010 机上の空論が砕けた夜1
家出を決行して数時間後。
王都警察署の奥深く、コートニーは石造りの壁が夜の冷気をそのまま伝えてくる硬い椅子に座り、人生史上もっとも質素な部屋で目元をハンカチで押さえていた。
天井のガス灯がチチチと不吉な音を立てて燃え、部屋の隅には「警察署にしかない独特のインクと鉄錆の匂い」が充満している。
「……ううっ、ひどいですわ、殿下。私はただ、異文化交流の一環で……じゃなくて、社会科見学をしていただけですのに」
肩を震わせ、さめざめと泣くその姿は、いかにも可憐で傷ついた令嬢そのもの。だが、ハンカチの裏側では、真っ赤になった鼻の下をこっそり摩りながら、必死に状況を分析していた。
(……よし、『悲劇のヒロイン・モード』で殿下の同情を三割引き出し、説教の時間を大幅に短縮。あわよくば『おいたが過ぎましたね』程度の注意で釈放してもらう)
しかし、その目論見は冷ややかな声によって一瞬で粉砕される。
「……赤土まみれの港湾労働者と『たんぱく質』の議論を交わすことが、君の言う社会科見学か?」
耳を刺すような冷ややかな指摘に、コートニーの肩がぴくりと跳ねた。
(……しまったわ。あの「たんぱく質」のくだり、全部聞かれていたのね。殿下の耳は地獄耳か何かなのかしら!?)
ハンカチを顔に当てたまま、コートニーは高速で脳内図鑑の「言い訳・弁解の章」をめくる。だが、ステアの言葉には一切の容赦がなかった。
「泣き止んでこちらを見ろ、コートニー嬢。君のその涙、ハンカチに含まれたミントの香油で目を刺激して出した偽物だろう? 鼻が赤くなっているのは、悲しみのせいではなく季節外れの寒さと、自作自演の摩擦によるものだ」
「……ちっ」
コートニーは瞬時に「悲劇のヒロイン」を辞めた。
ハンカチを膝に叩きつけ、煤のついた顔でスッと背筋を伸ばす。その瞳には、涙の代わりに「バレちゃったなら仕方ない」という開き直りと、隠しきれない挑戦的な火花が宿っていた。
「殿下こそ、淑女の涙を成分分析するなんて趣味が悪くていらっしゃいますわ」
目の前には、フロックコートを脱ぎ捨て、黒いベスト姿で椅子に腰を下ろすステアの姿があった。彼は紫色の瞳を細め、テーブルの上に置かれた一通の書類――先ほどコートニーがリュックから出し損ねた『逃亡計画書』を、優雅に指先で弄んでいた。
「……あ!!それ、勝手に見ないでください!」
「サンプトン港からフィデリアへ、二等船室。目的地までの偽名は『アリス・ミラー』とあるが。君が今使っているそのハンカチ、ヒスコック家の紋章の刺繍が思い切り露出しているぞ。……隠す気があるのか?」
コートニーはピタリと動きを止めた。
膝の上のハンカチに視線を落とせば、そこには白銀の糸で誇らしげに刺繍された「双頭の鷲」――ヒスコック伯爵家の家紋が、ガス灯の光を受けてこれ以上ないほど鮮明に主張している。
(……詰んだわ)
脳内図鑑の「潜入・隠密の章」には、確かに『身元を特定させる持ち物を排除せよ』と太字で書いてあった。
知識としては知っていた。
完璧に理解していたはずだった。
「知識と実践は別物だということが、少しは理解できたかな? アリス・ミラー君」
ステアが意地悪く、わざわざ偽名で呼びかける。
その「嘘くさい微笑」が、今は猛烈に癪に障る。
「……やはり、書物だけでは限界がありますわ。摩擦係数を計算していても、実際に氷の上で滑る感覚は、転んでみなければ分からないということですね」
「転んで済めばいいが、君がさっきまでいたのは、崖っぷちだ。いいか、コートニー嬢」
ステアはテーブルの上に、没収した彼女のリュックを無造作に置いた。
「君は『本物』を知らなすぎる。労働者の真似事をするなら、まずその爪の白さをどうにかしろ。最高級の石鹸の香りを消せ。そして、偽装した服についた飾りボタンを取っておくべきだったな。君のそれは、『変装に凝りすぎた素人』の証明でしかない」
コートニーはぐうの音も出なかった。
自分の博識さが、かえって仇となったのだ。下手に知識があるからこそ、設定を盛り込みすぎて不自然になる。これこそ、机上の空論に溺れる「知識の塊」を自称する者が陥る、最大の罠だった。
「――駅の待合室にいた男たち。全員が労働者に見えたか?君に声をかけてきた男以外、いびきをかき寝ていた男たちはみな、私の飼っている『猟犬』たちだ」
「え」
「今夜、あの駅でミッドナイト・テイラーとの接触があると踏んで張り込んでいたんだよ。そこへ、最高の『囮』になりそうな君がフラフラと現れた。……わかるか?君はさっきまで殺人鬼の鋭利なナイフの目の前に、己の首を差し出していたんだ」
ステアの言葉は、非情なまでの合理性を貫きつつも、どこか言いようのない怒りを含んでいた。
コートニーは、言葉を失い呆然とした。
静寂の中、「でもまぁ、本当に、無事でよかった」と、低く零れた呟きに、ほんの一瞬の間が落ちる。
「……ごめんなさい」
コートニーが絞り出したその言葉は、消え入りそうなほど小さかった。
その瞬間、脳裏に、あり得たかもしれない光景がよぎった。
もし、あの男が本当にそれだったら。
もし、誰かが止めるのが、ほんの一瞬でも遅れていたら。
(……私は、事件の被害者になっていた?)
――違う。
そうではない。
(私は、被害者になったわけじゃない。でも――)
知識の海を泳ぎ、どんな難問も「理論」で解決できると思っていた彼女にとって、自分が「囮」として完璧に機能してしまっていたという事実は、プライドを粉々に砕くのに十分だった。
(実地訓練……。私に必要なのは、図書館の蔵書を増やすことじゃなくて、本物の泥にまみれる勇気だったのね)
これ以上、醜態を晒すわけにはいかない。
コートニーは重い腰を上げた。
「……私の負けですわ。捜査を妨害したことは謝罪します。大人しく屋敷へ帰り、お父様の説教を甘んじて受けることにします。……お世話になりました」
小さな頃から鍛錬により身につけた、美しい淑女の礼を披露してその場を立ち去ろうと、足を踏み出す。
「待て。誰が帰っていいと言った」
背中に冷徹な声が突き刺さる。
「マイロ、逃がすな」
「かしこまりました」
「え」
壁際に立っていたマイロがコートニーの前に回り込んだ。




