エピローグ
エピローグ
夢の終わりに
また、あの夢だ。
輪王寺よもぎが目を覚ますと、視界は薄ぼんやりした白さに覆い尽くされていた。
徐々に焦点が定まってくると、布を被せたように視界を塞ぐその白さが蛍光灯の灯りだとわかった。
なぜ蛍光灯が点いているんだろうか。枕元の目覚まし時計を見ようと身体を捻ろうとするが、重たい身体は言うことを聞いてくれなかった。まるで知らない誰かから借りてきた使い方のわからない機械をいじるように、筋肉のパーツを意識してゆっくりと腕を動かしてみる。しかし腕は動かない。人差し指を持ち上げることすらできない。
枕から少し頭を上げて自分の物であるはずの左腕を見つめた。そこにはギプスで固定された左腕が無造作に転がっていた。
そうだ、ここは病室だ。
よもぎはようやく自分が置かれた状況を思い出すことができた。ここは自分の部屋ではない。毎朝健気にもけたたましく鳴り響く目覚まし時計なんてない。よもぎは身体の力を抜き、腕を動かすことをあきらめた。
また、あの夢だ。
あの夢を見る度に、よもぎの意識は異なる世界へと飛ぶ。そして目覚めると、白い病室のベッドに括り付けられた細く頼りない身体を見つめてため息を漏らす。
あの夢。
桧原伊吹とともにこことは異なる世界で兄弟国の戦争に巻き込まれる夢。
気が付いたのはベッドの上だった。確か、伊吹と一緒に人の背丈の倍ほどもある巨大なカマキリと対峙していたはずが、ふと目覚めると病的なほどに白に埋め尽くされた病室のベッドの上にいたのだ。
側には数ヶ月ぶりに顔を合わせる母親がいた。
消毒用アルコールの匂いに満ちた色素を失ったような病室に、よもぎは左腕を肩ごと固定され、薄い布地を身体に被せただけのような簡易的な患者着を着せられて横たわっていた。身体のあちこちに大袈裟なガーゼが張り付き、長かった髪の毛はばっさりと切り落とされて嫌になるほどの包帯が巻かれていた。
医者と会話ができるほどに意識がクリアになってくると、母親がようやく話しかけてきた。
いったい何があったの?
よもぎは記憶の糸をたぐり寄せたが、頭の中に靄がかかったようにはっきりと思い出せない。カマキリと戦っていた、だなんて言えるはずもなく、ただゆっくりと首を振って見せた。
医者が言う。
君は交通事故にあったんだよ。
一般病棟に移されてから、母親はよもぎの身に何があったのか聞きもせず、もう話しかけてもこなかった。離婚した父親からの養育費はよもぎが高校を卒業すれば終わり、これからどうしたらいいのかと独り言のようにただつぶやくだけだった。
そして、仕事が忙しいからと次の日から来なくなった。父親に至っては連絡すらない。
よもぎは現実を受け入れた。
小学生の終わりに両親が離婚した。中学の三年間、母親の愚痴ばかり聞かされて暮した。それが嫌で、母親から離れたくて遠くの高校を受験し、父親が毎月支払う養育費でアパートを借りて独りで生活していた。
異世界に召喚された勇者の物語。弦楽部の後輩、想いを寄せていた桧原伊吹との冒険。それらはすべて夢だったんだ。よもぎはそう思うことにした。そうでなければ、怖くて眠ることなどできない。目をつぶればまたあの世界で伊吹と会える。それがせめてもの救いだ。
母親が顔を見せなくなり、伊吹が見舞いにやって来た日から、よもぎは心に蓋をした。また独りの生活が始まるんだ。
伊吹は、以前の伊吹のままだった。こことは異なる世界で一緒に戦った伊吹はもういない。あの優しい勇者だった伊吹はもういない。頼りなかったあの伊吹が見せたたくましさも、伊吹の身体の温かさも、すべてが幻だったんだ。
「よもぎ先輩、また来ましたよ」
レンタルCD屋のビニール袋を振り上げるようにして伊吹が病室に入って来た。もう慣れ知った病室だ。だんだん遠慮がなくなってくる。
よもぎの入院生活で唯一の楽しみである伊吹の見舞いだったが、今日に限っては伊吹を笑顔で迎えることが出来なかった。伊吹の他にもう一人、小柄な姿がバイオリンのケースを携えて伊吹に寄り添うようにして入って来たからだ。
弦楽部一年生、宮島ほなみだ。
伊吹はいつも一人で見舞いに来てくれていた。弦楽部として他の部員と顔を出すこともあったが、夏休みも中盤に差し掛かると部員達も部活や課題で忙しくなり顔を出す頻度が低くなり、それでも伊吹だけは二日に一度のペースで会いに来てくれた。その都度レンタルしてきたCDや図書館から借りてきた小説などを手土産に、小一時間ほど軽いおしゃべりに付き合ってくれた。
それが、今日は宮島ほなみと一緒だった。よもぎが記憶している限り、男子生徒達が影でこそこそと組織していた女子生徒ランキングで、妹にしたい女子第一位の一年生だ。
「こんにちは、輪王寺先輩」
ほなみはぺこりと頭を下げ、伊吹のそばにぴったりとくっついたままベッドの周りをきょろきょろと見回していた。
「椅子、そこにあるから座りなよ」
よもぎは身体を起こし、壁際の折りたたみ椅子をギプスで固められた左腕で指した。伊吹は椅子を二つ手に取り、ほなみの分も並べて置いた。ほなみは伊吹のとなりにちょこんと座り、伊吹もそれを当然のように気にも留めず、テーブルにレンタルCD屋のビニール袋を置いた。
「今日は見たことも聞いたこともないインディーズのもの借りてきました」
夢の中の伊吹は敬語を使わなかった。心に思ったことがストレートに伝わってくる柔らかい口調だった。
「よもぎ先輩の趣味に合うかわかりませんけど」
夢の中の伊吹はよもぎさんと呼んでくれた。そう呼ばれるたびに温かい気持ちになった。
「ありがとう。うん、ジャケは悪くない」
よもぎは伊吹の目を見ることが出来ず、顔をそらすようにテーブルからCDジャケットを手に取って顔を上げずに表裏何度もひっくり返して眺めた。
伊吹が一人で見舞いに来てくれた時はこんな気持ちにはならなかった。あの世界のことを微塵も感じさせない伊吹の態度に、やはりこれが現実なんだと改めて思い知らされたが、伊吹が自分のために時間を割いてくれていると思うとそれだけで十分気持ちが和らいだ。
でも今日は違う。伊吹の隣にはほなみがいる。
「輪王寺先輩、まだどこか痛むんですか?」
よもぎのぎこちない仕草にほなみが小首を傾げた。耳にかかった髪が頬にさらりと流れる。ほなみの大きな瞳に真っ直ぐ見つめられ、よもぎはつい視線を反らしてしまった。
「どうかな、よくわからないが、何か調子がよくないかも」
自分にはない可憐さを持ったほなみが伊吹の隣に座っている。よもぎにとって、それだけであの世界で伊吹と紡いだ物語は意味を失ってしまう。もう自分の居場所は伊吹の隣じゃない。
「じゃあ、今日はもう帰ります」
伊吹はそう言って席を立った。その言葉に、不意によもぎは見えない手で頬を引っ叩かれた感じがした。
何か部活動に関する話題を伊吹とほなみが喋っていたはずが、よもぎにはいままでの会話の内容が思い出せなかった。音として彼らの声が耳に流れ込んでいただけだ。まるで眠れない夜に流している深夜ラジオのようにただノイズを放っているだけ。
壁の時計に目をやると、伊吹とほなみが来てからすでに長針が一周しようとしていた。
「なあ、伊吹くん」
よもぎはそっと声に出した。怖くて聞けなかった質問を。答えを聞いてしまえば、よもぎがぱちんと弾けて消えてしまいそうになる質問を。伊吹が帰ってしまう前に聞かなくては。
「今日は宮島と二人でお見舞いに来てくれたけど、どうして?」
伊吹は椅子から立ち上がった姿勢のままで腰に手を当て首を傾げた。くるり、目玉を一回転させて答える。
「いや、特に……」
そう言いかけた伊吹をほなみが制するように喋り出す。
「すっごく評判のプリン屋さんがあるんです。でも一人で行くのってちょっとアレで、伊吹先輩に付き合ってもらおうと思って」
「まあ、……そんなところです」
伊吹が襟足をポリポリと掻きながら言葉を繋ぐ。
「甘いの好きですし。そうだ、よもぎ先輩プリン嫌いじゃないですよね。お土産プリン買って来ますので体調悪くなければ明日も来ていいですか?」
「……うん。期待して待ってる」
よもぎは小さな声でそう言うのが精いっぱいだった。コントラバスのケースを抱え、よもぎに背を向けてほなみと並んで病室を出て行く伊吹に何て声をかければいいんだろう。
伊吹くんはあの世界のこと覚えていないの?
テテやエルミタージュ、バローロと会いたくないの?
私ともう一度……。
「じゃあ、また明日」
伊吹は一度だけ振り返り、そして病室の扉を閉めた。
よもぎは病室の明かりも付けずに鏡の中の彼女自身を見つめていた。時計の針はすでに十二時を越えている。病院は海の底に沈んだように静まり返り、カーテンを開け放った窓からの月の光が真っ暗な病室を切り裂くようにくっきりと照らしていた。
鏡の中でうつむいたよもぎは、乱反射した月の光を浴びてぼんやりと輝いていた。アスファルトに打ちつけた頭の治療のために長かった黒髪はばっさりと切り落とされていた。砕けた左肩から腕にかけてギプスでがっちりと固定され、ギプスの重さで自然と身体が左に傾いでしまう。パジャマの下にはあちこちに痣や擦り傷が走り、ガーゼと包帯が素肌を覆いつくしている。
「何やってんだろ、私」
あれだけの交通事故で致命傷を負うことがなかったのは、きっと伊吹くんのハイペリオンのおかげだろう。よもぎはそう考えていた。何者にも触れられない巨大黄金ゴリラの能力のおかげで、私はこの程度の怪我で済んだのだ。
「ハイペリオンなんて、最初からいなかったんだろうけど」
すべては交通事故に遭って意識を失っていた数日の間にみた夢だったんだ。こことは違う世界で音楽を武器に戦う勇者になる夢。伊吹と二人で兄弟国を相手に戦争をしかける夢。
医者はよもぎの命が助かったのは幸運以外の何者でもないと言ってくれた。しかし、左腕全体の負傷具合から、もう二度とギターを弾ける身体には戻れないだろうと告げられた時、よもぎは心の中でぴんと張っていた糸が切れた音が聴こえた。何もかもを失ってしまった。何もかもが終わったんだ。
よもぎは窓を開け放ち、夜の空気を身体全体に浴びた。
「何やってんだろ、私」
もう一度つぶやく。
地上四階の病室の窓から見える夜の町は大きなキャンバスに描いた一枚の絵のように濃い紫色に染まり、ぽつりぽつりと光る窓の明かりが夜空を埋め尽くす星のように瞬いて見えた。
もう一度、深い眠りにつけば、またあの世界に行けるだろうか。
窓から下を覗いてみる。
ここから飛び降りれば、深く眠れるだろうか。
二度と目覚めることなく、あの世界で伊吹とともに冒険の日々を過ごせるだろうか。
しかし、そこに地面は見えなかった。
「よもぎさん、何してんの?」
黄金の草原に立つ桧原伊吹の笑顔があった。
「深刻な顔しちゃって。らしくないよ」
黄金の巨大ゴリラが病院の壁によりかかり、その頭のてっぺんに伊吹は浮かぶように立っていた。両腕を胸の前で組み、少し後ろに反るようにしてよもぎの病室の窓を見上げる。
「ごめんね、待たせちゃって」
「……伊吹くん?」
「うん。すぐにでもよもぎさんを連れ出したかったけどさ、さすがに重傷で入院中だもん。動かす訳にはいかなかった。テテの方もなんか手間取ってたしさ」
伊吹の後ろから金髪を三つ編みに結んだおでこが広い眼鏡をかけた小さな女の子が顔を覗かせた。
「ヨモギさん、おひさしぶりです! ちょっといろいろあって、召喚できなくってごめんなさい」
「テテ!」
伊吹はハイペリオンの頭を蹴り、トランポリンで跳ぶようにふわりと窓を跳び越えてよもぎの元に降り立った。学園のブレザー姿でもなく、奏者としての戦闘スーツでもなく、ジーンズにTシャツの重ね着というラフな格好でよもぎの前に立った。
「さ、よもぎさん、行くよ」
「行くって、どこに?」
よもぎは急に恥ずかしさが込み上げてきた。こんなぼろぼろになった自分を伊吹に見てほしくない。あんなに会いたかった伊吹に、こんな自分の姿を見てほしくない。長かった黒髪もなく、身体も傷だらけで思うように動かず、もうギターも弾けない自分には、伊吹の隣に立つにはふさわしくない。
「あの世界だよ。いや、ちょっと違うな。あの世界に繋がった別な世界だ」
伊吹はにっと笑った。ハイペリオンとともに戦った時に見せた、子供っぽい屈託のない笑顔。よもぎが求めていた笑顔がすぐ近くにあった。
「何が、どうなってる? あの世界って、あれは私の夢だろ?」
「何言っちゃってるんですか。私達にはイブキさんとヨモギさんの力が必要なんです。厄介な事件が起こっちゃってるんですから!」
テテが窓枠に足を引っ掛けて登ってきた。よっと小さい声を上げて金髪の三つ編みを跳ねさせて伊吹の隣に降り立つ。
「やっぱり、あの世界のこと夢だったと思ってるの?」
伊吹がよもぎの肩に手を置いた。柔らかい手のひらから伊吹の温かさがじんわりとよもぎの心に染み透ってくる。
「だって、伊吹くん、そんな様子も見せなかったし、私だって、こんな怪我して……」
伊吹はとまどうよもぎをふわっと抱き上げた。
「うわ。軽くなったよ、よもぎさん。さらに痩せちゃってどうするのさ」
伊吹の顔がすぐ側にくる。よもぎは目をぱちくりとさせるしかできることがない。
「もしも異世界で巨大なゴリラを操る奏者として戦争してたなんて言い出しちゃったら、僕まで頭の病院に入院させられちゃうよ。大変だったんだからね、よもぎさんの怪我を交通事故のせいにするの」
「ちょっと、待ってよ。もう、何がなんだかわかんない」
「いいよ。わかんなくって。とにかくポータルをくぐっちゃえば理解するしかないんだから。覚えてる? よもぎさんが僕を無理矢理ポータルへ押し込んだ時のこと。今度は逆だね。僕がよもぎさんを押し倒す番だ」
テテは窓の外に向かって空中で手を泳がせるようにひらひらと腕を振るいだした。テテが手に持ったチョークが空中に見慣れない文字を書き込んでいき、瞬く間に真っ黒いポータルが窓の外に現れた。
「へへへ、イブキさんに私専用のメガネを作ってもらっちゃいました。もう世界がくっきりしっかり鮮やかに見えちゃいます。どんなポータルでもあっという間に作れますよ」
テテは眼鏡をくいくいと中指で動かして見せて、ひょいと窓枠に飛び乗った。
「さあ、イブキさん、まずはヨモギさんの治療です」
「そうだな。よもぎさん、まずはエルミタージュの世界に飛ぶよ。あいつもよもぎさんと会いたがっていたし。そこで怪我を治してから、今度はバローロの世界だ。新しいギターをあいつのデザインで作ってもらおう。そして、アトラミネイリアへ飛ぶ。急がなきゃな。異世界間戦争が始まる前に」
「ちょ、ちょっと待ってよ。まだ、心の準備が、できてないって」
抱き上げられたよもぎは伊吹の首にしがみつき、伊吹の温かさを分けてもらうように頬と頬を触れさせ合った。
「いいって、そんなの。行くぞ、テテ」
「ハイッ!」
「さあ、よもぎ。飛ぶぞ!」
よもぎの身体を抱く伊吹の腕に力がこもる。
間違いない、これは現実だ。よもぎは感じた。どれが夢でどれが現実か、そんなのは関係ない。伊吹と一緒にいる時間こそが、私にとっての現実なんだ。
「もう、わかった。よし、飛べ、伊吹!」
おわり
さて、この物語はこれでおしまいです。
長い間お付き合いしてもらって、ほんとにありがとうございます。
感想、意見、評価、批判、なんでも聞かせてください。
次の小説の参考にします。
それでは、また次の小説で。