになった。
「見ての通り、この国の治安を守るのが私の仕事だ。だから僕が抱える案件は、君のような、か弱い淑女が扱えるようなものではないんだよ」
ステアは彼女の顔に浮かぶ複雑な色を読み取ったのか、「もちろん、それはどうしようもないことだし、責めているわけではないからね?」と優しい口調で付け加えた。
その気遣いが、逆にコートニーの胸に突き刺さる。
(……私、今にも泣き出しそうな顔をしてるのかな。だめよ、ここで泣いたら余計に『女は面倒だ』と思われてしまうから)
彼女は目をしばたたかせ、込み上げる悔しさから必死に意識を逸らす。
「だから、適材適所だ。母のお茶会は確かに一筋縄ではいかないご婦人方の集まりだよ。けれど私が言うのもおこがましいが、彼女たちは自分たちができる範囲で、この国の未来をきちんと考えている人たちなんだ」
「未来を……」
「そう。だから君にとっても有意義な時間になるはずだ。それに、女性の率直な意見も聞きたいと私は思っている。……ただ、正直、ご婦人方のお相手は遠慮したい気分なんだ。特にシーズン中はね」
ステアは疲労感たっぷりに、ぎこちない笑みを浮かべた。
その表情だけで、彼が舞踏会や夜会でどれほど令嬢や貴婦人たちに囲まれ、精根尽き果てているかが容易に想像できた。
(気は乗らないけれど、せっかく私に振ってくれた仕事だもんね。実家に戻るよりはマシだし、ここは引き受けるしかなさそうかも)
コートニーは覚悟を決めると、グッと拳を握った。
「わかりました。乗りかけた船ですもの。沈没しないよう、精一杯頑張ります!」
「ありがとう。助かるよ。じゃあ、今日はもう掃除は終わりにしていい。このあと衣装室に話を通してあるから、ドレスの寸法合わせをしておいて」
「えっ、ドレスですか?」
さらりと告げられた言葉に、目を丸くした。
「お茶会だからね。流石にその格好で行くわけにはいかないだろう?」
「……そうですけど。あ、でもドレス代はちゃんとお支払いします」
確かにステアの言う通り、今後、公の場に出る際にドレスが一着もないのは業務に支障をきたす可能性が高い。
コートニーは「新しいドレスを購入するいい機会だ」と前向きに思い直す。
「経費で落とすから気にしないで。じゃ、これで話は終わりだ」
「あ、ありがとうございます……」
「頑張って。期待しているよ」
ステアは微笑むと、すぐに手元の書類へと視線を戻してしまった。
仕事に没頭する姿を見送りながら、コートニーは小さく呟く。
「……期待、ですか」
「コートニー嬢、ニヤついていますよ?」
ステアに書類を差し出していた側近のマイロが、からかうように声をかけてきた。
「ふふ、嬉しい時にはニヤつくものですから」
隠すこともせず堂々と宣言して、弾むような足取りで執務室を後にする。
期待される喜びが、萎みかけた彼女の心に小さな灯をともしていたのだった。




