5
5
「ねえちょっと! ヨモギに何があったの! さっきどうやってヨモギとしゃべってたの!」
細い腕でしっかりとしがみつくエルミタージュの怒った顔をちらっと覗き込む。彼女は歯を食いしばるようにして高さの恐怖に耐えながら至近距離で僕を真っ直ぐに見据えていた。
着ている服の装飾や可動ギミックのある横笛を見る限り、彼女の世界の文明レベルはそんなに低くもなくきっと機械類も存在するだろうけど、ケータイって機械をどう言ったら解りやすく説明できるのか、僕にはちょっと自信がなかった。結局、無視することにする。
「黙って、舌を噛むぞ」
ハイペリオンが壁を蹴るように両足を揃えて突き出した。廃墟同然のボロボロになった宮殿の壁が音を立てずに角砂糖が砕けるみたいに粉々になり、天井にはゴリラの形の穴が開き、僕達は青空へと昇っていった。
「どこ行くの! ヨモギはどこにいるのよ!」
「魔法研究舎って言ってた」
テテの職場だ。そういえばテテと約束したな。テテ専用のメガネを作ってやること。そしてあの子の下宿先と職場との距離を近付けてやること。ハイペリオンを使って建物ごとすぐ近くのお引越し。その建物こそ魔法研究舎だ。目印は、とんがった屋根に縦に三つ並んだ鐘。
「だからどこよ!」
「すぐそこ!」
宮殿を飛び抜けて青空に躍り出た。ハイペリオンのジャンプの勢いもちょうど弱くなり景色の流れも緩やかになる。僕はしがみついているエルミタージュをくいと押し退けて問題の建物を探した。
えーと、鐘が三つ、鐘が三つ。そこによもぎさんがいる。助けを求めている。僕が来るのを待っている。
「みつけ」
宮殿の屋根越しに、そう遠くない距離に鐘が縦に三つ並んだ特徴的な塔が見えた。あれだ。間違いない。
ハイペリオンが重力に引かれて落下し始める。僕はコントラバスに弓を叩きつけるようにして強く弾いた。重低音がお腹の底まで震えさせる。
「飛べ!」
ハイペリオンは空気を蹴った。バスドラムを思い切り打ったような爆音がして雷みたいに空気がびりびり震えた。
ハイペリオンは宮殿の上空を斜めに切り裂いて魔法研究舎の塔へ突っ込んでいった。
「いやあああっ!」
周りの景色が粉を吹き飛ばすようにちりぢりになって後ろにすっ飛んでいく。エルミタージュの甲高い悲鳴がさらに1オクターブ上がった気がした。これは落下じゃない。急降下だ。ぐんぐん地面が近付いてくる。
「突っ込むぞ!」
獲物を狙うハヤブサのように風を切って急降下する黄金の巨大ゴリラは、空中でくるりと姿勢を立て直す。上半身を反らし、両腕を大きく振りかぶって、頭の上で組んだ両手を一気に振り下ろした。
ハイペリオンの拳が直撃すると、魔法研究舎塔はまるで自動ドアが開くみたいに壁の一部がきれいにスライドして壊れ、ハイペリオンはその開いた口に巨体を音もなくにゅるっと滑り込ませた。
「うわ、なんだこれ?」
目の前が急に真っ暗になった。
明るい外から急に屋内に飛び込んだせいだけじゃない。塔の中は明かりがなく、完全に暗闇だった。
ハイペリオンを着地させる。壁に開いた穴から陽の光が流れ込んで暗闇が払われた。ここはどうやらただの書庫か。誰もいない広々とした空間は本棚に囲まれていてまるで人の気配がない。
塔の一画は巨大ゴリラがいても狭苦しさを感じないほど十分に広さと高さがあった。僕達が飛び込んだ塔の真ん中くらいの書庫には扉がいくつかあり、塔そのものもけっこう複雑そうな構造だ。
「どうするの、イブキ」
まだ僕の腕に抱きついたままのエルミタージュがキョロキョロと落ち着きなく首を動かす。
「上か、下か」
まだまだ上に階層がありそうだし、当然下にもフロアがいくつもあるだろう。このフロアにもまだ部屋があるはずだ。
エルミタージュは天井を見上げ、僕は足元を覗き込んだ。そして僕達は見つめ合い、お互い曖昧な笑顔で笑い合った。
「階段探そ」
「一気に行くぞ」
二人同時に言う。エルミタージュはやっぱりと言うように諦め気味の引きつった顔になった。
「もう好きにして」
そう言って僕にしな垂れて抱きついてくる。女の子にそんなこと言われちゃったらもう思考停止しちゃうだろうけど、残念ながら今はそんな場合じゃない。
「じゃあ遠慮なく」
そして遠慮なく容赦なく力一杯ハイペリオンで床をぶち抜く。ハイペリオンの両拳を床に叩きつける。床を形作っていたブロックやレンガ、木枠などがそれぞれ触れ合わないよう浮かび上がり、次の瞬間には音もなく階下に降り落ちていった。当然足元がぽっかりなくなった僕達も落ちて行く。
重力に引かれて徐々に加速する自然落下。二階分、三階分とすごい勢いで瓦礫とともに落下する。
すると落下を始めてすぐに明かりが灯ったフロアに着いた。窓は塞がれていたが、火の灯された小さなランプがあちこちに置かれている。ぱっと見、人影は見つけられないが、ここに違いない。ここによもぎさんがいるはずだ。
ハイペリオンの力を反発させる。たくさんの瓦礫も一緒にふわっと床に着地し、僕はハイペリオンとともに叫んだ。
「よもぎさあんっ!」
僕の声はわんわんと石壁に反響し、でもどこからも返事はなくすぐに泥に染み込むみたいに消えていった。
窓は全部黒いカーテンで塞がれているみたいだ。頭上から降り注ぐ光が照らし出す舞い上がった埃が、まるで静かな湖に漂う朝霧みたいにゆらゆらと視界を霞めている。火の灯ったランプの頼りない明かりがさらにそれを幻想的に見せつけ、薄暗くて澱んだ深い森に立っているように錯覚させる。
と、頭上でかすかな音がした。乾いた木を擦り合わせたような音だ。
見上げる。
ハイペリオンが塔をぶち抜いたせいで陽の光が斜めに差し込んで逆光になって何も見えない。
「ねえ、誰もいないよ」
エルミタージュが僕の腕を掴む手にきゅっと力を込める。この子も今の音を聞いたのか?
「……ッ!」
いや、聞こえる。頭上じゃない、足元だ。
「イブキ! エルミー!」
今度こそしっかりとした野太い声が僕達の耳に届いた。少し抑えた短く切ったバローロの声が。
「バローロ! どこよ!」
エルミタージュがパートナーの名を呼んでその姿を探した。声は足元からする。あ。ひょっとしてハイペリオンが崩した瓦礫に埋もれた、とか? えーと、これは事故だ。ごめん。
しかしその心配は杞憂だった。ぱくんと床石の一つが扉のように押し開かれ、そこから子豚の顔をした小人が顔を覗かせた。バローロの能力、アバウトセブンドワーフズだ。
「こっちだ! はやく!」
ASD達の間からバローロが顔を出し、太い眉毛をぎゅっと寄せて険しい顔付きで手招きした。こっちって、地下室か、それ?
エルミタージュの背中に手を添えて、ASD達が彼女を床の扉の中に引っ張りこむのを見届ける。地下室と言うより床下にある空間を無理矢理小部屋に仕立てたような作りだ。そのくせ扉はやたら頑丈そうだ。
「イブキも早く入れ」
バローロが手を伸ばす。
その時、また頭上で音がした。さっきのような木を擦り合わせた音じゃない。貝殻やカニの甲羅を打ち合わせたようなとても硬質な音だ。
「何か、いるのか?」
僕は頭上を仰ぎ見た。薄暗い塔に差し込む陽の光が視界を遮っている。天井近く、僕がぶち破った穴の辺りに何か動くものが見え……。
「イブキ!」
そこで僕はバローロのごつごつした手で首根っこを掴まれて床の扉に引きずり込まれた。ASD達が扉を閉める瞬間、何か、得体の知れないモノが蠢くのが見えたような気がした。