015 帰る場所のない選択
豪華な執務机の下。そこには、およそ貴族令嬢とは思えぬ姿で、机の脚をがっしりとホールドするコートニーの姿があった。
見下ろすステアの視線は冷ややかだが、彼女の決意は岩のように固い。
「フィデリア国に行けないことは、理解したんだよね?」
「はい」
「だったら、君は大人しく実家に戻るしかないことも理解できるよね?」
「私は一般市民になりたいのです」
即答に、ステアは眉間に皺を寄せた。
「……は? 貴族籍から抜けたいということ?」
「はい。市井で暮らします」
「……無理じゃないかな」
「やってみなければ、わかりません」
凛とした声で宣言するコートニーだったが、その手は相変わらず机の脚を離さない。
(帰る場所なんて、もうどこにもない。実家に戻れば、また都合のいい道具として扱われるだけ。それならいっそ、泥をすすってでも一人で生きていく方がマシだわ!)
コートニーの頑固さに、ステアは溜息をつき、呆れたような笑みを浮かべた。
「君、頑固だって言われない?」
「フレデリックには、『気の強さが顔に出ている残念な人間』だと言われました」
「なるほど。そうか、フレデリックがいたか」
明るい声を出すステア。その瞬間、コートニーの目が鋭く光る。
「厄介者が増えるだけなので、絶対にここに呼ばないでください」
(あんな役立たず、ここに来たところで混乱に拍車をかけるだけよ。殿下だけでも手一杯なのに、これ以上面倒事を増やされてたまるものですか!)
「あいつ、君に嫌われてるんだ」
「わりと嫌いです。というか殿下は、フレデリックのことをご存知なんですか?」
「まあね。同い年だし。貴族社会なんて意外と狭い世界だから。それに、彼はホワイトホースのメンバーだし」
「なるほど。ということは、殿下は二十歳なんですね?」
「そうだけど、何か?」
「いえ、別に」
(へえ、フレデリックと同じ年……。あんなチャラチャラした男と同い年だなんて、少し意外。殿下の方がずっと落ち着いて見えるけれど……まあ、どっちも厄介なことには変わりないわね)
一瞬、親近感が湧いたが、すぐに思考を切り替える。
(今は年齢を査定している場合じゃないわ。この「帰れ」という包囲網を、どう突破するかが最優先事項だし)
コートニーはステアの様子を盗み見る。
精神的に追い詰められてきたのは、どうやらステアの方らしい。
彼はついに床に座り込み、背後で控える側近に助けを求めた。
「マイロ、僕はもう帰りたい。いいかな、帰って」
「殿下の持ち込み案件です。解決してください」
マイロは姿勢一つ崩さず、冷徹に主君を突き放す。
「えー、無理じゃないかな? この娘は僕の手に負えないよ」
「ですが、拾ったのは殿下です」
「人助けのつもりだったんだけどなあ……」
ステアはポリポリと頭を掻いた。さすがに疲れてきたのか、公的な場で使っていた「私」から、「僕」に変わっている。
(素が出てる。殿下も限界?でもここで手を緩めたら、私の負け。この机は、私の最後の砦なんだから!)
部屋を漂う気怠い雰囲気の中、コートニーはしっかりと机の脚に張り付く。
「とりあえずどうしよう。ヒスコック卿に連絡だけは入れておくべきだよなあ」
「帰りません。だから連絡なんて、しないでください」
コートニーは、机の脚を握る手に、さらに力を込めた。
(今度こそ、逃げ場のない部屋に閉じ込められて、どこかの誰かと無理やり結婚させられる……それだけは、絶対に嫌!)
ここで踏ん張らなければ、地獄が待っているとコートニーは唇を噛む。
「わかりたくないけど、君の気持ちはもう十分理解したから」
「だったら連絡をせず、今すぐ私を市井に放り出してください」
「それは出来ないよ」
「どうしてですか?」
床に座り込むステアを、コートニーは下から射抜くように見据えた。
「マイロの言う通り、君を拾ったのは僕だ。それに君が言っただろう? 国民の幸せの権利を守るのは、僕の義務だって」
「だったら、即座に私を解放すべきです」
(私の幸せは、自由になることよ。それを邪魔するのが王族の義務だなんて……矛盾しているわ)
反論しようとする彼女に、ステアは呆れたように首を振った。
「もし今君を市井に放り出したとして。君は、その後どうするつもりなんだ?」
「まずは、住まいを探します」
「具体的に、どうやって?」
「それは……」
言葉に詰まる。
(お父様が手配しない場所に泊まる方法なんて、わからないわ)
黙り込んだコートニーに対し、ステアは、家庭教師のように丁寧に説明し始めた。
王都の住宅事情。
身元の不確かな人間が住める場所の現実。
そして、彼女が行き着くであろう「イースト地区」の惨状を。
(明日の命すら保証されない場所……)
想像しただけで、血の気が引く。
「僕が、君のような女性を野放しに出来ない理由。わかってくれた?」
「……はい。私を、見殺しに出来ないってことですね」
「その通り。本当は、イースト地区に住まう人々全てを救いたい。でも今の僕には、それが出来ない。だけど――目の前にいる君のことは救える」
真摯な眼差しで見つめられ、コートニーは射抜かれたように動けなくなった。
ステアの言葉は重い責任を伴う「宣告」のようだった。彼は無知ゆえに身を滅ぼそうとする目の前の命を、見過ごすことができないだけなのだ。
(殿下……ごめんなさい。腹黒王子だなんて、陰口を叩いて)
一瞬、尊敬と感謝が胸を掠める。
(それでも、話は別よ)
コートニーは、自分自身の置かれた絶望的な状況を再定義した。
「私は死にたくはありません。でも実家に戻ることは、ある意味、死ぬも同然なんです」
瞳に、再び強い光が宿る。
外で物理的に殺されるか。
屋敷で精神的に殺されるか。
(その選択しかないなら私は、最後まで抗う)
コートニーは顔をあげて、ステアの瞳をしっかりと見据える。
「殿下のお言葉、論理的かつ人道的な観点からすれば、一分の隙もございませんわ。無知な令嬢がイーストエンドの泥濘に沈む確率は、統計を取るまでもなく百パーセントに近い。……ですが」
彼女は机の脚を握る指先に、さらに力を込めた。
「生存確率がゼロでない限り、それは『不可能』と同義ではありません。殿下の仰る『救済』は、私にとっては形を変えた『監禁』に過ぎないのです。……たとえ明日、行き倒れて検死台に上がることになったとしても、私は自分の意志で一歩を踏み出したという事実を抱いて死にたいのです」
その瞳には、研ぎ澄まされた刃のような鋭さが宿っていた。単なる我儘ではない。それは、自分の人生を自分以外の誰にも、たとえそれが慈悲深い王族であっても、思考の自由だけは誰にも渡さないという意地だった。
ステアは、床に座り込んだまま、まるで未知の新種の生物でも見るかのような眼差しで彼女を仰ぎ見た。
「……死にたいだと? 僕を相手に、これほどまでの非論理的な暴論を吐く女性は初めてだよ。君の脳内には、生存本能という回路が存在しないのか?」
「生存すること自体が目的ではありません。自律的に存在することこそが、知性ある人間の目的です!」
「…………」
ステアは深い溜息をつくと、隣で彫像のように立つマイロを見上げた。
「マイロ……聞いたかい。救いの手を『監禁』だと断じられた。僕の自尊心は、今、王都の霧よりも深く傷ついたよ」
「左様でございますか。では殿下、解決策は一つしかございません」
マイロは無表情に、手帳に何かを書き込みながら告げた。
「彼女を『一般市民』としてではなく、殿下の『管理下にある専門職』として登録すれば、身元保証と自由を同時に提供できます。……ちょうど、侍女が不足しておりましたし」
(専門職……?侍女?)
コートニーの耳が、ぴくりと跳ねた。机の脚を握る力が、ほんのわずかに緩む。
「……その『侍女』というのは、具体的にどのような事象を対象とするのか、参考までに伺ってもよろしいかしら?」
コートニーは、獲物を狙う鷹のようにマイロを見据えた。




