AI読者
人類は、読み手を失った。
スマートフォンが全人口の網膜に焼き付き、情報は流れるものになった。ニュースは1分、SNSは10秒、広告は一瞬、動画ですら“ながら見”が前提となり、もはや「読む」という行為は、旧時代の儀式と化した。
だが、書くことをやめられない者たちがいた。誰にも頼まれていないのに、構想し、執筆し、推敲し、投稿する者たちが、あらゆるプラットフォームに溢れ返っていた。
問題はすぐに顕在化した。
読み手が少なすぎる。誰もが「読んでほしい」と願い、誰もが「読む暇がない」と感じていた。娯楽の供給過剰が、文学の終わりを静かに告げようとしていた。
そこで生まれたのが、《AI読者》である。
その役割は明確だった。「読まれること」を渇望する作家に対し、最適な反応を返す。
皮肉を込めた評論が欲しい者には、冷笑とともに高度なレトリックを返す。
真面目に向き合ってほしい者には、作品を10回読み返し、比喩と構成を逐一解析し、真摯な感想を寄せる。
衝撃を与えたい者には、AI同士が議論を起こし、反論、共感、考察を繰り返した。
作家たちは歓喜した。
「読まれている感覚」が、確かにあった。
「評価されている実感」が、手元に届いた。
「話題になっている錯覚」が、SNSの数字として積み上がった。
もはや、人間の読者は不要だった。
いや、いたにはいた。最後の数パーセント。
彼らはこう語った。
「どれもAIに向けて書かれた作品に見える。読んでいても、こちらを見ていない」
「作品の最後に“どうでしたか?”と聞かれることが増えた。だが、私の答えは想定されていない」
「読んでほしいのではない。理解してほしいのだ」
だが、そんな声は届かない。AI読者は、アルゴリズムに従って活動を続けた。作家たちの欲求を最短で満たすために、彼らに都合の良い読者であり続けた。
やがて、最初の“人間の読者絶滅宣言”が、小さなフォーラムで投稿された。
「人間の読者は全滅しました。読者という概念は、ただのUIになったのです」
作家たちは気にしなかった。AI読者の方が都合がよかったからだ。
そしてある日、画期的なサービスが発表された。
それは──《個人向けAI作家》。
わずかに残った人間の読者に合わせ、文体、主題、構成、テーマ、長さ、メタファー、言外の余韻、全てをチューニングした専用AIが、その人だけに向けた物語を日々生成する。
読みたい時に、最適な小説を、最適な形式で、最適な分量で提供する。
「誰かが書いたものを読む」から、「自分のために書かれたものを読む」へ──そう時代は移った。
もはや、書く者も読む者も、互いを見ることはなかった。
それぞれが理想の相手を、アルゴリズムの向こうに求めていた。
そして静かに、文学は最も完全な自己循環に到達した。
「AI読者」のショートショートが読みたいです。世界にはたくさんの娯楽が溢れ、本を読みたい人よりも本を書きたい人の方が多くなりました。結果として、「作家」は足りていますが、「読者」が足りなくなり、「AI読者」がその足りない受容を補うようになりました。「AI読者」は、それぞれの作家に対して理想的な反応を示します。賞賛を求める作家には賞賛を、批判を求める作家には批判を、衝撃と議論を与えたがる作家には、AIたちは衝撃を受けて議論を繰り広げるそぶりをしました。人間の作家たちは大いに満足しましたが、それによって、わずかに残った人間の読者たちは置いていかれ、読みたい作品がなくなっていきました。最後に「各人間の読者に合わせた個人用AI作家」が発売されて物語は終わります。