017 王子の侍女は、本棚を磨く
コートニーの壮大なる「プロジェクト・フィデリア」計画は、呆気なく権力者に捕獲される結果となった。
しかし、失敗したわけではない。
数時間に渡るステアとの攻防の末、彼女は「家に帰らない」という最大なる目標は達成したのだから。
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コートニーがステア付きの侍女として採用されてから、三週間が経過した。
この期間、彼女は人生で最も頭をフル回転させる日々を送ることとなった。王城に勤める者全員に課せられる「新人研修プログラム」への参加を、強制的に命じられたからである。
王城に勤める者全員に課せられる新人研修は、作法から禁忌まで網羅する地獄のカリキュラムだった。
特にステア直属となる彼女には、連日の居残りが待っていた。
何より彼女を突き動かしたのは、教官から告げられた一言だ。
「最終日のテストをクリアしない限り、殿下の元では働けません」
実家に送り返されることだけは、何としても避けなければならない。コートニーは悲壮な決意を胸に、いわば「ステア殿下マニア」になる勢いで猛勉強に励んだ。
講習で示された規律の一部は、次のようなものである。
・王室メンバーに自ら触れてはならない。
・王室メンバーへ先に挨拶の言葉をかけてはならない。
・王室メンバーには背を向けてはならない。
こうした淑女教育の延長線上にある一般常識は、彼女にとって「楽勝」といえるものだった。
問題は、その先に続く「ステア殿下専用マニュアル」である。
食中毒の懸念があるため、甲殻類の提供は控えること。
ステア殿下の食事からは、必ずピーマンを抜くこと。
紅茶は一杯につき小さじ二杯。
アールグレイに限り、温度まで指定されている。
居住空間に持ち込む花は、香りが強く、あるいは花粉を多く飛ばす品種を厳禁とする。
(……ピーマン嫌いの花粉症だなんて)
殿下の知られざる繊細(?)な一面を垣間見ながら、コートニーは充実した、あるいは困惑に満ちた時間を過ごした。
(そもそも「ピーマン嫌い」という極秘情報を明かしておいて、今さら不採用にする選択肢があるのかしら?)
途中でそんな矛盾に気づいたものの、茶々を入れて不採用になることを恐れ口を噤んだ。
結果として、コートニーは見事、合格を勝ち取った。
こうして彼女は、正式にステアに仕える身となったのである。
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「よし、頑張る!」
正式な採用が決まったコートニーは、意気揚々と生まれて初めての労働に喜び勇み、ステアの元を訪れた。しかし、世の中は甘くないという現実を、彼女は早々に思い知らされることとなる。
「君はそうだな、とりあえず本棚。うん、本棚の掃除がいいな」
ステアから手渡されたのは、ダチョウの羽がついたフワフワの羽箒だった。
「じゃ、よろしく。あ、マイロ。例の件はどうなった?」
ステアはコートニーに本棚の掃除を押し付けると、あっさりと背を向けて仕事に戻ってしまった。
(……まあ、仕事だし。そうよね、仕事を与えられたことに喜ぶべきであって、文句を言っている場合じゃないわ)
自分に言い聞かせ、彼女はその日一日、執務室にある本の埃を丁寧に払う作業に没頭した。
もちろん「王室メンバーには背を向けてはならない」という鉄の掟を厳守しつつ、である。
本棚に向かって作業をしながらも、体の角度を不自然にねじり、常に視界の端でステアを捉え続けなければならない。これは掃除というより、もはや高度な体幹トレーニングだった。
だが、同じことを繰り返す日々が三日ほど続いた頃、コートニーは何となく自分の置かれた状況に気づき始める。
(えーと……私の存在、完全に忘れられてるよね?)
ステアは国王直轄で切り裂き魔事件の指揮を執っており、議会や夜会の合間を縫って捜査に当たっているらしい。
現に執務室には、数ヶ月前から現在に至るまでの事件の概要を整理した書類がうず高く積まれていた。
その中には衝撃的な遺体の写真も含まれており、「君には刺激が強すぎるだろうから」と、コートニーはそれら重要書類の閲覧を一切禁じられている。
実働部隊は警察官だが、ステアは上がってきた報告書から情報を導き出し、捜査方針を決める司令塔だ。
(でも、マイロ様いわく、殿下はフットワークが軽すぎる困った性質なんですってね……)
夜会の帰り道に怪しそうな男を見かけると、自ら職務質問をすることすらあるという。コートニーが捕縛されたあの日も、まさにそんな状況だったのだ。
マイロから聞いた話によれば、あの日もステアは夜会を抜けて現場に出ていたらしい。
(まさか王子自ら現場に赴くなんて驚きだけど、殿下にとっては『よくあること』らしいし……)
フットワークの軽い上司を持つ部下たちは、揃って目の下にクマを作り、日夜事件解決に奔走している。
そんな中、ダチョウの羽がついた羽箒を持つコートニーだけが、蚊帳の外に放置されていた。
(もはや、男性しかいない職場の隅に置かれた、廃棄間近の掃除婦じゃない?)
「切ない……」
ダチョウの羽箒を片手に、彼女は小さくため息をついた。
必要最低限の服しか持っていなかった彼女に、ステアが「とりあえずこれを着ておいて」とぞんざいに渡したのは、レースの襟がついたシックな紺色のワンピース。メイド服に近いデザインだ。
(別にこの服に不満があるわけじゃないのよ。でも、私が殿下に捨て置かれた侍女だってことが悲しいのよねぇ)
本の掃除が嫌なわけではない。だが、王城には専任の掃除係が別にいる。
何も彼女が、この執務室の本棚に収まった本を三日もかけて磨き上げる必要はないはずだ。
(けれど、家出の時くらいしか外を歩いたことがない私に、殺人事件の捜査ができるわけないし……)
「掃除、終わりそうだな……」
配属三日目にして、コートニーはすでに死んだ魚のような目になりかけていたのである。




