012 帰れない理由
メルク海域で海賊同士の争いが起きている。そのせいで、クラスコー王国からフィデリア国へ向かう船は欠航中。さらに、ステアはコートニーを平然と実家へ戻そうとしている。
(論理的に言いくるめるのが無理なら、次は物理、そして生理に訴えかけるまで!!)
「嫌です。無理です、帰りません」
コートニーは、物理的に机の脚にしがみついた。
「マイロ、困ったねぇ。どうしよっか」
「殿下、全然困ってないですよね」
「いや、困ってるよ。私だってヒスコック伯爵家を敵には回したくはないからね」
「嘘です。殿下のその口角、わずかに十五度上がっていますわ。それは『面白そうな玩具を見つけた』時の角度です!」
コートニーは机の脚に頬を擦り付けながら、必死の形相で叫んだ。
今さら屋敷には戻りたくない。
(というか、いまさら戻れないが正解だけど)
戻ったところで「醜態を晒した」とソフィアに散々文句を言われ、明日にでも望まない結婚をさせられる可能性だってある。
(それを阻止するためとあらば、私は姑息でわがままな女になってやる)
半ば自暴自棄になったコートニーは、キッとステアを睨む。
「国民の幸せの権利を守るのだって、王子殿下に課せられた立派な使命なはずです」
「いうねぇ」
「それに、私を悪魔の巣窟に返すというのであれば、新聞社にリークします」
「悪魔の巣窟って……。で、私の何をリークするのさ」
コートニーはステアの真似をして、ニヤリと口元を歪ませた。
その表情を目にしたステアは同じような笑みを返してきた。
「マイロ、確かヒスコック伯爵家のコートニー嬢って、今年デビューした令嬢の中で、一際美しく慎ましやかな女性だって噂だったよね?」
「はい、そのように噂されているかと」
「だとすると、この娘はやっぱりコートニー嬢じゃないのかな?」
「いえ。出回っている姿絵から察するに、黄金色の美しい髪に、グリーンの透き通る瞳。確実にコートニー嬢だと思います。殿下も『意外とタイプかも』とノリノリだったじゃないですか」
「ふむ。確かにそんな記憶はなきにしもあらず。でも姿絵って、三割増しで良く見えるように描くものだし」
包み隠さぬ男性トークを耳にしたコートニーは、机の脚を抱きしめたまま凍りついた。
この国の社交界では、デビュタントを控えた令嬢の姿絵が、一種のカードのように有力者の間で出回ることは知っている。だが、自分のそれが「三割増し」だの「殿下のタイプ」だのと査定されている現場に居合わせるのは、さすがに計算外だ。
「あ、照れてるみたいだ」
ステアは机の脚にしがみつくコートニーの前に膝を折り、しゃがみ込む。
「顔が赤いけど、なんでかな?」
笑顔でからかうように言い放つ。
「殿下、性格の悪さが漏れ出しています」
マイロの冷静な突っ込みもどこ吹く風で、ステアは楽しげに目を細め、机の脚にしがみついたまま真っ赤になっているコートニーを覗き込んだ。
「照れているのではありませんわ! 殿下の非論理的な査定、そして私の肖像画に対する絵師の百二十パーセントの努力を、『三割増し』などという安直な言葉で片付けられたことへの憤りです!」
コートニーは、早口で顔に滲む熱を論理という名の盾で必死に防ぎ止める。
「そもそも、姿絵というのは光の屈折率と色彩心理学を駆使して、本人のポテンシャルを最大値で定着させる科学的成果物であって――」
「……マイロ。やっぱりこの子、放っておくと延々と喋るな。壊れた人形のようだ」
ステアは呆れたように肩をすくめると、ふっと表情から悪戯っぽさを消し、至近距離でコートニーの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「まあ、いい。君がそこまでして実家に帰りたくない理由は、なんとなく察したよ。望まない結婚、あるいは『知的好奇心』の去勢……といったところか?」
図星を突かれ、コートニーの言葉が詰まる。
「……だったら、どうだというのです。殿下には関係のないことですわ」
「そう。私には全く関係がない。だから君を実家に返そうとしている」
ステアは冷徹な現実を突きつけるように言葉を継いだ。
「君が何を考え、何を望もうが、私の知ったことではない。君はヒスコック家の令嬢であり、いずれは誰かの妻となり、家庭を整え、夫を支える。それがこの国の、そして貴族社会の正しい秩序だ。女性は家庭という神殿を守る『天使』であるべきだ、とね」
その言葉は、コートニーがこれまで受けてきた「淑女教育」という名の呪縛そのものだった。
ステアの紫の瞳には、彼女の知性に対する敬意など微塵も感じられない。
「君のその『ポテンシャル』とやらは、居間の壁に飾る姿絵の中だけに閉じ込めておけばいいんだよ。……マイロ、馬車の用意を」
「すでに手配をしております」
コートニーは、机の脚を握る指先に力を込めた。
怒りと絶望が混ざり合い、視界が熱くなる。
(天使? 秩序? ……ふざけないで。私の脳は、そんな狭い箱に収まるようには設計されてないし)
「……新聞社にリークしてやる」
目の前にいるステアを、キリリと睨みつける。
姿絵と本人にギャップがありすぎるのは、彼の方だ。
(こんなに捻くれた性格の人間に王子業務を任せて大丈夫なの?)
コートニーは、国民を代表して国の未来に不安を抱く。
「私の何をリークするのさ」
「殿下が、その完璧な美貌と地位の裏側で、迷える子羊のような無力な令嬢を冷酷に追い詰め、あまつさえその『知性』を国家のゴミ捨て場に葬ろうとしている、非人道的なサディストであると、ぶちまけてやりますわ!」
コートニーは机の脚からガバッと立ち上がり、煤だらけの指をステアの鼻先に突きつけた。
「それに殿下は駅の待合室で、『これだから女は嫌なんだ』と全世界の女性に対し暴言を吐きましたし、元伯爵家の娘である私に対しても、『君は馬鹿か?』と暴言を重ねました。これはクラスコー王国の品位に関わる重大な問題です」
一拍おいて、さらに畳み掛ける。
「姿絵の殿下は、もっと慈悲深く、太陽のようにすべてを包み込む微笑を湛えていらっしゃいました。けれど現実はどうです?光の反射率すら凍りつかせるような冷徹な瞳に、三日月の如く歪んだ邪悪な口角。これは立派な詐欺、公共の利益に反する虚偽広告です」
「……マイロ。こいつ、今の罵詈雑言の中に自分の知性を宣伝する言葉を混ぜたぞ。なかなかのしたたかさだ」
ステアは突きつけられた指をひょいと避け、面白そうに目を細めた。
「いいだろう。リークでも何でもすればいい。だがその前に、君は『家出に失敗して警察に保護され、精神の錯乱をきたした哀れな令嬢』として、歴史に名を刻むことになる。……それでもいいのか?」
「……っ」
コートニーは言葉に詰まった。論理で勝てない相手に、感情(と屁理屈)で挑むのは、やはり効率が悪い。
「あのさ、もしかして君は、根に持つタイプ?」
「そういう問題ではありませんし、馬鹿とか、あんな風に言われたら、わりと傷つきます」
「そっか。それはすまなかった」
ステアは、おもむろに頭を下げた。
「や、やめてください」
「本当に悪いと思っているんだ」
下を向いたままの、覇気のない声。
その「素直な謝罪」に、コートニーは毒気を抜かれ、突き上げた指を力なく下ろした。
冷酷なサディストかと思えば、急に王族としての器の大きさを見せてくる。その計算不可能な振る舞いが、コートニーを混乱させる。
(思いのほか、傷つけてしまったのかな……)
胸が、チクリと痛んだ。
「私も、言い過ぎました。殿下の口角が邪悪だなんて、その……三日月のようにシャープで、ある種の幾何学的な美しさがあると言いたかっただけで……」
おずおずとフォローを入れた、その時だった。
「……ふっ、くくく」
項垂れていたはずのステアの肩が、微かに、しかし小刻みに震え始めた。
「……殿下?」
「ははは! いや、驚いたな。まさか君のような『屁理屈を体現する令嬢』が、こうも簡単に同情に流されるとは」
マイロに視線を投げる。
「見たか? 彼女は今、ただの『お人好しな令嬢』の顔をしていたぞ」
ガバッと顔を上げたステアの瞳には、覇気がないどころか、勝ち誇るような光が爛々と宿っていた。
「……え」
「謝罪は本心だが、落ち込んだフリをしたのは三割ほど嘘だ。君の観察眼が、感情の揺らぎにどれほど影響されるか、試させてもらった」
「……はめました!?殿下、やはり根性が腐りきっていらっしゃいます!!」
コートニーは煤だらけの拳を握りしめ、顔を真っ赤にして地団駄を踏む。
「私の純粋な謝罪を返してください!ああ、もう! 殿下の口角は三日月どころか、獲物を狙うハサミムシの顎です!幾何学的どころか、歪んだ非ユークリッド空間です!」
淑女教育で習得した慎ましやかさを、完全に放り投げた。
机の脚に足まで絡ませ、再度しがみつく。
もはや机の脚が恋人なのではないかと錯覚しかける勢いで。




