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かすかに遠くに聞こえる乾いたモノが擦れる音。落ち葉が風に吹かれてアスファルトをかすめる音に似ている。錆び付いた鉄を含んだような空気。意識すればするほどねっとりとまとわりついてくる生臭い風。
口許に人差し指を持ってきてテテに目配せする。ずり落ちる眼鏡を手で押さえてテテが口を真一文字に結んだ。それから慌ててキョロキョロとしだし、ひそひそ声で静かに言う。
「……どうしたんですか?」
僕はテテを小さく屈ませて、僕も流し台の影に身を潜めた。厨房には三つの出入り口があるようだ。一つはいま僕達が入って来た勝手口。もう一つはおそらく食堂へと続く大きな両開きの扉。後に一つは、酒樽っぽいものが積まれた壁際の奥にある金属の扉。日当たりが悪そうで、まさに冷暗所ってイメージだ。あそこは食糧庫か。
「何か、イヤな感じがする」
コントラバスを盾みたいに構えてそうっとその扉に近づいてみる。
「この扉の先は?」
「食糧庫。……たぶん」
気配はない。カサカサ音ももっと遠くからだ。僕はくっついてくるテテを一歩下がらせてから音を立てないように慎重に扉を開けた。
その途端にむわっと生臭さが押し寄せてくる。腐った肉の臭いとかじゃない。むしろ新鮮な肉の臭いだ。
「あの奥は?」
僕とテテの視線の先にもう一枚扉があった。食糧庫を貫通するように僕達が入った扉と対になっている扉だ。食糧庫には木箱や布袋が積まれているが、特に目立った異常はない。
「わかんない」
僕もテテも自然と声を最小限にひそめてしまう。カサカサ音がさっきよりもハッキリ聞こえ出した。いるな、この先に。
僕は抜き足差し足扉に近付き、ゆっくりゆっくりノブをひねり、扉の隙間から奥を覗いた。
食糧庫には窓がなく暗かっただけに、扉の向こうの明るさは意外だった。外か、と思うくらい明るいそこは、厩舎のように干し草が敷いてある広い空間だった。
「いない、か」
僕自身を安心させるためにつぶやいてみる。何頭かの四本足の動物が繋がれているが、巨大なカマキリはいない。
「あれは何?」
痩せた首の短い馬みたいな牛みたいな茶色い奴が数頭うずくまっている。
「シェヌーです。……たぶん、代理戦争後の晩餐会用に仕入れてたんだと、思い、ま、……す」
テテの言葉がさらに小さくなって消えて行く。テテの視線を追うと、厩舎の隅っこに何か引きずったような跡が見える。少し首を伸ばして見ると、柱の影にシェヌーの首がぶら下がっていた。切断してから時間が経っているのか、もう血が止まっているようで、まるで前衛的なオブジェのようにぶらーんと宙吊りになっている。
「……うわ。カリアラ、かな?」
「……たぶん。料理するなら、あんな風には潰しません」
カリアラも体力回復のためにこの食堂に逃げていたのか。ラッキーと言うか、アンラッキーと言うか。ラッキーと言うなら、探す手間が省けたってとこだ。下手に町に下りていたらとんでもない事態になっていた。アンラッキーな面は、奴が体力回復中ってとこか。こっちは相変わらず直接攻撃の手段は持っていない。ポータルを開いてそこへ落とすって方向で攻めるが、まだ何の準備もできていない。
「とりあえず、あっちにいるのは確かだな。お食事シーンは見たくないが」
厩舎のさらに奥に半開きの扉がある。何かを引きずった跡はそこへ繋がっている。巨大カマキリが馬みたいな動物をモリモリ食ってるシーンなんてごめんだ。一生モノのトラウマになる。
でも、いつまでもここでこうしている訳にはいかないぞ、奏者伊吹。さあ、やるなら今だ。食事に夢中になっている隙に一撃を食らわせてやるんだ。
「ん? あっちは?」
飛び出そうとしたが、壁の角度で今まで見えていなかったもう一つ扉があった。鉄格子のように頑丈な扉だ。カリアラがいるだろう扉とは別な角度で、厩舎の奥で窓もなく真っ暗になっている。眼鏡をテテに貸してるせいもあってぼんやりとよく見えない。
テテが僕の背中に隠れて恐る恐る首を伸ばす。
「あっちは、たぶん……」
やるなら今しかない。
僕はもう一度心の中で自分に言い聞かせた。よもぎさんと合流する前に一気にけりをつける。
僕は軽く足を開いてコントラバスを抱いてカリアラの背中に向き直った。
よっぽど食事に夢中なのか、それとも余裕の現れなのか、僕に背中を向けたままちらっと複眼をこっちに向けただけで食事を続けるカリアラ。
背後にハイペリオンを従えてるってのにこの余裕は。やっぱり相当なめられてるのかな。少しムカつく。でも落ち着け、僕。ふうと大きく深呼吸。
「……後ろから襲わないなんて、ずいぶん紳士的なのね」
カリアラが背中を向けたまま言う。口をモグモグさせながら喋るなんて、ずいぶん淑女とはかけ離れてるんだな。
「一応、紳士だから。食事が終わった瞬間にぶん殴るよ」
「その触れない金色の獣で?」
くりっと複眼がこっちを向く。逆三角形の頭に一応ヒトっぽい頭髪らしきものもあるけど、やっぱりまともに見つめ合うと巨大昆虫の怖さがじわっと来る。
「うん。触れないけど殴る」
「どうぞお好きに。君の相手してるとイライラして疲れるから、アタシは他にいくわ。まずは君の恋人を食べちゃわないとね」
「できる訳ないだろ。おまえ、僕より弱いんだから」
モグモグと動いていたカリアラの後ろ姿がぴたりと止まる。
「そしてよもぎさんは僕より強いんだ。おまえに勝ち目はないよ」
「ほんとに、人を苛つかせる、わね!」
カリアラが振り返りざまに食いかけのシェヌーを投げつけて来た。食べ物を粗末に扱うなって。軽いスプラッタじゃないか。
ハイペリオンに両腕を突き出させる。両手をお椀の形にして上下に重ね合わせているから大きくは振るえないが、ガードにはこれ十分だ。
飛び散ったシェヌーの血が、僕の周囲にドーム状の形に散らばる。こうすると触ることができないハイペリオンフィールドが目で見ることができるな。
「そういえば、さっき小さな子と一緒にいたわよね?」
カリアラの足元がぐつぐつと煮えたぎるように蒸気を吹き出し、地獄から煉獄オルガンが浮かび上がって来た。
「さあ?」
カマキリはかぎ爪を大きく振りかぶって鍵盤を叩きつけた。
「またその獣の手の中に隠したんじゃないの?」
煉獄オルガンがパイプから炎を吹き上げ、その炎が大きな獣へと形作られる。燃える犬だ。
「さあ?」
「よこしなよ!アタシが先に味見してあげるからさ!」
「やってみなよ」
煉獄オルガンの枯れた耳障りな音が弾け飛ぶ。燃える犬がぶわっと爆発するように燃え広がり、一気に距離を縮めてハイペリオンに噛み付いてきた。僕一人をまるまる飲み込めるほど大きく広げた口には炎の中から伸びる白い牙。
僕はハイペリオンの両手を突き出させた。両手を組んだまま殴りつけるように。僕のコントラバスの腹に響くベース音と、カリアラのオルガンの濁った和音が激しく絡み合う。
燃える犬が金色ゴリラに噛み付く。ハイペリオンには何者も触れられない。触れられない、はずなのだが、燃える犬の噛む力があり過ぎてその圧力でハイペリオンの腕がぐっと押さえつけられてしまう。空気ごと固定されたようなものか。
「さっきはお腹減っていたからね。アタシの実力を見せてあげるわよ!」
「でも、結局触れないじゃないか!」
ハイペリオンの腕を左右に大きく振らせる。コントラバスの曲調を変え、反発する触れない力からスライドする触れない力に転換し、燃える犬の大きな顎の圧力からずるっと抜け出した。でも、勢いがつき過ぎてハイペリオンがバランスを崩して肩膝をついて、おにぎりを作るようにまるっと重ねた両手が少しずれてしまった。
「君に守りきれる?」
カリアラがニヤリと笑い、僕にじわじわと近付いてくる。
「そんな小さな身体で、細い腕で、何もかもを守ろうだなんて」
かぎ爪を伸ばす。パキパキと関節を鳴らしてギザギザだらけの鎌を曲げ伸ばしつつ、ハイペリオンの両手で作ったカプセルに腕を伸ばす。
「守ってみせるさ」
まさかここまで思い通りに動いてくれるとは思わなかった。これも僕の演技力の賜物か。元の世界に帰れたら、演劇部にも顔出ししてみようか。
「何度も言ってるように、あんたじゃ僕には勝てないよ」
ハイペリオンの拳を解く。
ずるりとはみ出てきた長い尻尾。それは鉄板でできたエビの尻尾のようで、しなやかに力強くぐるっと回された。二本のかぎ爪がついた腕が広げられ、皮膜のような翼が広げられ、太く短い脚がハイペリオンの拳を蹴って外に飛び出した。堅い鎧で身に纏った、大きな頭のトカゲのような姿。まるで蟹のような甲殻類とトカゲのような爬虫類が合わさった姿。牙ではなく、外殻がそのままギザギザになった口を大きく開き、甲高い鳴き声で叫ぶ。
空を飛ぶ獰猛な甲殻爬虫類、アンゲリカだ。
「さあ、アンゲリカ! おまえの出番だ!」
ハイペリオンの手で隠し持っていたアンゲリカがカリアラに飛びかかった。