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オルガンはあまり詳しくないけれど、確か足踏み式だと踏み板で空気を送り込んで、アコーディオンみたいに空気で音を奏でる楽器なはずだ。
カリアラが何もない空間から出現させたオルガンは、足元がごうごうと燃え盛る炎となっている。まるでオルガンをキャンプファイアーで燃やしているみたいだ。このカマキリの話だと地獄と繋がっているとかなんとか。ほんとかどうかわからないが、その地獄の炎とやらがパイプから取り入れられ、オルガンの中を通って後方にバックファイアーみたいに排出されている。
地獄の炎に焼かれるオルガンを弾く女っぽいプロポーションのカマキリだなんて、どこのヘビーメタルバンドのCDジャケットだよ。
「どうしたの? かかってきなさいよ」
わんわんとエコーがかかった声で僕を誘うカリアラ。
『伊吹くんだから大丈夫だと思うけど、油断するな。相当速いから』
イヤホンからよもぎさんの低い声。
「うん、手加減する気ないし、最初から全開で行くよ」
一歩、大きく踏み出す。巨大黄金ゴリラを背後に従えて、僕はまた一歩深く踏み込んだ。じゃり、と靴の裏で瓦礫の破片が細かく砕ける。じゃり、じゃり。一歩近付く度に乾いた足音が鳴る。カリアラは逆三角形の顔をかぱっと開くように牙を大きく開いて両腕を振り上げた。
「ちっちゃいくせに、いい度胸してるわね」
そのまま両腕を鋭い角度で振り下ろした。両手で合計8本の指で鍵盤を強く叩く。煉獄オルガンのパイプから激しく炎が吹き上げられ、カリアラの背後に控えていた燃える毛の巨大犬が牙を剥き出しにして吠えた。
「太くて芯のあるいい音だな」
でも、僕を不快にさせる音だ。僕はコントラバスの高い音の弦を軽く弾いた。ハイペリオンが足元に転がっていた僕の身体くらいありそうな大きな瓦礫を弾き飛ばす。
瓦礫はものすごいスピードで巨大な燃える犬にぶち当たり、しかしハイペリオンフィールドの効果で決して触れることなく、そのまま燃える犬を吹っ飛ばした。ダメージは与えられないが、遠くへ跳ね飛ばすくらいはできるさ。
「あのさ、カリアラ」
目を丸くしたカマキリにもう一歩近付く。カリアラは僕が近付いた分だけ後ずさった。
「なにかしら?」
「長く音を出し続ける時は、終わりに注意しないとダメだ。切れが悪いとただの雑音だ」
カリアラの触覚がピクッと動く。髪の毛がぶわっと広がる。怒ったかな?
「あら、アタシの音楽がお気に召さなくて?」
今度は鍵盤を激しく連打した。低いトーンから徐々に音階を駆け上がって行く。壁際まで吹っ飛ばされた真っ赤に燃える犬が姿勢を低くして突進して来た。
僕も連打だ。コントラバスとして弾く時は弓を滑らせるから音の連打は難しいが、アップライトベースとして指で弦を弾くピッチカート奏法ならお腹に響くベース音を連打することもできる。
「食らいつけっ!」
カリアラの感情をそのまま現したような業火を纏った犬が真っ赤な口に真っ白な牙を覗かせて僕に食いかかって来た。
でも僕は自分のペースを崩さない。カリアラのオルガンの音よりも少し早くベースを打ってやる。
「まだまだだね」
巨大な犬がぴたりと動きを止めた。僕を噛み砕こうと大きく広げた口にハイペリオンの豪腕が突き刺さったからだ。
噛み付こうと口を閉じるが、ハイペリオンには決して触れることが出来ない。あぐあぐと顎が外れたみたいに口を開け閉めするしかない。
「セッションの時、誰がマスターか決まってなければ一番お腹にずしっと来る音を出す奴を基準にすべきだと思うよ」
「何のこと?」
「僕の音の方がリズム早かったの、気付いてた?」
ハイペリオンの太い腕を喰らい付いている燃える犬ごと振り上げる。
「オルガンのメロディよりベースのリズムの方が聴く側にダイレクトに伝わる。だからカリアラは僕のベースに合わせなきゃダメだ」
振り上げた腕で燃える犬を強引に投げつける。すぽんと外れた燃える犬は壁に激突してそのままの勢いで塔の外に吹き飛んで行った。
「フリーのセッションだろうと、みんなが自分勝手に演奏したって調和は生まれない。誰か上手い人に引っ張ってもらわなきゃな」
びしっとカリアラを指差して決めてみる。
「生意気なこと言うのね!」
カリアラが両腕の鎌を振りかざして羽根を広げて突っ込んできた。だけど奏者である僕にも当然ハイペリオンフィールドは有効な訳で、やっぱり僕にも触れることはできない。カリアラの鋭い棘がある鎌も僕の腕を捉える前に空中で止まり、何重にもなった大きな牙も空を噛んだ。
「直接攻撃は無効だってまだ気付かないのか? 頭堅い奴はいい演奏できないぞ」
「なんで触れないのよ!」
「おまえ僕の言ってること聞いてる? そんなんだからダメなんだよ」
この巨大ゴリラの扱いにもようやく慣れてきたのだが、ハイペリオンには2種類の触れない力があるのがわかった。
一つは反発する力。強い磁力のようにぐいと押し返して来る。この力を使えば地面に立ったり、壁を蹴って飛んだりできる。建物を壊したりするのもこの力だ。もう一つはスライドする力。摩擦がなくなったかのように滑ったり受け流したりできる。狭い隙間をにゅるって通り抜けるのもこの力だ。
「最初からやり直しだ」
僕自身に反発する力を、カリアラにはスライドする力をかけてやる。僕は軽く地面を蹴った。それだけでぽーんと高く浮かび上がる。そしてカリアラと目線の高さを合わせ、女性には失礼だけどカリアラの膨らんだ胸に蹴りを入れる。それだけでカリアラは崩れた壁際に吹っ飛んでいった。
『伊吹くんて、そんな怒り方するの?』
イヤホンからよもぎさんの驚いたような声。
「普段ならヘタクソな演奏でも許せるんだけどね。今はダメ。徹底的に指導してやる」
『一年の子達にもそんな教え方してた?』
「まさか。優しい優しい桧原伊吹先輩が可愛い可愛い一年生にそんなことを?」
『イヤなキレ方』
「僕を怒らせたカリアラが悪い」
不意にビキッっと足元の瓦礫にヒビが入った。カリアラを見ると、すでに立ち上がって鍵盤を叩いていた。やっぱり吹っ飛ばせてもダメージはなしか。こうなったら戦意を根こそぎ刈り取ってやるまでだ。
ハイペリオンのごつい拳で地面を打つ。その瞬間に地面が割れて燃える犬が牙を剥いて僕を丸呑みにしようと下から飛び出してきた。
「意表を突く展開は悪くない」
しかしそこまでだ。僕をまるごとぱくんと食いつこうと大口を開けた燃える犬は、ハイペリオンの拳の圧力にがっちり抑え込まれて口を閉じられないでいた。
「でも大きな音で聴き手を驚かせる前に、繊細でかすかな音色のメロディを聴かせて注意を引きつけないと。それじゃただびっくりして終わりだろ?」
ハイペリオンのもう片方の手を燃える犬の口の中に突っ込ませる。狙いを外さない方に、ゆっくりと小さなリズムでベースを響かせて。
「こんな風にだ」
触れない圧力に抑え込まれて動けない燃える犬の舌をぎゅっと握る。実際には触っていない。触れない圧力で空気ごと締め付けてやってるだけだ。なので狙いがずれないようにベースをゆっくり慎重に弾く。
燃える犬が身をよじる。もう遅い。しっかり掴んだよ。
ここから音のリズムをがらっと変える。一気に引っこ抜くように力強く、大胆なラインで音を駆け上らせる。
燃える犬を地面から引きずり出して、そのままの勢いで空中に放り投げ、それを追ってハイペリオンも高く飛ぶ。空中で悶える燃える犬を追い抜き、両手の拳を組んで燃える犬の顔面に渾身のベースの音を叩きつけてやる。
燃える犬はギャンッと鳴き声を上げてカリアラの元へ落ちていった。カリアラに激突する寸前にカリアラが演奏を止めて燃える犬の姿が掻き消えた。さすがにそこまで熱くなっていないか。カリアラはじっと僕を睨みつけている。
ハイペリオンが音もなく僕の背後に舞い降りる。
「なあ、カリアラ」
僕はゆっくりと視線を上げてカリアラの大きな複眼を見据えた。カマキリの形をした人影がびくっと身構える。
「な、何よ」
「アルテア・パルテスタと同じ世界からやって来た奏者だか知らないけど、おまえ、センスないよ」
「……!」
「僕の敵じゃないな。今帰れば、もう許してやる」
と、すべてにおいて僕がカリアラを上回り、これで決着がつくと思った。怒っていたせいか、冷静さがいつもとは違うベクトルを向いていたらしく、僕の中に油断があったようだ。
勝利とは相手の心を完璧にへし折ること。
よもぎさんの言葉だ。
カリアラの心はまだ折れてなく、そしてさすがこの世界の神様の一人であるアルテア・パルテスタは、カリアラにとっては幸運を、敵である僕にとってはアンラッキー以外の何者でもないイベントを発生させた。
制限なしの最強の奏者がぶつかるこの戦場にいてはいけない二人が現れたのだ。
「イブキ! 助太刀するぞ!」
「イブキさん! ポータルの固定に成功しました! いつでも帰れます!」
バローロとテテだった。
迂闊にも僕はカリアラから目をそらし、心に浮かんだやばいって思いがそのまま表情に出てしまった。
そして対峙していたカリアラがそれを見逃すはずがなく、瞬時にターゲットを切り替えて煉獄オルガンを奏でながらバローロとテテの二人に突っ込んでいった。
まだ僕の方が二人に近い。ハイペリオンを跳ばし、僕も駆ける。間一髪、ハイペリオンで燃える犬を弾き飛ばした時、再び最悪の偶然が舞い降りた。
煉獄オルガンが吹き上げた地獄の炎が僕に降りかかってきたのだ。でもハイペリオンフィールドの効果で炎すら僕には触れることができない。僕の周囲を包んで掻き消えた。しかし、僕は思わず声を上げてしまった。
「あっちぃ!」
あ、これは、まずい。しまった。こうなるとは思わなかった。
カリアラの方を振り返ってみる。
そこには意地悪そうに笑う色っぽいメスカマキリがいた。
「弱点を二つも見つけちゃった」