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「ハイペリオン? 聞いたことあるな」
よもぎ先輩が腕組みしたままかくんと首を傾げた。柔らかい黒髪がさらさらと流れる。
「ギリシャ神話だったかな、確か。空と大地の間に生まれた巨人の名前です」
「アニメじゃないの?」
どうあっても僕を隠れオタクだと断定したいらしいよもぎ先輩の言葉はスルー。
「仮ってとこです。もっと気に入ったの思い付いたら改名します」
「まあ、よし。行け、ハイペリオン(仮)」
「(仮)は余計ですってば」
ともかく、演奏再開だ。さっきまでの何をしたらいいのか、まるで濃い霧の中で迷っていた僕とは違う。この手が何をできるかを理解し、そしてそうすることを観衆に期待されている状況だ。ご期待に応えようじゃないか。
弓を弦にそっと触れさせ、エルミタージュとバローロを見やる。さすがにこの巨大ゴリラの圧倒的な迫力を前にして、完全に気圧されているように見える。演奏の手を止めてしまって僕とゴリラを機械みたいに何度も交互に見ていた。
「さっきも言ったけど、絶対あの子達を傷付けちゃダメだから」
よもぎ先輩がそう言ってギターをポロンと鳴らした。ガールブラストはよもぎ先輩のギターにぴくんと反応して真っ直ぐ前に向き直った。それでも両腕の袖は地面に擦れるほど長くだらりと垂らしたままだ。
僕はゆっくりと弓を引いた。コントラバス特有の空気がゆっくりと振動するような重みがあって、それでも弦楽器らしく暖かみのある音色を低く奏で始める。ハイペリオンは長く太い両腕を折り曲げて足腰に力を溜め込んだ。
僕がイメージした動きと少し違う感じだ。どうやら完全に思い通りに動く訳ではなく、こちらのイメージを表現した音楽をゴリラなりに解釈し、そしてゴリラなりに表現すると言う形か。言うなればゴリラと即興で創作ダンスを踊れって訳か。それってシュールだ。
そうなると音の組み立ても変わってくる。戦闘に向いた高揚感のある行進曲とかを弾こうかと思ったが、誰かが作った完成された楽曲ではなく、音の強弱とリズムでイメージを表現した方がストレートに場に表せるような気がする。まさにいま生み出される名も無き曲だ。
僕の弓が弦の上を折り返し、今度は短く強い音を奏でた。ハイペリオンは両腕を振り上げて飛び上がり、その巨体を弓なりに反らしてゆったりと宙を待った。長い滞空時間を楽しんだ後、頭上で両手の指を組み合わせる。
エルミタージュとバローロは十分に後ろに下がっている。エバーグリーンとASDは大きく跳び上がったハイペリオンを見て素早く左右に散った。僕とよもぎ先輩も落下地点からだいぶ距離を取っている。みんなこれくらい離れていれば大丈夫だろう。一発目は観衆の度肝を抜くために派手
にぶち込む!
ハイペリオンが着地と同時に組んだ両手を闘技場の地面に叩き込んだ。エバーグリーンもASDもすでに移動した無人のスペースにめり込む拳。爆発のような砂埃を上げて轟音を撒き散らすとでもみんな思っただろうか?
音はかすかな重低音が響いただけだった。自分の鼓動音と聞き間違えるほどの小さな音。でもその音が生んだ波はとても大きいはずだ。
めり込んだはずのハイペリオンの拳は砂粒一つ付けずに持ち上がり、地面に穴が開いているはずの打撃の跡も水面に何かが当たったかのような波紋を残してすぐに真っ平らになった。そして目に見えない波は一瞬でエバーグリーンとASDに到達してその足元をさらった。
突然もんどりうって倒れるエバーグリーンとASD達。その見えない波は僕が思っていたよりも勢いがあんまり消えずにエルミタージュとバローロのところにも襲いかかってしまった。
「キャッ!」
軽そうな身体がぽーんと持ち上がり尻餅をつくエルミタージュ。身体のでかいバローロはバランスを軽く崩す程度にしか衝撃を感じなかったようだ。すぐさま体制を立て直して転んでいるエルミタージュに駆け寄った。
うん、彼は確かに紳士だ。尻餅ついてめくれあがったスカートの奥を見ないように顔を伏せながらエルミタージュを助け起こしている。
「伊吹くーん、私の命令に背くなんていい度胸してるな」
よもぎ先輩の声に思わずびくりとしてしまう。恐る恐る振り返ると、ようやく僕達のところまでやってきた見えない波で黒髪をなびかせた彼女が切れ長の鋭い目付きから発せられる殺人視線で僕を刺し貫こうとしていた。
「ご、ごめんなさい。今のは悲しい事故です」
以前、合同演奏会の時にその鋭い視線だけで他校の女の子を泣かせてしまった眼ヂカラの持ち主だ。その外見の美しさだけに一目惚れして告白してきた他校男子生徒を睨み付けるだけで撃退した視線の使い手だ。暴力を振るうとかそんなことはあんまりしないのに、なぜか本能的にひざまずきたくなると言うか、絶対服従を誓わざるを得ないオーラを纏っている。
「それで、何をした?」
「あ、はい。ハイペリオンの能力を試してみただけです。はい、ごめんなさい」
「能力?」
「予想以上に強力で射程が広過ぎました。ごめんなさい」
高い笛の音が鳴り響いた。エルミタージュだ。彼女のエバーグリーンがいばらの両脚を地面に這りめぐらせている。
エルミタージュの深い緑色した髪の毛がぶわりと拡がり、笛の音が一際早く叩きつけるようなメロディが流れた。その音色に合わせて地面がひび割れて盛り上がる。
「イブキ! 痛いじゃないの!」
いったん笛から口を離して大声で叫んで、腰のところに装甲板のようなものが見える生地の厚そうなスカートをパンパンと叩いて砂埃を払い、一度地団駄を踏むように脚で地面を蹴って、また笛に唇を添える。なんか怒ってるけどいちいち仕草が微笑ましい。やっぱり女の子はこうじゃなく
ちゃ。僕の感覚から言うと背が小さく身体も細過ぎるが、いちいち元気がいいところは評価されるだろう。地下組織女子ランキングで幼馴染にしたいランキングで上位に食い込めるような美少女っぷりだ。
エバーグリーンが身体を包む花びらを押し広げた。根を張るようにいばらの脚はどんどん地面に潜っていく。どうやら次はエルミタージュのターンだな。ハイペリオンの能力をもう少し試してみるか。
「いい?エルミーをちょっとでも傷付けたら、目玉触るからな」
この人なら絶対やる。肝に命じておきます。ごめんなさい。
「ちょっとは信頼してください。ハイペリオンのパワーは今ので良くわかったからもう大丈夫です」
「イブキ! 余所見してんじゃないの!」
エルミタージュの甲高い声。彼女の方を振り返るとエバーグリーンの花びらが開ききっていて、花で言うおしべの部分がちょうど銃口のようにこっちを狙っていた。嫌な予感がする。お互いを傷付けないと言う約束にはちゃんと僕も含まれているのだろうか。
「避けられるかしら?」
エルミタージュがニヤリと笑って横笛に唇をつける。それと同時にエバーグリーンはハイペリオンに向かって何かを撃ち込んだ。眼で追える速度で撃ち出されたそれは何かの種子のように見えた。
これくらいなら、ハイペリオンの能力の前では無意味なものだ。よけるまでもない。
「お手並み拝見」
よもぎ先輩が楽しそうに弾んだ声で言った。はい、お手並みを披露いたしましょう。
エルミタージュの笛のメロディに被せるようにコントラバスを響かせる。
ハイペリオンは胸を張って両腕を拡げて種子の弾丸に着弾を待った。しかし種子弾はハイペリオンに到達する前に自ら弾け飛び、さらに細かい種をハイペリオンの周囲に撒き散らした。そしてその小さな種は発芽し、見る見るうちに植物へと成長してハイペリオンの足元に着地し一気に根付いた。
避けるまでもなく、ハイペリオンに着弾する種子はなかった。僕は少し拍子抜けてしまった。なんだ、せっかくハイペリオンの特殊能力を発揮できると思ったのに。
「伊吹くん、ボンヤリしない!」
よもぎ先輩の声とともに、地面からエバーグリーンのいばらの脚が何本も突き出てきた。それとさっきの種がものすごい勢いで蔓を伸ばしていく。
そういえばエルミタージュは植物を操れるって言ったっけ。さっき撃った種は攻撃のものじゃないんだ。檻だ。巨大なハイペリオンを拘束し幽閉するための檻を作るためだったんだ。
エルミタージュのいばらはますます太くなり枝分かれして交差し、撃ち込んだ種子の蔓と絡み合いあっと言う間に植物でできた有刺鉄線を作り上げていった。
テレビの自然ドキュメンタリー番組でよく観る芽吹きの早回し映像みたいにめきめきと蔓といばらが絡み合っていく。見ていて圧巻な光景だけど、さすがに閉じ込められるのは嫌だ。
「ごめんよ」
僕はハイペリオンをゆっくりと歩ませた。力強く確かな音色を奏で、でも決してエルミタージュの笛の音を掻き消さないように、むしろ折り重なって溶け合うように。
ハイペリオンの太い腕が緑色したいばらの檻に伸びる。そして腕が檻に触れるか触れないか、そのギリギリのラインで檻に変化が起きた。ぐにゃりと音もなくひしゃげて、自動ドアみたいにハイペリオンの腕を避けて檻が開く。
「嘘?なんで」
エルミタージュが思わず呟いた。惜しいな。せっかく彼女の笛に僕の音がうまく馴染んできたところだったのに。
ハイペリオンの歩みは止まらない。強く一歩踏み込む。するりといばらと蔓が解けて曲がりくねり道を作る。緑の檻はちょうどハイペリオンの形に合わせて口を開いたように金色のゴリラの脱出を許してしまった。
「なんで曲がっちゃったの! イブキ! 何したの?」
エルミタージュがやたら鋭く笛を吹き始めた。さっきまでの優雅さが含まれない、感情的に攻撃性を高めた音楽だ。あまり彼女のかわいらしさには似合わないな。残念ながら。
緑色の檻を構築していたいばらと蔓が鞭のように、あるいは槍のようにハイペリオンを狙う。しかしそれらはすべて空を切る。鞭のような蔓はハイペリオンに触れる寸前にその軌道を変えてするりと反れて、槍のようないばらはハイペリオンに突き刺さろうとしたその瞬間にくるりと水飴が捻じ曲がるように方向を変えて地面に突き立った。
「何これ? 伊吹くん、何かした?」
よもぎ先輩もギターを弾くのも忘れて闘技場に仁王立ちするハイペリオンを見ていた。
「何者にも触れられない、決して触れることができない。それがハイペリオンの能力です」
ハイペリオンには誰も触れることができない。だから、完全に無敵だ。僕のハイペリオンは絶対に負けない。
こっちから触ることもできないから、勝てないけど。