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 湿気をたっぷりと含んで熱を帯びた空気が夜になっても冷えることなく、やけにむわっと肌にまとわりついてくる。蒸気が立ち昇っているのか視界が蜃気楼のようにゆらゆらと揺れて、真っ暗な町は熱帯夜の底でじっとりと寝汗をかきながら眠っているように見えた。

 こんもりと茂った裏山から見下ろす町は、街灯の明かりに規則正しく区画分けされ、時々走る車のヘッドライトが深海に潜むクラゲのように町を明滅させていた。

 熱に溶けたロウのようにドロリとした風が二つの声を運んでくる。

「ここは、どこなの? アタシの世界じゃなさそうね」

「……知らない」

「このガキが、なめたマネしてくれるわね。バラバラにしてやろうか?」

「や、やりたければ、やれば? その代わり、あんたは一生この世界から出られないんだから!」

「……アタシは本気よ」

「こ、こっちだって本気です! 私を殺したら、どうやってポータルを開けるつもり? 脅したって無駄です!」

「震えながら、強がっちゃって。じゃあ、その本気度を確かめてみようかしら」

「……な、なにを」

「脚を一本もらうわね。ちょっと細いけど柔らかくておいしそう。脚を食べてからもう一度聞いてあげるから。まだ言う事聞かないつもり? って」

「……い、いやです!」

 学園の裏山、異世界への扉が開いたあの小さなほこらの側。街灯の頼りない明かりがかすかに差し込む暗い森に、あまりに大き過ぎるカマキリのシルエットが浮かび上がる。

 小さな少女の影が後ろを向いて走り出すが、巨大なカマキリの方が素早かった。鋭い鎌を振り上げて、少女に覆いかぶさる。

 そこへ、稲光のようにスパークが起きて暗い森が一瞬だけ真っ白く光り、真っ直ぐに伸びた木々の影が右から左にさあっと流れた。

 長い髪の毛をコイル状にカールさせ、蛍光灯のように明かりを放つよもぎさんのガールブラストだ。

 瞬く間にカリアラとの間合いを詰め、しなる鞭のような動きで左袖で振り上げられた鎌をからめとる。

 テテが捕まるギリギリのタイミングだ。あぶねえあぶねえ。よもぎさん、そこまで演出する必要ないって。

「捕まえたよ、カリアラ!」

 よもぎさんが叫ぶ。驚いて振り返ったカリアラの複眼が、ガールブラストの放つ光をギラリと反射させる。

 カリアラは眼を大きく見開いて、と言っても複眼でまぶたもなさそうなので驚いているというよりもしっかりと見るためって感じだが、よもぎさんを睨みつけ、牙を横に広げて鎌をさらに振り上げた。

「おまえらが、どうしてここに!」

 身長はでかいが体重はよもぎさんくらいしかなさそうな相当ほっそりしたガールブラストの身体がぐいと持ってかれる。カリアラは空いているもう片方の鎌のかぎ爪を開いてガールブラストを捕まえようとした。

 しかしそうはいかない。僕がいる。黄金のハイペリオンを忘れてもらっては困るな。

 森の木々がぐにゃりとしなる。見えない力で押し曲げられ、そこに生じた空間が眩く光だす。黄金に輝く毛並みのたくましい腕がスパークをまとって突き出され、雷を思わせる電撃を撒き散らしてカリアラに向かって巨大黄金ゴリラが突進した。

「ようこそ、僕達の世界へ!」

 ハイペリオンが突き出した電気を帯びた拳がカリアラを弾き飛ばす。何者にも触れられないハイペリオンフィールドはカリアラとガールブラストを離れさせ、巨大カマキリ女は藪の中に突っ込んで行った。藪がきれいにカマキリの形に潰されて、宙に浮くようにひっくり返るカリアラ。

「伊吹くん、テテをお願い」

 よもぎさんが指をポキポキと鳴らしてギターを構える。大胆に緩めた赤ネクタイがよく映える白いシャツ。赤と黒のチェックのミニスカートからすらっと伸びる黒ストッキング。ギターを低い位置で構えるから自然と開いた胸元を強調し、きれいなラインの脚を開いてミニスカートのお尻を突き出すような格好になる。やっぱりかっこいいじゃないか。セクシーな戦闘ドレスよりもザ・女子高生の方が似合ってるよ。

「うん、任せたよ」

 僕はすぐ側で涙目になって両手を組み合わせていたテテの腕を引っ掴むと、裏山の小径、学園へと通じる小道を一気に駆け下った。

「イブキさあん! わかってくれたんですねえ!」

 テテが涙と鼻水でくしゃくしゃになった顔を僕の胸に押し付けてぐりぐりとする。あー、涙だけならいいけど、鼻水はやめてー。

「よくやったよ、テテ。たった一人で、怖かったろ」

「もうめちゃくちゃです!」

「よしよし。ぐりぐりはもういいから、早速ポータルを開けてくれ。二つだ」

「二つ?」

 くりっとした大きな瞳を僕に向ける。僕が貸してあげた眼鏡もぐちゃぐちゃだ。僕は眼鏡を取って、さすがに僕のシャツで拭ってやるにはちょっとってくらいアレだったので、テテの上着をちょいと拝借して、眼鏡をきれいに拭ってやる。

「一つはカリアラの世界へのポータルだ。速攻で元の世界へ帰してやる」

 うんうん、と高速頷きをするテテ。身長差のあるテテの上着を摘んでる形なので、あんまり動くと見えちゃうのがおヘソどころじゃなくなるぞ。

「もう一つはテテの世界へのポータルだ。そしてポータルを開けたらテテはすぐに元の世界へ帰るんだ。出来るな?」

 きれいになった眼鏡をテテにかけてやる。その眼鏡の奥にある大きな青い瞳が不安気に揺れていた。

「じゃあ、イブキさんとヨモギさんは、どうするんですか?」

 さすが魔女っ子。頭の回転が早い。

「どうするも何も、ここは僕達の世界だ。それより話は最後まで聞け」

 テテの柔らかいほっぺたをばしっと挟み込んで真正面から見据える。ほっぺたにむぎゅっと押し出された小さな唇がぷるぷると動いて何かを言いたそうだが、言わせない。

「黙って聞け。テテが元の世界に戻って、そっちの時間で一ヶ月経ったら、またポータルを開けて迎えに来てくれ」

 テテの目がキラリと輝いた、気がした。

「これが僕達の学校だ。今は夏休み中だけど、昼間はたいていここにいるから」

 テテの首をぐりっと後ろに曲げる。ここは運動部がランニングに使う裏山の散歩道の入り口、そして道路を跨いですぐに学園のグラウンドだ。

 その時一台の車がけっこうなスピードで僕とテテの目の前を通り過ぎて行った。久しぶりの科学文明の明かりは鋭い眩しさで、僕とテテの影がぎゅーんっと伸びて後ろに消えていく。

 テテの大きな目がさらに大きく見開かれて、遠ざかっていくテールランプをじーっと大きな目で見つめる。そして僕を見て、そしてテールランプを二度見する。

 あー、なんて説明しようか。いいや、めんどくさいからスルーだ、スルー。

「さあ、早くポータルを開くんだ! よもぎさんがカリアラにやられちゃう!」

「ハ、ハイ!」


 さあ、ハイペリオン。今度こそ、終わらせようか。

 侍の刀のように腰に差していた弓を抜く。コントラバスにそっとあてがい、弦の表面をゆっくりと、しかし強い意思を込めて滑らせる。

 暗い森に溶け込むようにコントラバスの低い音色が流れ出し、木々の間を僕の意思で満たしていく。

 曲は、静かな夜にふさわしいG線上のアリア。

 ぐずるテテを追い立てるように元の世界に送り返し、僕は裏山の入り口に一人で曲を奏でている。この真夜中の世界で僕の音楽を聞いているのはこの森だけだ。

 側には暗い夜の空間に開いた真っ黒い穴、カリアラを送り返すポータルがある。このポータルに奴を叩き込めば、長かった夏の夜の夢も終わる。

 森の木々が不意にざわめき、ばちっと火花を散らした。そして火の玉みたいに赤く輝く光が吹っ飛んできた。

 よもぎさんを抱きかかえたガールブラストだ。

 僕の背後に雷が落ちたように稲妻が光り、その稲妻が巨大なゴリラの輪郭を形作る。やっぱり自分の世界だと音楽のイメージも強くなるのかな。ハイペリオンもガールブラストも電気を帯びたみたいにスパークを纏っている。

 ハイペリオンが両手を前に突き出すと、ガールブラストは目に見えないクッションにぼふっと包まれたように空中で止まり、その反動でよもぎさんを地面に落っことした。

「ひゃんっ」

 かわいい悲鳴を上げて尻餅をつくよもぎさん。

「あ、また新しい傷作っちゃって!」

 しなっと横たわるよもぎさんは、なんて言うか、こんな時にこんな事言うのも何だけど、いろいろな意味でやばげな格好だった。

 じっとしていても汗が滲むような蒸し暑さの中を戦っていたせいで汗でシャツが素肌に張り付き、そのシャツの肩口が破けてちらっと白い肌と下着がはだけている。肩には細かい引っ掻き傷が血を滲ませシャツの一部を赤く染めていた。黒いストッキングはあちこち伝線しまくってダメージジーンズみたいになっている。太ももの包帯が乱れているけど、傷は開いていないようで白いままだった。

「ふう」

 ギターを投げ捨てるように地面に置いて、大きく息を吐き捨てるよもぎさん。破けたシャツをたぐり寄せて胸元を隠して僕を見る。

「選手交代。やっぱり私じゃダメだ」

 よもぎさんが森へと視線をやった。木々がわさわさと揺れて、そこに大きくてひょろ長い姿が現れた。カリアラだ。

 ぱっと見、そんなにダメージを受けているようには見えない。でも肩で息をして、両手の鎌を力なくだらりと垂らしている。煉獄オルガンを出していないところを見ると、やはり燃える犬を出せないでいるのか。

 カリアラは僕の姿を見つけると、牙を食いしばるような表情を見せた。

 よもぎさんのガールブラストと生身で戦ってるくせにほとんど傷を負っていない化け物だが、さすがにハイペリオンとの戦闘は無理だ。100%かなう訳がない。それはカリアラも知っているだろう。

「なあ、カリアラ」

 僕はカリアラに声をかけた。カリアラの逆三角形の頭がくりっと揺れて、乱れた髪の隙間から伸びる触覚が僕の方を向く。

「これが最後だ」

 じっとぼくを見つめる複眼が、すぐ側の道路を走る車のライトを反射させた。

「ここにポータルがある。おまえの世界に繋がっているポータルだ」

 車は僕達に気付く事なく通り過ぎて行った。また静けさがじんわりと染みてくる。

「大人しく自分の世界に帰れ。おまえでは僕には勝てない」

 よもぎさんがようやく立ち上がって僕の肩に手を置いた。

「伊吹くんは優し過ぎる。もういいから、へこませてやれ」

「もう十分へこんでいるように見えるよ」

 最後に力強く弓を押し切って曲を終わらせる。僕の背後に仁王立ちしていたハイペリオンが長い腕を地面につけて前傾姿勢を取った。顎を突き出し、鼻の頭にしわを寄せて、鋭い犬歯を剥き出しにする。

「やる気なら、来いよ」

 カリアラは僕達の足元に視線を這わせて、僕を睨み、ハイペリオンを見上げ、ポータルを見つめ、そしてまた僕と目を合わせた。

「……生意気、だぞ」

 そう呟くと、カリアラは力無く一歩踏み出した。地面につきそうなくらい両手の鎌をだらりと垂らし、疲れ果てたマラソンランナーのように身体を前後に揺らしながらゆっくりとポータルに足を進める。

 すぐ隣に立つよもぎさんの緊張が解けるのを感じ取れた。張り詰めていた空気がふっと柔らかくなる。足の力が抜けたのか、よもぎさんががくっと崩れかかった。僕はよもぎさんの腕を取り、肩を支えた。

 カリアラは視線を落としたままゆっくり前のめりになって鎌を地面に引きずるようにして歩いている。

 僕はよもぎさんに肩を貸して、僕にしなだれかかるよもぎさんを支えたまま一歩二歩とポータルから離れた。カリアラはそんな僕達に一瞥もくれずに足を引きずってポータルに向かっている。

 また一台の車が通りかかった。ヘッドライトの光が僕達の足元の影をさらっていく。その時、僕とカリアラの間に光を反射させるものがあった。よもぎさんのエレキギターだ。

 カリアラが足を止めた。

 僕はコントラバスを弾こうとしたが、寄りかかるよもぎさんの身体に腕を押されて空白の時間が生まれてしまった。


 一瞬の出来事だった。


 ヘッドライトが森を白く照らす。


 カリアラが腕を伸ばし鎌の先でギターに触れる。


 僕の指はまだ弦に届いていない。


 弦が引きちぎれる断末魔のような音が響く。


 火花を散らせたギターから真っ黒い犬の形をした影が飛び出してくる。


 ハイペリオンが動くよりも先に大きな犬の影が僕に迫る。


 よもぎさんが僕を押す。


 真っ黒い犬がよもぎさんの腕に食らいついて身体ごと持っていく。


「うおおおおっ!」

 僕は叫んだ。自分でも気付かずに叫んでいた。爆発した感情がそのまま叫びとなってほとばしった。

 倒れかかりながら指に引っかかったコントラバスの弦を弾く。ハイペリオンは音も立てずにものすごい勢いで両手で挟むようにカリアラの身体を強く打った。反発する力で圧縮された空気がカリアラの全身を襲い、逃げ場を失った膨大な圧力が一気にカリアラの外骨格を打ち砕く。

 自然と身体が動いていた。僕は叫びながらカリアラに突進し、僕自身のハイペリオンフィールドで立ちすくむカリアラをポータルへと弾き飛ばした。

 ポータルが動かなくなったカリアラを飲み込む。

 振り返ると、真っ黒い犬の影は消え失せ、よもぎさんの小枝のように細い身体が宙を舞い、ヘッドライトの光の中へと消えて行った。

 次の瞬間、鈍い衝突音、車のフロントガラスが砕ける音、夜を切り裂くようなブレーキ音、そして柔らかい何かが落ちる音が聞こえた。

「よもぎさんっ!」

 自分の身体が誰か別の人間のもののようで思うように走れない。悪夢の中で走っているように全然前に進めない。

 無我夢中で叫びながら走り、ハイペリオンでフロントガラスが砕けた車を弾き飛ばし、アスファルトに横たわったまま動かないよもぎさんに飛びつく。

「よもぎさんっ!」

 うつ伏せのまま動かないよもぎさんは僕の声に応えてくれない。

「よもぎさんっ! よもぎさんっ!」

 僕は叫ぶのを止められなかった。

「よもぎっ!」



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