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空飛ぶ凶暴な甲殻類、アンゲリカ。中世ヨーロッパの騎士団を思わせるくすんだ光沢の鎧で身を包み、古代魚のようなギザギザした顔付で、力強いがっちりとした前脚と皮膜のような翼で空を滑るようにして獲物である草食動物を襲う、らしい。そしてそのグロテスクな外見とは裏腹に肉はすごくジューシーで美味しいらしく、特にステーキはよもぎさんのお墨付きだ。
「僕もあんたに触れないけど」
ハイペリオンの手のひらに隠していたアンゲリカはようやく真っ暗な檻から解き放たれて、苛立った鳴き声を上げていきなり目の前に現れたカリアラに牙を剥いた。
「コイツなら話は別だ」
閉じ込められて気が立っていたアンゲリカは自分よりも倍以上大きな巨大カマキリ女の細い体に組み付いて、尻尾を振り回してカリアラの身体のバランスを奪うとそのまま地面に押し倒した。
「何よ、これは!」
僕がハイペリオンの手の中にテテを隠して守っていると思ったんだろうな。飛び出してきたのは魔法少女じゃなくて空飛ぶ甲殻類だ。そりゃ驚くって。
カリアラも腰の羽根を広げて土埃を舞い上げて立ち上がろうとするが、四本のかぎ爪を持ったカニのようなアンゲリカの太い前脚がそれを許さない。カリアラの腕と羽根を押え付け、昆虫の外骨格の隙間、柔らかそうな脇腹にガブリと噛み付いた。
代理戦争が終わったら、たぶんメインディッシュとして晩餐会の大皿に乗るはずだったんだろうが、特別に逃がしてやるから僕の武器となって戦え、アンゲリカ。
「テテ、ポータルの準備を!」
僕は組み合っているカリアラとアンゲリカから距離を置いて、カリアラのトタン板を波打たせたような叫び声に負けないように大声を上げた。
「ハイ!」
僕の声に反応してシェヌー小屋の影からぴょこっとおでこと眼鏡を出すテテ。魔法使いっぽいローブの下から女の子っぽいポーチを引っ張り出して一本のチョークを取り出す。
「少しだけ待っててください!」
「ああ。一発で開けろよ」
時間稼ぎならお手の物だ。まあ、直接物理的攻撃ができないハイペリオンには時間稼ぎしかできないって説もあるけど。
カリアラの燃える犬が炎を吹き上げながら吠え、真っ直ぐにアンゲリカ目指して突進した。
でも、少し考えが甘いんじゃないか、カリアラ。僕が何もせずにぼーっと見てるとでも思ったのか。
ハイペリオンがボクシングのストレートパンチのように上半身を真っ直ぐ前に突き出して燃える犬の突進を止めた。
炎と熱が辺りにばら撒かれて、熱風が僕の前髪をさらう。燃える犬は地面を掻きむしるように前脚をめちゃくちゃに繰り出すが、ハイペリオンフィールドを打ち破ることはできない。その場で足踏みするだけだ。
僕はコントラバスの弦を弾きながらカリアラを見下ろした。カリアラは両手の鎌でアンゲリカを押しのけようとして、ふと、僕と視線をぶつけ合わせた。複眼がきょろっと動く。
「大人しく自分の世界に帰るなら、助けてやるけど?」
「生意気言わないでくれる? この程度の、じゃれ合いで!」
カリアラが煉獄オルガンをかぎ爪でひっかくようにして奏でた。オルガンのパイプから炎が渦巻いて吹き上がり、カリアラとアンゲリカをまるまる飲み込んだ。そして目に見えない熱波が押し寄せてくる。僕はジャケットで上半身をかばうようにして後ずさった。やっぱり炎そのものは弾けても熱は別か。
「イブキさん! 上!」
悲鳴に近いテテの声。思わず振り返ってしまう。テテが目をまんまるくして手に持ったチョークで僕の頭上を指していた。上?
燃える犬だった。ハイペリオンフィールドに阻まれていた燃える犬が高く大きくジャンプし、燃え盛る炎の塊となって僕とテテに落下しようとしていた。
「テテ、来い!」
ハイペリオンを飛ばせてテテを呼ぶ。さすがはアルテア・パルテスタの再来。ポータルを開く時間もくれないか。
空中でハイペリオンが炎の塊を触れない壁でがっちりとガードし、そのままプロレス技の投げっぱなしジャーマンスープレックスのように後ろに放り投げた。
テテが慌てて駆け寄ってくる。
「しぶといな!」
炎の塊が大きな犬の形に戻って宮殿の屋根に舞い降りたところへ、ハイペリオンを叩き込む。反発する力で空気を蹴って空中で方向転換して、くるり、前方一回転。遠心力を活かして組んだ両拳で燃える犬の背中を撃ちつける。
直接は触れないけど、勢いをつければ反発する力で十分に吹っ飛ばせる。叩きつけられたハイペリオンフィールドは燃える犬の身体から宮殿の屋根に伝わって宮殿そのものを大きく震わせた。
轟音を上げて波打つ石造りの宮殿の屋根。反発する力が宮殿の構造をバラバラに弾き飛ばす。燃える犬の姿が宮殿の中に沈み込み、黄金のゴリラがそれを追って宮殿の屋根をさらに弾く。
まるで強風に巻かれる発泡スチロールだな。子供が遊びで作った発泡スチロールの城が一陣の風でバラバラに解体されるみたいに、今まで一度も外敵に攻め込まれたことがなかった兄王の宮殿の一角がシャボン玉が破けるように消し飛んでいく。
「やり過ぎたかな」
ハイペリオンフィールドの影響下にある大小さまざまな宮殿の破片がスーパーボールみたいにポンポンと跳ねながら舞い落ち、やがてその効果が切れると重力に引かれて墜落し、まるで砲弾のように宮殿を瓦礫の山へと変えていく。
そんなくるくると空を舞う瓦礫の一つが急に弧を描く軌跡を変えて真っ直ぐに僕とテテに向かって来た。
まずい。この軌道は直撃コースだ。触れない瓦礫だから痛くはないだろうけど、弾かれたらどこに飛ばされるかわかったものじゃない。
いやいや、待て待て。なんであの瓦礫だけ、僕に真っ直ぐ向かってくるんだ?
反射的にカリアラが倒れていた方に視線が行く。そこには火傷したように赤くなって煙を上げるアンゲリカが横たわっているだけだった。
僕は全身の血が冷たくなるのを感じた。何をやっているんだ、僕は。優位に立って、すっかり油断しまくってるんじゃないか。
飛んで来る瓦礫はもう目の前だ。テテが 僕に抱きついて来る。僕はテテを背後に庇い、とにかく瓦礫をかわそうと身構えた。
そして、飛んで来る瓦礫の後ろに、カリアラの羽根を見つけた。
「気付くのが遅いよ!」
カリアラの勝ち誇った叫び声が聞こえると同時に僕の身体は衝撃を受けて後方に弾かれた。目に見えない大きな風船がぶつかってきたかのように柔らかいショックが全身を包み、視界がひっくり返って青い空に浮かぶ灰色の雲が何度も激しく回転する。
テテの甲高い悲鳴が聞こえて、僕の腰に巻き付いていたテテの腕の感触が消える。次の瞬間に高速エレベータが目的の階に到着した時のような身体が持ち上がる感覚が押し寄せてきて、どしっとした重みの瓦礫が僕に一気にのしかかって来た。
「油断したわね」
目眩で歪む視界に、のそりと大きなカマキリが覆い被さってきた。
「アタシは君と違って慈悲深かくないから、泣いたって許してあげないわよ」
霧が晴れるように視界がクリアになると、目の前に大きな複眼で僕を真っ直ぐに見下ろしているカリアラがいた。堅い外骨格が炎の熱さを遮ってアンゲリカみたいに火傷のダメージはほとんど受けていないように見える。でも脇腹にはアンゲリカに噛まれた深い裂傷が見え、片手を傷に添えて身体を少し斜めに構えて立っていた。
僕の下半身は瓦礫の下で、そこへカリアラが脚をかけて押さえ付けている。ラッキーなことに小さな瓦礫も一緒に下敷きになっていて、それが支えになって重過ぎて潰されるってことはなさそうだけど、僕の力ではカリアラが乗ったこの瓦礫を押し除けるのは不可能だ。
だからと言って弱味を見せちゃダメだ。あえて上から目線で行く。
「僕はそんなおまえでも許してあげるよ。さあ、脚をどけろよ」
カマキリが笑う。
「ほんっと、生意気で面白いコね。こんな状況でまだ強気なの?」
カリアラが瓦礫に全体重でのしかかって来た。太ももが強く圧迫されて膝がぎしっと軋むのを感じた。
「まあ、安心して。君は最後に食べてあげるから。まずは君の目の前で君の恋人をバラバラにして食べちゃう。その次はあのちっちゃい金色の髪のコね。そしてみんなを食べた後に、デザートとして泣き喚く君を食べてあげる」
カリアラが鎌をすーっと伸ばし、動けない僕の喉元をくすぐる。コントラバスを鳴らすには、瓦礫の下敷きになったこの状態じゃ難しいな。ハイペリオンも遠くにいるし、すぐにはこいつをどかすのは無理か。
「さあ、どうする? 泣き叫んで謝ってみる? いい泣きっぷり見せてくれたら心変わりしちゃうかも」
僕は自由な右手でカリアラの鎌をぱしっと払った。
「いいからどけって。こんなみっともないところ、よもぎさんに見せられないだろ」
「かわいくないな。腕の一本でも味見してあげるわ」
カリアラが右手の鎌を振り上げた。そして僕が何かを思うよりも早く、コントラバスを持つ僕の左腕目掛けて振り下ろした。
あっ。
と、声も出せなかった。振り下ろされた鋭い鎌の動きが止まり、カリアラが一歩後退して逆三角形の頭をくりっと傾げさせても、僕には何が起こったのか理解ができなかった。
何が、どうなっている?
音楽が鳴っている。
僕の左腕は、まだ繋がっている。
「何? この曲は」
この曲は、ベートーヴェンだ。交響曲第5番ハ短調作品67「運命」だ。そしてようやくケータイが鳴っているんだと気付いた。このコール音は、よもぎさん。
「ごめん、カリアラ。ちょっと待ってくれ」
僕はジャケットの胸ポケットからケータイを取り出した。
「はいはい、もしもし?」
『生きてる?』
よもぎさんの怒ったような冷たい声。
「かろうじて」
『カマキリ女と変わって』
僕はカリアラにケータイを差し出した。カリアラはくりっと首を傾げるだけで手を伸ばそうとすらしないで立ちすくんでいる。そうか、ケータイなんて知ってる訳ないか。
「カリアラ、よもぎさんが話したいって。大丈夫だからこの機械に話しかけてみろ」
ほら、とケータイを持つ右腕をぐいとさらに前に差し出してやると、カリアラはやっと理解できたらしくケータイを受け取って恐る恐る顔の側に持っていった。
『ハーイ、アルテア・パルテスタの再来さん。さっきはよくもやってくれたな』
ここまで聞こえて来るよもぎさんの声。こういう通る声の時は、やっぱり怒ってる時だ。
「あら。黒髪のカノジョね。へえ、側にいなくてもお話しできる機械か。便利なものね」
ケータイを使うカマキリ。なんてシュールな絵だ。
『そんなことより、人の彼氏を踏みつけないでくれるか?』
「ん? どこからかこっちを見てるのかしら? まあ見てなさい。あなたの彼氏の腕、アタシが先に味見してあげるから」
『ダメだ。イブキくんの身体はもう全部私のものだ。ちょっとでも触ったら許さない。全力で潰してやる』
「やれるものなら、やってごらん」
『そうしよう。上を見ろ』
カリアラがケータイを僕に投げ返して、くりっと逆三角形の頭を上に向けた。僕もつられて空を仰ぎ見る。
何かが、視界のぎりぎり上の方ではためいているのが見えた。なんだろう、あれは。
僕は後ろを見るくらいに反り返ってみた。
赤と黒のチェック模様の布がひらひら。そこから黒くて細長いのがすらっと伸びている。あっ、あれは制服のスカートだ。膝上十数センチに改造された学園制服のミニスカートだ。
よもぎさんが半分崩れた宮殿の屋根にエレキギターをかまえて仁王立ちして風に吹かれていた。
まぶしい白さの半袖のシャツ。胸元のボタンを外して学園指定の赤いネクタイを緩くしめるよもぎさん流のチラ見せスタイル。スカートは短く、でも冷房が効いている特別教室だと冷え過ぎるからと夏でも黒いストッキングをはいている長い脚。ストッキングの上からでも脚に包帯を巻いているのが見えるのが、また少しエロスな感じだ。
僕はよもぎさんのミニスカート制服姿を下から見上げている訳だが、とりあえず眼鏡をテテに貸したままなのを一瞬後悔した。
「さあ、ライブを続けようか」
よもぎさんがエレキギターを振りかざして瓦礫の山から舞い降りた。