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 暗転。

 子供の頃、自転車で川に突っ込んだことがある。補助輪を外せたことがまるで自分がレベルアップしたかのように嬉しくて、夢中になってどれだけ速く走れるか河原で特訓して、調子にのってしまいあまりのスピードに曲りきれずそのまま川にダイブ。幸い浅く流れも緩やかな川だったから大事には至らなかったが、あのダイブした瞬間の地面が無くなり自分を支えるものが消え失せるという恐怖感を思い出した。

 前に進んでいたベクトルが急に下向きになったかと思うと、何かが顔面に覆い被さってきて何も見えなくなり、落下のベクトルが今度は僕の周りを螺旋を描くように捻じ曲がる。内臓がうわっと持ち上がったかと思えば、次の瞬間には頭の血がすーっと落ちていく。

 背中に堅く大きな物が触れた。無意識にそれを手で抑えようとしたが、今度は顔から胸のあたりまで柔らかくて温かい物が押し付けられてそれらに挟まれるような形になりどうすることもできず、僕はただこの目眩が早く鎮まることを願うしかなかった。

「ずいぶん待たせてくれましたね。逃げたかと思いましたよ」

 しわがれた声。

 誰かいる。僕とよもぎ先輩の他に何者かが側にいる。そう気付いたとき、顔に押し付けられていたものが動いて視界が明るくなった。それと同時にやけに細長い繊維の束のようなものが頬を撫でる。ふわり、石鹸の香りが鼻をくすぐった。

 よもぎ先輩だ。僕に押し付けられていたものは彼女の身体だった。長い黒髪が柔らかな液体みたいに僕を撫で付けて離れていく。僕に抱きついていたよもぎ先輩が身体を起こして立ち上がった。そこで初めて、僕は石張りの床に横たわっていることに気付いた。よもぎ先輩の細い身体を抱きしめながら。ああ、なんかもったいないことした。もっとじっくり確かめるべきだった。この感触を忘れるなよ、僕の皮膚。

「ほら伊吹くん、立て」

 ようやく目眩が治まって、よもぎ先輩の声に従って立ち上がって周囲を見回した。

 天井が高い。この部屋自体はさほど大きくない。教室の半分くらいの広さだ。それなのに天井がうんと高いせいで狭苦しいという印象が薄れる。壁は装飾の施された石面で窓は見当たらない。大きな燭台に何本もの極太のロウソクが突き立ち、頼りない灯りをゆらゆらとともしている。じじじとロウソクの炎の音が聞こえるほどに静まり返った薄暗い室内に、僕とよもぎ先輩の他に四つの人影があった。

 僕は少しギクリとしてよもぎ先輩に一歩近付く。

「こちらの方が、新たな奏者ですかな?」

 再びしわがれた声。どこか棘を含んだその声は石壁に吸い込まれ消えていった。

「言うまでもないでしょ。私は助っ人を呼んでくるって言ったはず。そしてちゃんと戻ってきた。何か問題でも?」

 応えるよもぎ先輩の声もどことなく攻撃的だった。あ、いつものことか。

 しわがれた声の持ち主はよもぎ先輩から僕に視線を移し、僕を品定めするかのように爪先から頭の天辺までじっとりと睨み付けた。

「ようこそ、アトラミネイリアへ。私は執政代行官のモウゼンと申します」

 いや待て待て。そんなことよりさっき倒れてた時、よもぎ先輩の髪が僕の頬に触れたよな。で、視界が真っ黒だったのはたぶんあの黒いドレスのせいだ。思い出せ、思い出せ僕の皮膚よ。僕達はどんな体制だった?あの感触はよもぎ先輩のどの部分だ?僕の両手はどこら辺をさまよっていた?

「こら伊吹くん。あいさつしな」

 よもぎ先輩に後頭部をぺちんと叩かれる。

「いやいや、ただいま混乱中につき情報整理と記憶統合をしてますんで、どうぞ僕抜きで進めちゃってください」

 そもそも、ここはどこだ?空間の大きさから社の中ではあり得ない。別の場所? どこかに運ばれた? いつ? そして何故? よもぎ先輩のコスプレから推測してサプライズパーティーか。僕を拉致って、動揺しまくって油断しまくっているところを、誕生日おめでとー!とケーキが出てくる。ないな。僕の誕生日は十二月だ。ないない。

「だから何度も言ってるでしょ。これは私の夢なんだって」

 夢、か。で、どっちの夢? よもぎ先輩の夢に僕がゲストとして招待されたのか? それとも僕の夢によもぎ先輩が乱入してるのか?

 ふと、モウゼンと名乗ったしわがれ声の偉そうにしている初老の男と視線がぶつかった。

「えー、どうも。桧原伊吹です。ここ、どこですか?」

「ヒバラ・イブキ、か。まだ少年ではないか」

 モウゼン執政代行官と言ったか、偉そうに金の鎖で装飾された黒いマントを羽織って、やれやれといった感じでわざとらしく大きく首を横に振って僕の側に倒れずに立っていたコントラバスのケースに手を伸ばした。

 しかし僕はそれを許さない。ほぼ反射的に伸ばされた彼の腕を掴み、強い意思を込めた視線を叩く付けてやる。

「勝手に人の楽器に触れるな」

 コントラバスのケースがぶーんと唸りを上げた。触ってもいないのに、不思議と僕が鳴らしたという感覚がある。

「ヨモギと言い君と言い、まだまだ少年少女の姿だが、立派な奏者だとでも言いたいのかね」

 なんかこのおっさん嫌いだ、呼び捨てでいいな。モウゼンは僕の手を振り払い、よもぎ先輩に向き直って苛立ちを隠しきれていない口調で言い捨てた。

「奏者ヨモギ、もうずいぶん王を待たせているんだ。すぐに支度し闘技場へ奏者イブキを連れてきたまえ」

 よもぎ先輩は鼻を鳴らしてそれに応える。

「言われなくても。伊吹くんの実力を見せつけてやるから」

「グラン、後は任せる」

 モウゼンはそう言い残し、マントを翻して大きな音を立てて扉を開け放って部屋から出ていった。執政代行官とやらのお付きの人だったのか、胸に勲章っぽいのをぶら下げた中年おっさん二人も結局一言も発することなくモウゼンの後に続いた。

 薄暗い飾り気のない部屋に残されたのは僕とよもぎ先輩と、あと一人、いかにも兵士と呼ぶにふさわしい精悍な顔付きの、使いこなした感のあるぶ厚そうな革製のジャケットを着こなした剣士。

 歳の頃三十を越えたくらいか、くすんだ茶色い短髪のグランと呼ばれた剣士は、腰に差した二本の剣をかちゃりと鳴らして僕に悪意のなさそうな人懐っこい笑顔を見せて歩み寄ってきた。

 百歩譲ってここが僕の夢、千歩譲ってよもぎ先輩の夢だとしても、剣を携えた見知らぬ人物に近付かれていい気持ちがする訳ない。

 僕は自然とよもぎ先輩を守るように低い振動音を発しているコントラバスのケースを抱えて彼の前に立ちはだかった。

 それに気付いたのか、グランは歯を見せて笑った。こちらもつられて笑いたくなるような爽やかな笑い声が高い天井にこだまする。

「なかなかだな、少年」

 そして右手を差し出した。握手、でいいのかな。

「俺はグラン・バルトリア少佐だ。奏者のお守り役を仰せつかっている。グランと呼んでくれ」

「じゃあ僕は少年じゃなくイブキって呼んでもらえます?」

 彼の右手を握る。ぎゅっと想像以上力強く握られて思わず握手の手を見てしまう。そこで初めて、彼が四本指だということに気付いた。事故や怪我で指を欠損している訳ではなく、もともと掌が小さく親指とそれと向かい合う三本の太い指があるという形をしている。

「そうだな。君はレディを守る立派な紳士だ。失礼した、イブキ」

 真正面からグランを見据え、僕達との相違点をもう一つ見つけた。

 耳だ。耳が大きくとんがっている。その先端は短い毛に覆われていて、まるで猫や犬のようにせわしなく動いていた。

「さあ、モウゼン代行官の言う通りもうだいぶ時間を費やしてしまった。まずは戦闘に適した装いに着替えようか」

 そう言うとグランはがっしりとした筋肉質な腕で僕の身体をやたら触りだした。やめてくれ。少し、いや、相当気味悪いぞ。

「草ばかり食ってそうな顔しているが、なかなか鍛えているな。素晴らしい演奏を期待しているぞ」

 夢の世界でも草食系かよ。あー、そうですか。

 コントラバスはその楽器そのものの大きさもあって、演奏するにはそれなりの腕力が必要になる曲面もある。それによもぎ先輩にはたまにウッドベースとしてジャズやらロックやらも弾かされているので、おかげさまで上半身はわりと鍛えてあるのだ。

 グランはさっさと歩きだして部屋から出て行った。何もかもが僕の理解を越えた辺りで回っている気がして、取り残された感を味わっている僕はよもぎ先輩に助け舟の出航を要請しようと、さっきから何も語らずじっと見守ってくれていたよもぎ先輩に心の奥底から湧き上がっている疑問をぶつけてみた。

「で、結局なんなんですか、これって」

「だから、夢。あきらめな、世界はもう回っているんだから」

 そしてよもぎ先輩もギターを抱えて部屋から出て行ってしまった。

 世界はもう回っている、か。

 つと、扉の向こうからよもぎ先輩がひょいと顔を出した。長い黒髪がさらさらと流れ、彼女の笑顔を際立たせていた。

「さっきはかっこよかったな。惚れ直したぞ」

 え、いま何て言った?


 グランはさっき僕の身体に触れた時にサイズを見立てていたのか、彼が用意してくれた装備は僕にピッタリの大きさだった。少佐にしとくなんてもったいない。マネージャーに雇いたいくらいだ。

 まず黒を基調としたタキシードみたいなピシッとした服装を着させられた。ブーツは膝まであるかなりしっかりとしたもので、革製だが硬すぎることもなく足首も曲げ伸ばししやすい。ベルトで何箇所もしめるデザインはよもぎ先輩のものとお揃いのようだ。そしてよもぎ先輩も身に付けている特徴的な防具を装備させられた。思っていたよりも軽く腕を動かすのに邪魔にならないくらいパーツがよく動いた。

よもぎ先輩はエレキギターだから両方の腕を守るようなデザインで、僕のは弓を操る右腕は小さく肘から下を覆う程度で、コントラバスを支えて弦を押さえる左腕は肩からカニの甲羅のようにしっかりと腕を守ってくれる。左右非対称なデザインがすごく気に入った。

 着替え部屋として案内された部屋から出ると、すぐ側の壁によりかかってギターをチューニングしているよもぎ先輩の姿を見つけた。

 片方の膝を折り曲げて壁に足の裏を押し付けて固定し、そこに愛用の銀色のギターを乗せて軽く弦を弾いていく。黒いドレスと白い肌のコントラストが、石壁をくりぬいた窓から差し込む陽光によく映えていた。こうしていると、本当にきれいな人だな、と僕は見とれてしまった。これで攻撃的な性格じゃなかったら。

 僕が部屋から出てきたのに気付くと、彼女は小さく頷いた。

「うん。さすがメガネ男子ランキング第二位。決まってる」

「え? 五位じゃなかったっけ? ランクアップしたんですか?」

 思わず口に出てしまった。学園女子による男子ランキング投票サイトは、表向きには男子には極秘情報となっている。当然、僕がそれを知っているということを、よもぎ先輩に知られてはまずいのだ。男共が裏でレジスタンス活動をしているのがばれると、非常にやっかいなことになりそうだ。

「なんで、ランキング知っている?」

 よもぎ先輩が首を傾げる。まずい、ここはこちらから先制攻撃してごまかさないと。

「てか、よもぎ先輩もランキングに投票しているんですか?」

「……」

「……」

 お互いしばしの沈黙。じっと見つめあい、あうんの呼吸で今の会話はなかったことにしようと無言で頷きあった。

「あ、そういえば」

 無理矢理話題を変えてみる。

「さっき、惚れ直したって言いませんでした? それって、ほんと?」

 あんまり変わってない気もするが、とりあえず攻撃を続けてみる。何か微妙な変化が訪れるかも知れない。

「……私が? なぜ?」

 いやいや、なぜって。なぜって言われても。

「僕の、聞き違いですか?」

「さあ? それより準備はいい? ライブが始まるよ」

 結局よもぎ先輩はにこっと微笑んでだけで僕の問いかけには答えてくれず、くるりときれいな背中を見せてくれただけだった。



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