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僕とよもぎ先輩、そしてエルミタージュとバローロ。兄王側と弟王側と、それぞれの戦争代理人が闘技場のセンターラインを挟んで向かい合う。その距離十メートルくらい。
円形闘技場の直径は百メートルを越えるだろうか。こうして真ん中に立ってみると改めて大きさを実感する。すべて人の手で作られたものだろうか。闘技場を囲む階段状の観客席は隙間なく人で埋め尽くされ、その頭上にぽっかりと切り取られたような青空が見える。観客席の高さは学園の校舎四階分くらいありそうだ。まるでビジネス街のビルの谷間から狭い空を見上げている気分になってくる。
闘技場の壁は石積みで、兄王側とちょうど反対側の弟王側に入場口が一つずつあるだけ。そこにグラン少佐と数人の衛兵が僕達を見守るように、あるいは監視するように立っていた。
考えようによっては、檻の中に閉じ込められたようにも思える。
「……気分悪いな」
思わずつぶやく。
「ん?なんか言った?」
よもぎ先輩が聞き返してくる。僕は黙って首を横に振るだけで答えた。
「戦闘システムは至ってシンプル。お互いの楽器を鳴らしてサウンドをぶつけ合って相手をへこましてやれば勝ち。動けなくなったら負け」
「えーと、へこましてやるってよもぎ先輩独自の表現をもう少し具体的に教えてください」
「あとこれは私とエルミタージュとの暗黙のルールなんだけど、本体を攻撃しちゃダメ」
「えーと、本体ってよもぎ先輩独自の解釈をもう少し噛み砕いて教えてください」
「いちいちえーとえーとうるさいなあ。伊吹くんはエートマンか」
そういうボケもかますのか、この人は。どうやら相当テンション高くなってるようで。
「エイトマンやイートマンなら聞いたことありますが、エートマンは聞いたことないです」
「さすが隠れオタクランキング十二位」
うそ。そんなのランクインしてるのか、僕は。うちの学園の女子は見る目ないぞ。
「とにかく、やればわかる。ほら、エルミーがサウンドを出す」
見ると、エルミタージュが横笛を静かに口に当てたところだった。真鍮とはまた違った輝きを持つ光沢のない金属っぽい材質の横笛で、小柄な彼女が持ってもその笛の細さが際立っていた。けっこう高い音が出る笛だろう。
と、息継ぎの様子もなく吹き始めた。思っていたよりも穏やかな木管楽器のような耳触りが柔らかい音色が漂ってくる。
「あの子の世界の住人はあの太い髪の毛で呼吸をしているんだって」
よもぎ先輩が本当に小さな声で耳打ちしてくれる。
「その空気を口から出すから、息継ぎなしで吹き続けられる。それにあの子、指が六本もあるから今までに聞いたこともない笛の音を聴かせてくれる」
よもぎ先輩の言う通りだった。彼女の笛の音は途切れることがなく、優しい音で闘技場に満たしていく。かと思うと、急に曲調が速くなり音階も駆け上っていく。確かにこんな曲は普通の息継ぎではあり得ない演奏だった。PCでも使って音源を打ち込まないととても再現できないだろう。
そして変化は突然現れた。
エルミタージュのすぐ頭上に空気の層が折り重なるように溜まり始め、それが人の形に固まり始める。
「あれが奏者の力。私的に表現するなら、音の現像化、ってとこかな」
身長150センチあるかないかのエルミタージュのすぐ隣にその倍ぐらいありそうな大きな影が降り立った。
女性的な曲線が艶かしいシルエット。その身体を覆うように大きな花びらが上半身を包み込み、まるで一輪の巨大な花のように見える。下半身はいばらの束が絡みついて人の脚のように直立している。淡い緑色した髪の毛が海中にゆらめく海藻にように立ち上り、筆ですっと引いたような細い目で僕を見ていた。
「なにこれ?」
思わず僕の口からこぼれた言葉に、よもぎ先輩は見慣れた芸術作品でも説明するかのような口調で答えてくれた。
「きれいでしょ。バラの擬人化と言うか、花そのものが人の形をしていると言うか。あれがあの子の音の現像化。近くに存在する植物を自在に操れる能力を持ってる」
場に新たな音が加わった。次はバローロだ。彼は背負っていた大きな袋から幾つもの連なったドラムを引っ張りだし、音を確かめるように端から順に叩いていった。腰周りに固定するようにベルトで結び付けてあるそれらのドラムは大きさも高さもバラバラで、それで音程を調整するようだ。
「バローロの世界の人達はとにかく筋肉が発達しているみたい。あと関節が二重関節っぽくて逆にも曲がるし。そのせいかごつい身体してるくせにジャンプ力がものすごい」
「で、音を現像化させる訳ですね」
僕の言葉が終わらないうちにバローロの音楽の現像が始まった。
最初は小さな影だった。1メートルにも満たない人影がバローロのドラムリズムに合わせてタップダンスを踊るように跳ねる。その姿はまるで七人の小人、ドワーフ達のようにずんぐりとしてむっくりとしてぽってりとして、坂道を転がり出したら絶対自力では止まれないような体型をした豚の顔をしたおっさんだった。ご丁寧にバローロとおなじピッグテールの髪型だ。
「豚の擬人化ってとこかな」
よもぎ先輩がリズムにのるように頭を軽く揺らしながら言った。
豚のコミカルな擬人化。そこまでならまだ愛嬌がある。問題は数だ。
バローロのドラムのピッチに合わせていつのまにか数が増えている。二人の豚顔の小おっさんがすれ違ったかと思うと三人に増えていて、よたよたとした頼りないステップのタップダンサー豚同士がぶつかって転んだかと思うと、起き上がった時は五人に増えている。
「なにこれ?」
僕の二度目の「なにこれ?」も華麗にスルーしてバローロのリズミカルなドラムは激しいビートを刻む。肩の関節が異常に動くから離れたドラムも素早く打てるし、手首がぐるり反転するにでもにすごい連打が効く。文字通り人間技じゃない。
おっさんの身体した子豚達が十人くらいまで増えたのは数えられたが、バローロがドラムを止めた途端に、みんな、わーっとバローロの背後に集まっていき、そして人見知りする子供のようにバローロの脚にしがみついてこっちをじっと見ているちっちゃい豚おっさんが一人いるだけだった。
「ヨモギ!そっちの番よ。今日も激しいの聴かせてね」
エルミタージュの声によもぎ先輩はギターを振り上げて応えた。長身で細身の女性が、肩をはだけさせ胸元の開いた黒いドレスとヒールの高いブーツを見に纏い、高々と掲げたギターを一気に振り下ろす。僕の心を鷲掴みにするほど輪王寺よもぎは衝撃的に美しかった。
そして空気が爆発する。
一瞬、よもぎ先輩のドレスが脱げてしまったのかとドキリと心臓が跳ね上がった。空気の爆風がよもぎ先輩の黒髪とドレスを舞い上げ、そのまま彼女の背後に人型の黒い布がはためいて見えたからだ。
しかしそれは違った。よもぎ先輩の音の現像化だった。
まるでよもぎ先輩という繭から蝶が羽化したかのように、大きな影が彼女を背後から抱きしめていた。
顔はよもぎ先輩によく似ていたが、古い日本画の歌舞伎役者のようにくまどりが描かれ、切れ長の目がより一層大きく見える。背の丈は2メートルほどだが、圧倒的に豊かな黒髪が頭の両脇で結えられていて変電所にあるコイルのように渦を巻いて空中に伸びていた。そのせいでとても大きな姿に見てとれる。ミニスカートから黒タイツに包まれた脚がすらりと伸び、ありえないくらい高いハイヒールを履いている。よもぎ先輩のサウンドとやらの大きな特徴は髪の毛のコイルだけじゃない。へそが丸出しなほど丈の短い真っ赤なジャケットを羽織っているのだが、その袖がだらん地面に垂れるほど長く、手が全然見えないところだ。
「なにこれ?」
僕の三度目の「なにこれ?」もやはりスルー。よもぎ先輩はギターの電気音を楽しむようにコードをかき鳴らしながら大声で喋り続けた。
「私達の能力は、電気。どうやらこの世界では私達は電気を自在に操れるみたいなんだ。だから、アンプどころか、コンセントがなくったって、この通り!」
一際大きな爆音を弾かせるよもぎ先輩。円形闘技場の観客がさらにヒートアップする。よもぎ先輩はロックンロールと言っていたが、これじゃロックと言うよりもメタルな音だ。ヘビーメタルだ。
「きっと伊吹くんも電気を使える。だからそのコントラバスも、エレアプとして使えるはずだ」
エレアプって。確かにコントラバスとエレクトリック・アップライト・ベース、通称エレアプとはよく似ているが、その基本構造は全然別物だ。エレキギターとアコースティックギターの違いとはまた別。
「さあ、弾いて!」
よもぎ先輩が僕を見つめて観衆に負けない声で叫んだ。エルミタージュもバローロも僕を見つめている。その目は敵を見る目じゃなかった。期待する目だ。
「わかりました。とにかくやってみます」
何がなんだか、結局何一つ理解できていない。こんな状況で僕は何を弾けばいいのか。音の現像化だなんて言うけど、どうすればいいのか。
僕はコントラバスを身体の左側に腰だめに固定し、立ち姿勢での演奏体制に入った。僕の楽器は中古だけれどもヨーロッパ仕様の日本のものよりも大きなコントラバスだ。だから少しななめに構えて弦を押さえやすいようにしている。弓を静かにあてがう。よもぎ先輩のギターのコードに合わせて、ええい、もうどうにでもなれ。
僕の両腕にかすかなスパークが走った。チューニングの時の音は「ラ」と決まっている。その「ラ」を弾いた。コントラバス特有の重く太い音が空気を振るわせる。その音はよく知る音ではなかった。アンプを通して増幅されたエレキギターのように、音に厚みがあり、奥行きがあり、金属的な硬さがある。そして、何よりも力強い。
こんな音が出るなんて。エレクトリックアップライトベースを弾いた時とはまた違った音源だ。目を閉じてこの厚い音を楽しむ。この音を少し曲にしてみようか。ふと思い立って、弦楽部の部室で演劇部の高山にリクエストを受けた曲を弾いてみた。「世界で花は一つでいい」だ。そういえば、宮島ちゃんや高山、今頃どうしているだろうか。僕がよもぎ先輩に連れ去られたことをどんな尾ひれをくっつけてみんなに話しているだろうか。
「……ちょっと、これって、予想外」
よもぎ先輩のつぶやきが聞こえた。
目を開ける。
ん? 暗い。何か、影になっている。見ると、よもぎ先輩もエルミタージュもバローロも演奏を止め、あんぐりと口を開けて僕の後ろを見ていた。いや、後ろじゃない。頭上だ。くるり、振り返ってみる。
そこには金色のごわごわした壁があった。いや、壁じゃないな。金色の枝がびっしりと幹に生えた杉の木のようなものが二本突っ立っている。視線を上に上げる。その二本の極太の木はすぐに合流して一つの厚みのある塊となり、さらに太く太く大きくなっていく。そして、こんもりとした盛り上がった筋肉と、まるっとしたあご、口元から覗く長い犬歯、二つの睨み付ける目玉があった。
「なにこれ?」
四度目の「なにこれ?」だった。
そこにいたのは巨大なゴリラだった。黄金の毛に覆われ、ゴリラのくせに大きく胸を張って腰に手をやり、僕を見下ろしている。その巨体は7、8メートルはあろうか。エルミタージュやよもぎ先輩が引き出した人影なんかこのゴリラの前じゃまるで幼女だ。
よく見るとそのゴリラはモヒカンを決めていた。巨大なモヒカンゴールデンゴリラが僕の背後に立っていた。
「やるじゃない、伊吹くん。君にぴったりだ」
よもぎ先輩が笑い出した。ぴったりって言われたって、ゴリラって草食動物だっけ?