第8章 アルテア・パルテスタの再来 1
第8章 アルテア・パルテスタの再来
1
空気を弾く弦の音。まるでオーケストラだ。何十人もの衛兵達がいっせいに弓を放つ。堅く張った弦を弾く音は好きだ。
やや緩めの弧を描いて青空を引き裂くみたいに飛んでくる弓矢の群れ。ひゅうと鳴く鳥の群れのようだ。
僕は少しだけその弓矢の歌声に耳を傾けて、応えるように音を合わせてコントラバスの弓を振るった。
青空を真っ黒く覆い尽くすような矢の大群が、僕とエルミタージュを射抜こうと重力に引かれて鋭い角度で襲いかかってくる。
さあ、ひさしぶりだな、黄金ゴリラ。規格外の僕の力を存分に見せつけてやろうじゃないか。
巨大黄金ゴリラのハイペリオンが僕の影の中から入道雲が沸き立つように姿を現し、ぶ厚い胸板をごつい手で激しく叩く。ゴリラが自分の力を誇示する行為、ドラミングだ。
ハイペリオンの雄叫び一閃で、弓矢の大群は大型魚を避ける小魚の群れみたいにぎゅるっと滑らかに角度を変えてパラパラと力なく石畳に落ちていった。
「さすがに数が多いなあ」
思わずつぶやいてしまう。
深い森を背負うように建てられた立派な宮殿は、山の斜面を利用して階段状に階層を連ねており、奥に行けば行くほど高くそして狭くなっていて非常に攻めにくい宮殿となっていた。
ところどころに小さな塔が立っていて見張りの衛兵がこっちを望遠鏡で覗き込んでいるのが見える。
「ハイペリオンで一気にけりをつけちゃいなよ」
エルミタージュが軽く言う。まさに他人事だ。ずいぶん簡単に言ってくれるよ。君のこと放ったらかしていいならそうするし。
「あまり僕達と距離が開き過ぎると、僕達の無敵状態も解除されちゃうから慎重にやんないと」
ゆっくり弓矢の雨の中を歩き進めると、木々の隙間に僕とよもぎさんが暮らした小さな塔が見えた。あそこでテテが待っているはずだった。
「ひょっとして、イブキって、あたしのことも守ってくれてるの?」
エルミタージュがちらっと僕の方を覗き込んで言った。ひゅん、そんな彼女のすぐ側を矢が降る。
「ひょっとしなくても、そのつもりだよ。僕は言ったろ? みんなを完璧に守るって」
さらに何本も僕とエルミタージュのすぐ側を矢が滑り落ちる。ハイペリオンフィールドの中にいなければ矢は避けてくれず突き刺さっていたかもしれない。僕だってもちろんのこと、若い樹みたいに細いエルミタージュに直撃したらとんでもないダメージを食らうぞ。
「んー。まあ、あたしみたいにヨモギに負けない美少女を守りたいって男の子の気持ちは解らないでもないけど、あんまりあたしを舐めない事」
「どういう事?」
絶好のツッコミどころはスルーしとく。異世界人にボケツッコミが成立するかわかんないし。
「あたしだって異界の奏者なのよ。闘技場では土と砂しかなくって苦労したけど、ここではあたしは女王様よ」
女王様ランキング第一位のよもぎさん以外にも女王様ランカーが現れたか。ここではって言ったけど、ここって?
「ここって事は、森?」
「あたしのエバーグリーンは植物を自在にコントロールできるの。異界の植物だろうが、加工品だろうが、ね」
エルミタージュが小さくぷっくりとした唇に横笛を当てた。緑色した髪の毛が少し膨らむ。息を溜めているんだな。
エルミタージュが澄んだ音色を奏で始めた瞬間、森の木々が踊りだしたみたいにざわめき始めた。宮殿に向かって冷たい風が吹き抜け、葉っぱが信じられない早さで生い茂り、陽の光を遮り辺りを暗くしていく。
「おまえって、すごいんだな」
いつのまにかエルミタージュを包み込むように大きな薔薇の花束みたいなエバーグリーンが姿を現し、細くしなやかな両腕を森全体の指揮をとるように大きく広げた。
降りしきる弓矢が葉っぱに当たってバラバラと音を立てる。
「イブキ、行くよ!」
エルミタージュが短く叫ぶ。
「笛吹きながら喋れないのが欠点だな」
僕のツッコミをじろりと睨んで返すエルミタージュ。はいはい、真面目にやります。
宮殿へと続く整備された石畳の坂道は、両脇からわさわさと侵略してきたざわめく濃い緑色の森に覆い隠され、僕達の姿を見失ったのか弓矢の雨が止んだ。
「ごめんよ、エルミタージュ」
僕はエルミタージュの細いウエストに腕を回し、片腕で抱え込むように抱き上げた。ひょい、と思っていた通り相当軽い。
「ちょ、イブキ! 何すんのよ!」
「よもぎさんより全然軽いな。もっと食わないといい女にはなれないぞ」
右腕にエルミタージュ、左腕にコントラバスを持ち、僕はハイペリオンを見上げた。弓矢の雨を弾いていた黄金ゴリラは、散歩に出るのが楽しみで待ちきれないって顔した室内犬みたいなキラキラした目で僕を見下ろしていた。
「ぶっ壊すぞ」
この黄金ゴリラは僕の言葉を理解できるのか、ニヤリと笑って見せたような気がした。
僕の腕から逃げようともがいていたエルミタージュを抱き直して、彼女のウエストに回した右腕で左手に構えたコントラバスの弦に触れる。そんなことができちゃうくらいエルミタージュは細い。よもぎさんを抱いた時にも細い人だと思ったけど、こいつの場合は骨格からして細さのレベルが違うな。
「舌噛むから歯を食いしばってろ」
ジタバタするエルミタージュに一言告げて、力強く弦を弾いて固い芯のある重めの音をざわめく森に解き放ってやった。
ハイペリオンが大きな手で僕とエルミタージュをぐいと掴む。いや、掴むと言うよりも、触れる事ができないハイペリオンフィールドで手のひらに僕達を押し付けて固定した、って感じか。冷たくないちょうど人肌のぬるさの水に全身を包まれたような軽い圧迫感だ。
「なにすんのよ、イブキ! 説明しろって!」
「飛ぶよ」
ハイペリオンが姿勢を低くして脚にパワーを溜める。
「飛ぶって、どこに?」
「一気に」
「答えになってないやあああっ!」
エルミタージュは最後まで言えなかったようだ。大きな力に頭を押さえつけられるような重力を全身に感じて、周囲の緑色した風景が崩れるようにがくんと視界から落ちていく。エルミタージュの甲高い悲鳴を置き去りにして、僕達は空高く舞い上がった。
「ちょっと待ってええっ!」
と、エルミタージュが叫んだところでもちろん僕は待つつもりはないし、待ちたくても物理法則がそれを許さない。飛び上がったモノは必ず落ちるんだ。
身体を押さえつけるGがふっと弱くなった。下に下にと溶けていく景色がやけにゆっくりと見える。耳をかすめていた風の音が柔らかくなってついには止んでしまう。どうやらハイペリオンの跳躍は頂点に達したようだ。あとは、そう、落っこちるだけ。兄王が待つ宮殿のど真ん中へ。
「止まったあ? あ! ああああっ!」
エルミタージュの悲鳴の質が変わったような気がする。大ジャンプの時はびっくりした悲鳴で、落っこちる時は泣き出しそうな悲鳴。元の世界に戻れたらエルミタージュを絶叫マシンに乗せてみたいな。どんな声を上げるやら。
強い風を頬に感じながら、ハイペリオンの指の隙間から下を覗いてみる。舞い上がるエルミタージュの緑の髪が邪魔だけど、ぐんぐん近付いて来る石造りの宮殿が見えた。門番の衛兵達を余裕で飛び越えて直接宮殿内に突入だ。
「エルミタージュ、突っ込むぞ!」
「うるさあいっ!」
うるさいって言われても、もう着地寸前だ。どうにもできないよ。視界がうわっと暗くなった。内臓をぐいっと押し上げていた落下感が急に萎んでいき、代わりに頭をすごい力で押さえつけるGが襲いかかってきた。超スピードのエレベーターに乗ったらきっとこんな感じなんだろうな。
宮殿の屋上が眼下に迫る。ハイペリオンは唸りを上げて黄金の豪腕を突き出した。
宮殿を構築している灰色の石は大きなブロックとして切り出し、それをセメント状のモノで接着しているようだ。ハイペリオンが触れた瞬間、正確には触れる一瞬前にハイペリオンフィールドが宮殿を形作るブロックを包み込む。そして磁石の同極を近付けたみたいにふっと反発して一つのブロックが浮き出した。そこへハイペリオンの拳が捻じ込まれる。あとはそれの連鎖だ。
柔らかいゼリーなんだけど型崩れしない形状記憶ゼリーの山に沈んでいくハイペリオン。宮殿の屋上を二つに割って巨体がめり込んでいく。柔らかい粘土で出来ているかのように、ほとんど抵抗もなくするすると形を変えていく宮殿。
よし、とりあえず侵入成功だ。
ハイペリオンが上半身を起こして胸を張る。僕はハイペリオンフィールドを狭めさせた。このままじゃ宮殿の底まで突き抜けてしまう。どんっと、堅いものに着地した感触が全身にぶつかってきた。うん、着地成功か。
短い両足を踏ん張って仁王立ちするハイペリオンの手の中からのそのそと這い出す。ここはどこだ?
さすがにこんな大胆な突破をしてくるなんて誰も予想できなかったんだろう。宮殿内はすごく静かで、衛兵がみんな正面玄関の警護についているのか辺りに人の気配はなかった。
着地したここは例の晩餐会を開いたホールだ。天井を仰ぎ見るとぽっかり空いた穴から青空が見える。風が舞って垂れ下がったシルクのベールがふわりふわりとなびいている。
さて、あの豪気な性格の兄王陛下の事だ。どこかに隠れたりしないで堂々と王の椅子に踏ん反り返って座っているに違いない。そこで待ってな、兄王陛下。
「エルミタージュ、行くぞ」
僕はようやく黄金ゴリラの手の中から出て来たエルミタージュに声をかけた。むくり、黙ったまま起き上がる。
「殺す気かああっ!」
開口一番、蹴られた。