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明かり取りの小窓がまばらに並んでいる程度の薄暗い石張りの廊下を、僕は緊張が全身に満ちてくるのを感じながらよもぎ先輩の後ろをついて歩いた。この先に何が待ち構えているのか。自然と肩に力が入ってしまう。僕の夢だろうが、よもぎ先輩の夢の中だろうが、あるいは正真正銘の現実だろうが、僕はここを歩くしかないんだ。
歓声が津波のように押し寄せてくる訳でもなく、足を踏み鳴らす地鳴りが空気を震わせる訳でもなく、しかし大勢の人間の気配を感じる。いや、気配なんて不確かなものではない。抑えきれない熱気と言うか、積もり積もった興奮と言うか。とてつもない数の人間達のささやきがさざ波として僕達の足元を洗っている。
結局、僕は何をしたらいいのか、誰も説明してくれなかった。思うように戦えばいいだなんて言われたって、楽器を持ってどう戦うんだか。そもそも喧嘩なんてしたくもないし、人と争うのも好きじゃない。あ、それじゃますます草食系確定じゃないか。
「伊吹くん」
よもぎ先輩が足を止めて振り返る。いつも通りの表情だ。どこか楽しそうに口許を緩ませ、それでも切れ長の目はしっかりとこっちの視線を捕らえて離さない力を持っている。そんな可愛らしい表情を持っていても、ジュピターを歌いたいからと言ってホルストの早弾きを椅子を蹴って強要したり、速攻で焼きそばパン買ってこいと言っては焼きそばだけ食べて残りのパンをご褒美としてくれたりする人だ。油断はできないぞ。
「何も説明しなくてごめん」
いきなり謝られた。天変地異の前触れか。
「でも伊吹くんにダイレクトに感じて欲しかったんだ」
ギターを片手に持ち替えて、よもぎ先輩は僕に手を差し出した。思いきり開かれたその掌は背の高い彼女の身体付きのように細く長くしなやかで、柔らかい指が僕を待っていた。
「何を感じればいいんですか?」
僕は彼女と手を繋いだ。
「しびれるほどのライブ感」
そしてよもぎ先輩は廊下の突き当たり、あふれる光の中へと飛び込んでいった。
あまりの明るさに目が眩み、場が沸騰したような怒濤の歓声に耳鳴りがした。視界は真っ白くて何も視えない。轟音のあまりに何も聴こえない。よもぎ先輩と手を繋いでいなければ真っ直ぐ立つこともできずにへたり込んでいたかも知れない。
音の洪水はやがて一定のリズムを生み出して手拍子へと変調していった。白く塗りつぶされた視界も折り重なった光が徐々に取り払われて青く澄んだ世界が見えてきた。
円形闘技場だ。ざっくりと青空を丸く切り取ったように乳白色の闘技場の石壁と空の青さとがくっきりと線を描いていた。雲一つない怖いくらい真っ青な空を天井に、淡い白に統一された色調が人々の熱気で霞んで見える。階段状の観客席にはものすごい数の人達が僕とよもぎ先輩の登場に手を叩いていた。この国の人間は髪の毛が茶色系かくすんだ金髪で、やや日焼けしたような肌の色をしているようだ。同系色がうわーっと密集しているのでまるで観客席がモザイクがかったうねりに見える。サッカーのスタジアムよりは狭いだろうが、360度ぐるりと観客に囲まれているせいで音のシャワーが全方位から浴びせられた。
「やばいでしょ」
形のいい鼻の穴をぷくっと膨らませるよもぎ先輩。相当血がたぎっているようだ。こんなよもぎ先輩は初めて見る。
「やばいね、うん、やばい」
僕は立ちすくむだけ。場の雰囲気に飲まれてしまっている。やばいのは闘技場の空気ではなく、僕自身だ。どうした、桧原伊吹。この程度のライブ会場で飲み込まれるようじゃオーケストラ参加なんて夢のまた夢だぞ。
「最初の頃は、私みたいな線の細い美少女が来る場所じゃなかったみたいで、全然盛り上がってなかったんだ」
うっかりスルーしてしまったが、さらっと自意識過剰なこと言ったぞ、この人。でもいまつっこんだらどうなるか怖いんでやめておく。血がたぎっているよもぎ先輩はきっと肉食獣だ。草食動物な僕はおとなしく草葉の陰に隠れておこう。
「でも戦闘を重ねるごとに私の音楽が浸透してきたみたいで、今ではこの盛り上がり」
この熱気とうねりはまさしくスターを出迎えるオーディエンスだ。よもぎ先輩は大きく空を仰いで胸いっぱいに熱い空気を吸い込んだ。
「この世界には、ロックンロールが存在しなかったの。夢は夢でも、ロックのない世界はまさに悪夢だ」
ロックって、よもぎ先輩はクラシックを専門とする弦楽部部長じゃないか。そんなにロック漬けなら軽音部にでも入っちゃえばよかったのに。あ、そうだ、言おう言おうと思っていたことがあったんだ。
「でもよもぎ先輩のギター、電気なくってどうするんですか?」
「夢だもん。なんでもあり」
ぱちっ。一瞬よもぎ先輩の手元が青白いスパークを発したように見えたよもぎ先輩がすっと右手を高く振りかざす。そのしなやかな指先にはいつのまにかピックが挟まれていた。そして間髪入れず叩きつけるようにギターを掻き鳴らす。
アンプもなくプラグも挿していないのに、よもぎ先輩のギターから電気で増幅された太い音がほとばしった。電気音は燃え盛る炎を包む消火剤のように闘技場から湧き立っていた歓声を消し去り、後にはよもぎ先輩のギターの余韻だけがいつまでも鳴り響いていた。
闘技場がすり鉢状をしていて確かに音を反響させて遠くまで届かせる効果があるとはいえ、ギター一本であの沸騰を夜の湖みたいに静まり返えさせるなんて、これは普通の音じゃない。
「これが私達の力。異世界から召喚された奏者の能力、らしいよ。きっと伊吹くんにもこんな力があるはず」
よもぎ先輩の腕からは未だに強い静電気のようなスパークが弾けている。僕のコントラバスにもこんなすごい音が秘められているのだろうか。でもこれは至って普通の弦楽器だ。電気を使う訳ではない。そんなすごい音は出せない楽器だ。
よもぎ先輩のギターの余韻が地面に染み入るように消えた頃、観客席の誰かが大声を張り上げて何かを語り出した。
「戦いが始まるみたい。私はセッションって呼んでるけど」
「でも、遠くて何言ってるかよく聞き取れない。何て言ってるんだろ?」
観客のざわめきが再び沸きあがってきて、さらにその立ち上がった人物の声がかき消されていった。
「いいの。あれはあそこら辺に陣取ってるお偉方に対する口上だから」
よもぎ先輩は切れ長の目をさらに細めて指差した。
「一番高い席に座ってて赤いパラソルで日除けしている人見える?」
距離にして五十メートルくらいあるか、確かにそこら中の観客席とは全然違う区画がある。席の間隔がゆったりとした一画で、その真ん中には大きく赤い日傘が二つかけられていて、特別に大きな椅子に座っている人がかろうじて見えてとれる。お偉方の中でもさらに偉い人って雰囲気がびんびん出ている。
「なんとか」
「あれが、この兄弟国の兄王様。あの周りがいわゆる王様のイエスマンってとこ。国の大臣とか、議員とか。さっきのいやらしいモウゼンもいやがる」
いやいや、メガネ男子ランカーにはさすがに遠過ぎてもはや見分けがつかない。ぼんやりと色分けされている、くらいしか見えないって。人物まで見分けが効かない。あの黒っぽい塊がモウゼンか。
「そして反対側。あっちは弟王の特別シート。青い一団が見えるでしょ」
えーと、無理。青っぽい集団はいるっぽいが。
「あそこまで遠いとメガネ男子には未知の領域です」
「いいから」
うわ。一言でばっさり斬り捨てられた。
「じゃあ、観客席の真ん中に壁は見えるでしょ?」
それくらいなら見える。確かに闘技場を半分に分けるように、観客席には一部大きな壁がそそり立っている。
「あの壁のこっち側が兄王国で、あっち側が弟王国。ここは兄弟の王様が治める兄弟国の国境に建てられた闘技場なんだ」
なるほど、一つの円形闘技場だと思っていたが、実際は二つの半円状の闘技場をくっつけた形になっているのか。
「私達はあの兄弟王の代わりに戦う戦争代理人。異世界から呼び出されて、ものすごい傍迷惑な国家レベルの兄弟喧嘩に巻き込まれたって訳」
国家レベルの兄弟喧嘩って、スケールが大きいのか小さいのかどっちなんだ。
「戦争代理人を雇うなんてやめて、自分達で殴り合えばいいのに。ほんと、いい迷惑だよ」
「ほんとに。まあ、でも、ちょっとはおもしろいんだけどね、この戦争代理人っての」
よもぎ先輩を見ると、確かに悪戯を思いついた時と同じ表情をしていた。少しうつむくようにして前髪で顔を隠し、でも隠しきれていない口元がにやりと笑っている。
「うわー、悪そうな笑顔。よもぎ先輩がそんな顔してる時って、僕に無理難題ふっかける時なんだよなー」
「失礼な。かわいい後輩への愛ある指導だ」
寒いからコーラを温めろとか、眠いから眠くなりそうな曲を弾けとか。愛のかけらもないぞ。
「あんまりいい思い出ないですよ。愛ある指導だなんて」
「そう? 愛しているよ、伊吹くん」
「絶対うそだ」
迂闊にも、愛してるってフレーズを聞いた時、どきっとしてしまった。反則だ、そんなの。もう、よもぎ先輩のために頑張ってしまいそうだ。女王様ランキングだけじゃなく、悪女ランキングにも投票してやる。
「このセッションが終わったら、美味しいものでも食べながら私の知っていること全教えてあげるから、とにかく今はいい演奏することだけを考えな」
「はいはい、それでお願いします。もう何が何だかさっぱりわかんない。そういえばお昼ごはんまだだったからお腹空いてきたし」
僕は観客席を見上げるのをやめて視線を闘技場の底、つまり戦いの場である僕達が立つ地面に戻した。
いつのまにか闘技場には僕とよもぎ先輩の他に二人立っているのに気付いた。ちょうど僕達が出てきた兄王側入場口の反対側、弟王の足下の入場口から入ってきたらしく、少し僕達とは違うシルエットの二人は闘技場を分断する国境線のセンターライン近くに立っていた。向こうも男女ペアのようだ。
「あの子達が対戦相手。おもしろい演奏する子だよ」
よもぎ先輩がまるで街角で顔馴染みを見つけたみたいに彼らにヒラヒラと手を振った。