011 机上の空論が砕けた夜2
「に、逃がすなって……。私は何か罪を犯したんですか?」
「罪なら山積みだろう?夜間の徘徊、身分の偽装、何より警察が主導する重大犯罪捜査の妨害だ」
ステアは椅子に深く背を預け、長い脚を組んだ。その紫色の瞳には、逃げ道をすべて塞ぐような、冷徹で知的な光が宿っている。
「コートニー様には、伝染病法が適用されているウォータール駅の待合室において、売春目的で滞在していた疑いがかけられております。それに加え、もし売春なさるおつもりだった場合、二十五歳未満の女性に対する夜間労働禁止法にも違反します」
マイロが追い打ちをかけるように、書類を手に淡々と告げる。
コートニーは愕然としてマイロを見上げた。ただの屈強な護衛だと思っていたが、法典を暗唱するとは、この主にしてこの従者ありだ。
「それは曲解です。 私はただ座っていただけで、一度も『客引き』など……」
「だが、先ほどの『たんぱく質』のやり取りを法廷で読み上げたらどうなるかな?」
ステアが、勝ち誇ったように口角を上げる。
「植物性だの動物性だの……。陪審員たちは間違いなく、それを隠語だと判断するだろう。ヒスコック伯爵家の令嬢が、深夜の駅で男たちと精力のつく栄養素について議論していたとなれば、新聞の格好の餌食だろうな」
「なっ……! あれは純粋な生物学的、化学的な議論をしようとしてただけで……!」
「世間はそれを『純粋』とは呼ばないんだよ。コートニー嬢」
ステアは冷え切った紅茶に口をつけ、残酷な現実を突きつける。
「私が知りたいのはただ一つ。ヒスコック伯爵家の令嬢が、フィデリア国行きの切符を所持し、なぜ、あんな場所にいたか、だ」
「それは……」
「理由を言え。言わなければ、今すぐヒスコック卿に連絡し、君を厳格な規律で知られるセント・アグネス修道院へ強制入会させるよう進言する」
「……っ!」
修道院。そこは、最新の科学雑誌も、異国の地図も、ましてや分解するための機械時計も一切禁じられた「無知」の聖域だ。コートニーにとって、それは死よりも恐ろしい拷問に等しい。
「……言えば、いいんでしょう。言えば」
コートニーは恨みがましくステアを睨みつけ、絞り出すように本音を漏らした。
「家出、です」
「家出だと?」
「ええ、そうです。正真正銘の家出です」
眉間に皺を寄せたステアに、コートニーはしっかりと顔を向けた。
「私の母はフィデリア国出身です。ですから祖父母の元に行こうと思いました」
「まさかあのワイン事件がキッカケなのか?」
彼が口にした「ワイン事件」とは、リリアの手によりコートニーが血濡れたデビュタントになった、忌々しい舞踏会のことだ。
(確かあの時、リリアが豹変したのは……)
舞踏会の出来事を振り返り、ハツとする。
「そうだわ。あの時殿下が私に興味を持たなければ、リリアは私にワインをかけたりしなかったはず。つまり悪いのは、殿下ってこと?」
ひっそりと呟いた声が、冷たい部屋に落とされる。
「私のせいにするな。こっちだって好きで君に声をかけたわけじゃない。二重丸な上に、母に挨拶をしておけと言われ、仕方なく声をかけたんだ」
コートニーのつぶやきを拾い上げたステアが、ぶすっとした顔で反論してきた。
「二重丸ってなんですか?」
「それはいい。そもそも私の気を惹くために愛想よくしていたのは、君の方じゃないか。私はそれに応えてあげただけだ」
「ええ。愛想よくしていましたとも。だって王子殿下ですもの。流石に睨みつけるわけにはいかないですし」
コートニーは、ステアからプイと顔をそらす。
「だけど、私が家出をした原因は、ワインをかけられたなんて些細な事じゃない。私はあの人たちといても幸せになれないから家出したんです。それに」
いい機会だからと、ステアに対し、コートニーは腹の底に溜まっていた熱い思いを一気にぶちまけることにした。
「あの舞踏会で私が何を悟ったかご存知ですか? 周りの令嬢たちが扇子の動かし方一つで殿下の視線を奪い合っている横で、私はシャンデリアの滑車の構造と、床のワックスの摩擦係数を計算していたんです。……わかりますか? 私の脳は、この国の窮屈な社交界というフラスコの中では、溢れ出して破裂寸前なんです!」
煤けた顔のまま、コートニーの瞳は宝石のような鋭い光を放つ。
「私が欲しいのは、誰かの寵愛や爵位ではありません。私は、この目で真理を、世界の最先端を確かめたい。母の故郷フィデリアには、女性でも大学に通い、蒸気機関の熱力学を論じる自由があると聞きました。……それを奪うというのなら、いっそ修道院へでもどこへでも送ればいいじゃない!」
取調室に静寂が落ちる。
コートニーは息を切らしながらステアを睨みつけた。
煤まみれで男装した令嬢が、王族に向かってこれほど不敬な演説を打つなど前代未聞だ。
マイロが制止しようと一歩踏み出したが、ステアはそれを手で制した。彼は椅子の背もたれに体を預けたまま、少しの間、コートニーを観察するように見つめていたが、やがてくっくと喉を鳴らして笑い始めた。
「……二重丸どころか、三重丸の変人だったか」
「なんですって?」
「計算機よりも熱い情熱、そして法典を前にしても揺るがない好奇心。……なるほど。君を修道院に閉じ込めるのは、確かに国家的な損失かもしれないな」
ステアは、机の上に置いていた精密な銀時計を指先で弄ぶ。
「身に余るお言葉を、ありがとうございます」
コートニーが答えた瞬間、張り詰めていた取調室の空気が、わずかに緩んだ。
「これで心置きなくサンプトンに旅立つ事ができそうですわ」
コートニーは目尻についうっかり滲んだ涙を、シャツの袖で拭いながらステアに礼を言う。
(なんだか最初は感じの悪い人だと思っていたけれど、話せばわかるなんて、流石王子殿下だわ)
旅立つ国民の背中をきちんと押してくれる、そんな優しさを持ち合わせている。こんな目に自分を遭わせたことについて恨む気持ちがあるけれど、たった今、おあいこにしてあげてもいいとコートニーは思った。
(願わくば、殿下がリリアから逃げきれますように……)
餞別代わりにと、心でお祈りをしておく。
「あのさ、清々しい表情のところ悪いけど、まだこっちの問題は片付いてないんだよね?」
ステアは日記帳をひらひらと揺らしながら意地悪く笑った。
「えっ、まだ何か問題でも?」
売春うんぬんの嫌疑は晴れたはずだと、コートニーは首を傾げる。
その時、彼女の脳裏に名案が浮かんだ。
それは無料で傭兵を入手する方法。
コートニーは、数回咳払いをしたのち、背筋を正す。
「殿下、提案があります。そんなに信用できないのであれば、マイロ様を私につけてはいかがでしょう?」
「マイロを?」
ピクリと眉を動かすステア。
「はい。マイロ様にはお手数をかけてしまいますけれど、十日ほど私と旅程を共にして頂き、祖父母にちゃんと私が再会するところを見届けてもらうのです。そうすれば殿下もご納得されるでしょう?」
(自分の部下の報告だし。私も一気に旅の難易度が下がるし)
これぞまさに双方にとって最良の策だと、コートニーは目を輝かせる。
「よくもまあ、そんな澄んだ瞳で私利私欲を語れるものだ。その図太い神経には、もはや感服するよ」
ステアは皮肉げに唇を歪めたが、その視線はどこか愉快そうにコートニーを捉えていた。
「売春絡みではもう君を疑ってはいないし、君が家出をする事に関しても、君の意志は固そうで、並々ならぬ理由がありそうな事も理解できた」
「そのとおりです」
コートニーは大きく頷き返す。
「ただ君はこれから一人でフィデリア国に向かおうとしているんだよね?」
「はい」
「無理だと思うよ」
「いいえ、必ず到着して、祖父母と涙の再会をしてみせます!」
「無理だね」
「殿下は、わりと意地悪ですね」
本音を口にしたコートニーに、ステアはニヤリと口元を歪ませた。それは嫌な予感しかしない、企みを含む笑みだった。
「いいか?我が国からフィデリア国に向かう場合必ず通らなければならないのがメルク海域だ」
「えぇ、まぁ……そうですわ」
コートニーは頭の中にある航路を浮かべ頷く。
「現在メルク海域では海賊同士の縄張り争いが盛んになっているせいで、治安が良いとは言えない状況が続いている。だから安全を考慮し、我が国からフィデリア国に向かう客船は欠航中だ」
「えっ!?」
「残念だね」
「笑ってます?」
「いいや、君の行動力には敬意を払うさ。ただちょっと情報不足感は否めないけどね。とにかくしばらくの間一般人はフィデリア国には行けないと思うよ」
ステアはそれはもう、女性が一斉にとろけてしまうような素晴らしく美しい笑みと共に、「ひとまず実家に帰ろうか?」と告げた。
その瞬間、コートニーは絶望の谷に突き落とされたのだった。




