九秒の壁
その男は、消えた。
2029年6月、ドイツ・ベルリンで行われた国際陸上選手権。男子100m決勝において、ジャマイカ代表のアンドリュー・コールマンが、ゴールラインを駆け抜けた瞬間、忽然と姿を消した。物理的に「消失」した。
映像は鮮明だった。
スタートからわずか8.99秒、アンドリューは加速を続け、風のように走り抜けた。そして、テープに触れる寸前に──霧のように粒子化し、その場に散った。光学的な消失、瞬間的な蒸発、いずれでもない。
解析映像では、彼の形状が「分解された」ことを示していた。しかも、それは生物的な崩壊ではなかった。むしろ「空間から削除された」に近い。
事故か、事件か、それとも──超常現象か?
当初はどの国も口を噤んだ。だが、ひと月後、匿名の告発文がインターネット上に出回る。
「あれは計画だった。人類が100mを9秒以内で走れるかどうか、我々は長年試してきた。そしてそれは“起きた”のだ。問題は、その瞬間に彼が“どこへ行ったか”だ」
各国は調査を開始した。だが、映像記録・計測機器・観客の記憶──あらゆる情報が矛盾なく「消失」を指していた。
やがて分かったのは、「条件」である。
ドーピング、補助機械、外部支援なし。
屋外での公式大会であること。
計測された100mタイムが、9.00秒未満であること。
この三条件が満たされたときのみ、「消失」が起こる。
再現実験が行われた。AIによって設計された新人類選手たちが、合成DNA、極限の筋繊維制御、精神強化によって育てられ、9.00秒の壁へと挑んだ。幾度も失敗し、やがて、一人が条件を満たした──その瞬間、彼もまた「いなくなった」。
以後、「消失」は“消失症候群”と命名された。国際陸連は100m競技において、9.00秒未満の記録を「認定不可」とする通達を出すが、それは「競技の限界設定」による処置であって、根本的な解決ではなかった。
世界の科学者たちは、ある仮説を共有し始める。
「人間が100mを9秒以内で走ることは、“この世界では不可能”である」
それは肉体の限界ではなく、物理世界における上限設定である。
もしもその限界を突破したなら──その存在は、この世界に適合しなくなる。
なぜ消えるのか? なぜ9秒なのか? なぜ100m競走だけに発生するのか?
誰にもわからなかった。ただ、境界は確かに存在した。
2033年。
失踪から4年。世界記録は9.01秒のまま固定され、誰も9秒を切ろうとしなかった。スポンサーも離れ、100m競技の人気は落ち込んでいった。
そんななか、一人の選手が現れる。元中距離選手、名をリュウ・ハヤセ。
日本人。陸上界では無名だが、大学で物理学を専攻し、同時に哲学の修士課程も履修していた変わり者だった。彼は会見でこう述べた。
「自分は、100mで8秒台を出す予定です。そして、その瞬間、消えます」
彼は笑っていた。
「消失」は彼にとって、恐怖ではなく、むしろ“確信”だった。
2034年、東京。
消失条件を満たすため、すべてが監視された国際競技大会が開催された。
リュウ・ハヤセはスタートラインに立ち、深呼吸し、静かに構えた。
──パンッ。
号砲が鳴った。
観客の誰もが、9秒という数値を呪文のように唱えた。カウントが進む。6秒、7秒……そして、8.97秒。
リュウ・ハヤセは、消えなかった。
驚愕が走る。彼は、ゴールしたのだ。記録は8.97秒。
だが、何も起こらない。消失も、崩壊もない。彼は立っている。全身のデータが一致している。
どよめきの中、記者が駆け寄った。「なぜ、あなたは消えなかったのですか? 彼らと何が違うんですか?」
リュウ・ハヤセは、静かに答えた。
「俺は、9秒を切ることを信じていなかったんですよ」
「彼らは“9秒を切れる”と信じ、走り、突破した。だから世界から排除された。世界は、その信念の強度に反応するんです」
「俺は、“これは無理だろうな”と思いながら走った。だから世界は俺を残した。限界は、物理法則じゃない。“信念の構造”なんですよ」
記者は絶句した。
後日、国際学術誌では、以下のような論考が掲載された。
ある条件を満たした“存在の信念密度”が、世界の整合性を破壊し、その存在を“因果律外”へと排除する可能性がある。
信念は単なる心理ではなく、存在的な契約であり、世界との接続条件である。
以後、100m競技は廃れ、代わりに「自己信念制御走」なる競技が登場した。
そこでは、走力だけでなく「自己否定」と「確信抑制」が求められた。
人類は、物理限界ではなく、信念限界と戦い続けることになった
百メートルを八秒台で走った選手が、ゴールと同時に消失する事件が発生し、それ以後、実験を繰り返した結果、人間がドーピングなしで、公式大会において百メートルを九秒以内でゴールした場合のみ発生する現象であることが発覚する物語を三千字程度で書いてください。またその物語の展開や結末は、自分で考えて書いてください。